himawari episode.07


   講義を終えて、バイトを終えて、家に帰る。冬休みが明けてからもう二週間以上が経過して、当たり前になっていた日常があっさりと戻ってきた。エミちゃんにはインフルで約束がだめになった分だとショッピングに駆り出され、部活のない日にスイミングクラブへ行く郁ちゃんとはお出かけさえ出来ていないものの、学校では出来るだけ毎日顔を合わせるようにしている。毎日すごく楽しいのに、それでも、ふとしたときに気持ちが下向きになってしまう。
   生憎座ることの出来なかった帰りの電車に揺られ、ドアを背をもたれながらスマホを手に取る。何件かメッセージの通知が来ていた。

" バイトお疲れ様 "
" 何度か連絡してるんだけど、合宿で忙しいのかな。茅はハルから連絡あった? "
" 茅〜!今度バイト休みの日いつ〜? "
" 今日おばあちゃんちの野菜送っておいたからね。それと−− "

   ざわ、と胸の奥が嫌なふうに騒いだ。いつもは郁ちゃんからのメッセージが真っ先に目につくのに、新着メッセージが並ぶトーク画面の中で一際目立って見える。

" 茅はハルから連絡あった? "

   真琴くんだ。体調を心配する連絡をくれていたから、大丈夫であることを伝えて、遠野くんと郁ちゃんから聞いた話も尋ねてみた。
   あの日以来、真琴くんとハルちゃんのことについて触れたのは初めてだ。もしかしたら体調面で気を遣って聞きたくても聞かずにいてくれたのかもしれない。ハルちゃんからまだ連絡なさそう?と送ったメッセージの返答は二人から聞いた内容とほとんど変わらないもの。真琴くんがどんな顔をしてこれを送ってくれたのか想像出来て、少し胸が苦しくなる。
   真琴くんとのトーク画面を閉じて別のトーク画面を開いてみた。もう何度も見返してはいるけれど、今でも私から最後に送った一文が残されたままなにひとつ動きを見せていない。なんだか、見るたびに胸騒ぎの音が大きくなっているような気がする。

" ハルちゃん、"

   なんて送ったら返事をもらえるのか。そんなことを考えて、新しくメッセージを打ち込んだ手がすぐに止まる。
   今までハルちゃんからの連絡が急に無くなることなんて何度もあったのに、どうしてこんなに胸がざわつくんだろう。どうして電話で『一人だ』って言ったハルちゃんの声が、耳にこびりついているんだろう。どうして、ハルちゃんは来てくれなかったんだろう。どうして−−
   ゴールのない考えを巡りに巡らせて首を横に振った。気にしてばかりいても仕方がないって頭ではちゃんと分かってるつもりだ。ハルちゃんのことだから、きっとすごく頑張ってる。郁ちゃんだって、ハルちゃんならきっと大丈夫って言ってたもん。
   もう一度出そうになった溜め息をぐっと飲み込んで顔を上げた−−ときだった。スマホに気を取られている間に電車がとある駅に着いて停車していた。

「えっ」

   声が、漏れる。
   電車が停まっただけでもちろん驚いたりしない。私が乗っている電車の反対側、同じように停まっている電車の中。私の最寄りのひとつ前の、ハルちゃんの最寄駅。思わず勢いよく窓ガラスに触れると俯いていたふたつの青色が二枚のガラス越しに見開かれた。


『 −−茅 』


   薄く開かれた唇に名前を紡がれる。確証はないけど、絶対にそうだと思った。

「はるちゃん、」

   届くはずのない状態で名前を呼ぶ。すぐ隣の座席に腰掛けていた人が一瞬顔をこちらに向けたのが視界の端に映ったけど、そんなの全然気にならない。瞬きをするのも忘れて久しぶりに見るその顔から目を逸らせないでいると、ぐっと眉間に皺を寄せたハルちゃんが逃げるように身体を反対方向へ向けた。

「っ、ハルちゃん」

   通話ボタンをタップしてから、弾かれるように電車を飛び出した。電車は発車間近ということもあって幸いなことに周囲に人はいない。スマホを耳に当てながらホームにある階段を駆け上がり、反対側のホームを目指す。そこにいるはずなのに、すぐそこにいるのに、コール音が鳴り止むことはない。全然長くないこの距離がすごく遠い場所に感じる。

「遙!!!」

   反対側のホームへ足をつけた瞬間に声を投げる。電車の扉が軽快な音を鳴らしながら閉じていく。閉じる寸前の隙間からハルちゃんへ声が届いたのかどうか、分かる術はたったひとつしかなかった。

「っ……まって、はるちゃん」

   確かめたい。会って、顔を見て、話がしたい。それなのに、電車はゆっくりと走り始めてしまう。勝手に止まっていた足でよろよろ追いかけると乗車後の閑散としたホームに弱くなった声がぽろりと落ちた。スマホは今でもハルちゃんを呼び続けている。それに触発されるように短く深く、息を吸った。

「っ行かないで、ハルちゃん!!」

   観客席にいるときと同じくらい大きな声をお腹から弾き出す。口にした願いは虚しく、電車はどんどんスピードを上げて、小さくなって、夜の東京へとあっさり姿を消してしまった。
   は、は、と短い息を刻みながら視線をゆっくり地面へと落としていく。走ったあとよりもずっと呼吸が浅い。それから比べものにならないくらい、痛い。胸が痛い。すごくすごく痛い。じわあと視界が滲むのが嫌でも分かった。下唇をきゅっと噛んで堪えて、持ったままのスマホを握りしめる。

『おかけになった番号は、現在使われていないか、電波の届かないところに−−−…』

   いつの間にか鳴り止んでいたコール音の代わりにいつぞやのお姉さんのアナウンスが流れていた。もう聞きたくないとすら思っていたのに、私はまたこの声を聞いている。
   ほんとはね、知らんぷり、してたんだよ。そんなわけないって、思ったから。そんなはずないって、思いたかったんだよ。これまでのハルちゃんの行動はきっと何か仕方のないことで、ハルちゃんの気持ちはこれっぽっちもないんだって思っていたかった。
   でも、ちがう。本当はちがうって、ずっと気づいてた。だから連絡がないことにそわそわしてたし、いつもとちがうって思ってた。年末のあの日、ハルちゃんの意思は確かにあって、私はあの場に一人で残されたんだ。そして今も、明確に、はっきりと、ハルちゃんに拒絶をされている。

   認めたくなかった事実がどんどん身体の中に入ってきて、侵食してきて、視界が勝手にゆらめいて、耐えきれなくなった何かがとうとうぽたりとコンクリートに黒いシミを作る。それがどんどん面積を広げるたび、冷たく鋭いものが身体を蝕んでいった。


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