himawari first side story


   トンネルを潜った先にある、普段通っているスポーツ健康学部棟。ブリッジを渡った先にある、郁ちゃんたちが練習に励むプールが収容されている総合体育館。足を運び慣れた場所からそうでない場所まで。辿り着く先々で「あのときエミちゃんと、」「あのとき日和が、」と約九ヶ月で出来た思い出たちを披露し合いながら人のいないキャンパスをあちこち見て回り、唯一鍵が開いていた校舎を最後に見つけた。一階を通ったときに電気のついた研究室があったから、きっと誰かいるんだろう。邪魔にならないようにと早々に二階を目指して階段を上がる。

「そういえば帰ってくるの随分早かったね」

   ふと気になったことを聞いてみると「あー……」と首の後ろに手を当てながら少し気まずそうに声を漏らした。

「夜に茅と会うって兄貴に言ったら、あんまり会えてないんだから早く帰れって、先に帰された」
「えっ、そうなの?練習の邪魔しちゃった?」
「大丈夫だよ。午後は元々練習なかったし、兄貴たちがどこか寄ろうって言ってただけだから」

   言われた言葉にいろんな喜びが交錯した。まずひとつめは郁ちゃんが夏也先輩に私のことを話していたこと。私の知る二人の性格上、半ば強引に口を割らされた可能性はあるけれど。ふたつめは郁ちゃんと私に気を遣ってくれたことから、夏也先輩が認めてくれてると読み取れたこと。みっつめは申し訳なく思った私を安心させるように郁ちゃんが真っ先に大丈夫だと言ってくれたこと。よっつめは夏也先輩たちとそんな話をしていたこと、それと二人の仲の良さを想像して微笑ましく感じたこと。
   最後のよっつめを考えるとやっぱり申し訳ない気持ちが若干残ってしまうけど、あとのみっつを思えば気にしないように切り替えるには十分すぎた。

「夏也先輩、郁ちゃんのことがすごく可愛いんだね」
「………もっとほかに言い方あるでしょ」
「ふふ、否定しないんだ?」
「………………」

   あ、黙っちゃった。郁ちゃんも夏也先輩のこと大好きだから、そうやって言われて嬉しいんだろうなあと容易に想像出来る。くすくすと笑っていると「やめて」いつもみたいにむすりと言われてしまった。やめてと言われてすぐにやめられたら苦労はしない。
   笑っているうちに二階へ到着する。満足して笑っていた口を閉ざすと、オレンジ色に染まった静かな校舎に郁ちゃんの足音と私の履いているヒールのコツコツという音だけが響いた。空っぽの手同士が、時々こつんと当たる。久しぶりのデートのせいかな。いつもは暗くなってからじゃないと手を繋がないけど、今日はもう繋ぎたい。本当はバスに乗る前からそう思っていて、駅もバスの中も人目があったから我慢した。でも今は二人きりだし、駄目かなあ。そう思いながらちらりと郁ちゃんを横目で見た。こちらの視線には気づかず前を見ている郁ちゃんの横髪が歩くたびにさらさら揺れていて、どきりとする。なんだか、むずむずする。もっと、ちかづきたい。もっと、ふれたい。さわりたい。

(…………………うん?)

さわりたいって、なんだろう。


「…………あれ、開いてる」

   悶々とし始めた思考に郁ちゃんの呟きが割って入ってくる。はたと考えることをやめて目を向けると、郁ちゃんががらりと横開きのドアを開けていて、教室内に差し込んでいる夕陽が目に飛び込んできた。

「鍵のかけ忘れかな」
「多分ね」

   入ってみる?とも入ろうよとも言わず、二人の足は自然と中へ向かう。普段来る機会のない別学部棟の教室は机が一人一つ用意されていてほぼ均等に並べられている。郁ちゃんも来たのは初めてみたいで、机と机の間を歩きながら「こうゆう教室もあるんだ」とこぼしている。教卓の横で立ったままぐるりと教室を見渡していたら、とある景色が一瞬瞼の裏に浮かんだ。

「…………あっ!」
「ん?」
「郁ちゃん!こっち座って!」

   思いついたことを実行すべく、教室の後ろまで歩みを進めていた郁ちゃんに座る場所を指し示す。歩き回ってあったまっていた身体がテンションの上昇でさらに熱くなる。マフラーを外してから指定した席の右隣の席に腰かけると、言われた通りこちらに来た郁ちゃんも大人しく座ってくれた。ぱちりと絡む視線、この距離感。再現度はかなり高く、じわじわと胸の中に熱いものが広がった。

「この感じ、懐かしいね!」
「………そうだね」

   私の意図を座る前に理解したらしい郁ちゃんがふわりと優しく微笑む。身体を郁ちゃんの方へ向けて後ろを改めて見直して、またちょっと嬉しくなった。奇跡的に縦列の数が一緒だ。

「確かそこが椎名くんで、そこが貴澄くん。遙が一番後ろだったよね」
「うん」
「昼休みに四人が騒いでたの懐かしいなあ」
「別にそんな騒いでないし」
「いやいや、あれは賑やかだったよ」
「旭の声が大きいせいでしょ」
「郁ちゃんだって立ち上がって言い争ったりしてたくせに」
「……………そんなこと覚えてない」

   図星だと言う目がぱっと逸らされた。そんなふうに椎名くんの悪態をつくところも素直じゃない可愛いところも本当に昔のまんま。仲良しの証拠。また嬉しいが積み重なってふふっと笑う。

「中二のときはひとつ後ろで、中三のときは一番後ろだったんだ。遙は一年のときと同じだったから、隣同士だったんだよ」
「ハルと?」
「うん!テストのときにね、落とした鉛筆拾ってくださいって手挙げるの面倒だなって後回しにしてたら、遙がわざと鉛筆落として手挙げてくれたことが二回くらいあるんだよ。テスト終わってからお礼言ったのに頑なに「たまたまだ」って言い張ってた!」
「ふふ、ハルらしい」
「ねー」
「でも手は自分で挙げなよ」
「はあい」

   実は三回