himawari episode.06


   " −−ハルちゃん、どこに、"


「うわ!?」

   バチン!!と乾いた音が響く。学食という喧騒に包まれた空間ではさほど目立ちはしなかったものの、隣に席に座っていたマホちゃんが驚いて声をあげた。お向かいに座るエミちゃんとその隣のミオちゃんも何事かと目を丸くしている。

「なんだー?どうした?」
「………か」
「か?」
「蚊がいた……!!」
「マジか。仕留めた?」
「逃しちゃった」
「顔は刺されたら嫌よねー」
「いやいや今一月だぞ?」

   じんじんと痛む手のひらで、これまたじんじんと痛む叩いたばかりの頬を抑えながら最後の一口を口に含む。冬休み明け初日、記念すべき最初のランチは鯖味噌定食にした。特に理由はない。そう、絶対にない。年始から学校が始まるまでの数日をインフルと戦うことに費やしてしまったから、栄養をつけなきゃいけないだけなんだ。ごちそうさま、と手を合わせてから席を立ち、四人並んで返却カウンターへと向かう。あれ?私食べるの一番遅かったんだ。全然気がつかなかったなあ。
   ややぼんやりとしながらカウンターへ食器を返して食堂棟の外へ出る。ぴゅう、と冷たい風が私たちの間を通り抜けていく。寒さに弱いミオちゃんが「さっむ!」と声をあげて腕を組んだ。その首にはいつもマフラーが巻かれているけれど今日は外気に晒されている。間違えて洗濯しちゃった、今日夜までバイトなのにと今朝口を尖らせていた。着ているコートも首まで覆うものタイプではないし、あれではきっと寒いだろう。席を立つ際に巻かずに肩にかけてきた自分のマフラーの両端をそれぞれ両手にかけ、潜るように外したそれで今度はミオちゃんの頭を潜らせた。

「そんなミオちゃんには私のぬくもりを特別にレンタルしちゃいましょ〜」
「あったか!って、いいよいいよ、茅病み上がりじゃん」
「もう全然平気だよ!ミオちゃんは今日も夜までバイトなんだから、ちょっとでも身体あたためておかなくちゃもたないよ」
「うう〜っ、ありがとう茅ー!大好きー!」

   感極まったような声を出すミオちゃんにぎゅうっと力強く抱きしめられる。私よりも背の高いミオちゃんからのあつい抱擁によろめきつつ私も好きー!と明るく返すと、ミオちゃんから嬉しそうな声が降ってきた。私もつられて笑えばエミちゃんとマホちゃんが見守るように微笑んでくれる。なんて平和な空間なんだ。
   ひとしきりぬくもりを分けあったところでどちらからともなく身体を離し、次の講義のある場所へと足を向ける。隣を歩くミオちゃんが「あーあ」と残念そうにぼやいた。

「早く春にならないかなあ」
「私たちにもそろそろ別の春が来てほしいところなんですけどお」
「あはは!それもある〜!」

   マホちゃんの同意にミオちゃんがけらけらと笑う。さっきと同じ、平和な空気感。そのはずなのに、私の思考はそこでぴたりと一時停止してしまった。

「茅とエミばっかリア充ずるいぞー!」
「そうだそうだー」
「でもマホは冬休み中に合コン行ったって言ってなかった?」
「それね、ちょっと聞いてよ。そのときいた人と今度さー…」

   エミちゃんが二人の会話に参加しても、マホちゃんが恋バナをスタートさせても、私はたった数秒前に聞こえた単語に置いてきぼりにされていた。勝手に速くなった心拍数がほんの少し苦しく感じる。胸元に手を置いてこっそり深呼吸をして落ち着かせていると「あっ」マホちゃんが声を落とした。

「じゃあ茅、私たち先に行ってるね」
「へ?先?どうして?」
「インフルのせいで年明けてから一度も会ってないんでしょ?」
「そうよ。寂しい思いさせてたんだから」
「ほらほら、挨拶しておいで〜?」

   挨拶?突然のことに何が何だか分からないまま、三人の顔が向いているほうへ振り返る。お昼の時間帯で様々な人が行き交う賑やかな校庭内でも不思議なことにその姿はすぐに見つけることが出来た。

「あっ!郁ちゃん!」

   ぱあっと自分の表情が華やぐのが分かる。ここでようやく言葉の意味を理解した。郁ちゃんのいるほうと三人に交互に目をやると「行きなさいよ」とエミちゃんに背中を押される。ありがとう!と言い残してその場をすぐに駆け出した。

「あけましておめでとう!………って、郁ちゃんどうしたの?」
「……おめでとう。別にどうもしてないよ」
「ふふ、そうだね。どうもしてないよね」

   郁ちゃんの隣で意味ありげにくすくす笑っているのはお馴染みの遠野くんで、郁ちゃんはというと何故だかむすりとした表情を浮かべていた。「日和」と名前を呼びながら少し睨んでいるから、きっと遠野くんが何か言ったんだろうけど全く見当がつかない。「ごめんごめん。おめでとう瀬戸さん」と反省の色が見えない様子で謝る遠野くんと、それに納得がいかない表情を浮かべる郁ちゃんをぽかんと見上げていると、郁ちゃんの大きな瞳がこちらを向いた。

「体調はもう大丈夫?」
「うん!もうすっかり!」
「ああ、そういえば瀬戸さん、年始からインフルかかってたんだって?せっかくの帰省なのに大変だったね」
「うーん、まあでも、毎年の付き合いだからなあ」
「そんな親戚みたいな」

   遠野くんが苦笑いを浮かべる。けらけらと笑い飛ばしていたら「……ねえ」と呼ばれてそちらを向く。何かを訴えるように郁ちゃんがとんとんと自分自身の頬を右手で指差していた。

「……ここ、どうしたの?」
「ほっぺた?どうかしてる?」
「赤くなってる」
「赤く……?あ、さっき叩いたからかな」
「……誰かにされた?自分で?」
「自分で!だって蚊がいたんだよ。蚊が」
「今一月だよね?」

   遠野くんの台詞はさっきマホちゃんからも聞いたものとほとんど同じだった。怪訝そうに言われてもいたものはいたんだ。雑念という名の蚊が。心の片隅で思ったことをごくんと飲み込むと頬に郁ちゃんの手が伸びてきた。さっきまでじんじんしていたところに指先が優しく触れる。

「痛くない?」
「痛くないよ!全然!」
「そう?……ならいいけど、あんまり変なことしないでよ」
「へ、へんなこと……!」
「痕になったりしたらどうするの」

   眉をひそめて言う郁ちゃんの声が少し低くなった。怒ってる、じゃなくて、心配してくれてる。まるで壊れそうなものを確かめるみたいに、優しく大事に、指先が頬をするりと撫でた。触れられている場所からだんだん染み込むように身体が熱くなる。

「き、きをつけ、ます」
「そうして。あと体調も、気をつけてよ」

   目の前をふわっと何かがとおって、優しい香りが鼻をくすぐる。同時に首元がじんわりとあたたかくなった。

「マフラー忘れたの?」
「ううん。ミオちゃんが寒そうだったから、レンタル中で」
「……病み上がりなんだから、自分のことも大事にしてよね」

   されるがままにマフラーを巻き付けられる。巻き終わってからもふわふわと優しい香りにずっと包まれていて、郁ちゃんのにおいなんだって気がついた。私があげたマフラー。あげてからまだ一ヶ月も経ってないのに、もう郁ちゃんのにおいに染まってるんだ。それくらい使ってくれてるってことが分かる。
   さっきまで低かったはずの郁ちゃんの声はもうすっかり柔らかい声になっていてますます頬が熱くなった。また会えない時間が出来てしまったからか、心臓に悪い。直視が出来ずに少し俯いて、でもなんだか惜しくて視線だけをすぐにちらりと戻す。
   するとさっきまで穏やかな眼差しでこちらを見下ろしていたはずの郁ちゃんがなんとも言えない顔で遠野くんを見ていた。うん?と気になって顔ごとそちらに向けて、すぐに気がついた。遠野くん、ものすごくにこにこ……ちがう、にやにやしてる。

「いいからいいから。僕のことは気にしないで。続けて」
「続けるわけないでしょ。続きとかないし」
「別にいいのに。さっきも郁弥、瀬戸さんのこと見つけるのすごく早かったしね。食堂から出てきてすぐ、」
「日和!」

   さっきよりも強い口調で遠野くんを呼ぶ。びっくりしたのは私だけで、呼ばれた当の本人は「ふふ、ごめんごめん」とまたしても反省の色を浮かべずに謝っている。なるほど、きっとこのやり取りがあったから郁ちゃんが会ったときにむすっとしてたんだ。
   仲良しだなあ。そう思うと自然と顔が綻んで、それから、気持ちがちょっとだけ下を向いた。二人が仲が良いことなんてずっと前から知っていて、当たり前なことのはずなのに。なんだか今は、すごく羨ましい。

「そうだ。瀬戸さん、年明けてから七瀬くんには会った?」
「えっ」

   どく、と心臓が嫌な跳ね方をした。突然出てきた名前と突然投げかけられた質問に身体のあちこちが強張っていく。

「橘くんが七瀬くんとあまり連絡取れないみたいで、心配してたからさ」
「ああ……言ってたね。メール送ってるけど返ってこないって」

   なんて答えようか。思考を巡らせるよりも前に遠野くんが質問の理由を口にした。郁ちゃんや遠野くん、椎名くんは新しい年になってから真琴くんや宗介がいるスイミングクラブでも練習に励むようになった。おそらく真琴くんの話はそこで聞いてきたんだろうと思う。

「ううん。私も会ってないや」

   連絡もとれてないよ、と付け足してへらりと笑う。でも遙なら大丈夫だよ。絶対大丈夫だよ。みんながいるから。いつもならここでそんな言葉がいくつも出てくるのに、今日は浮かびもしない。あの日送ったあのメッセージには、今も既読の文字すらついていないのに。

「大丈夫だよ。ハルならきっと」

   影がかかりはじめる心にとおったのは芯を持った郁ちゃんの声だった。その表情はなんだかすごく力強くて頼もしくて、ちょっぴり眩しいくらいに見える。ぎゅう、と胸が締めつけられた。それは次第にずきずきとしたものに変わって、誤魔化すようにこっそりと拳を握る。切り忘れていた爪の先が手のひらに食い込んで少しだけちりっと痛んだ。
   友達の前で、郁ちゃんの前で、ちゃんと笑顔になれるのに。どうしたって何度も思い出してしまう。あたたかい雨粒が頬にだけ落ちるあの日を、思い出してしまう。


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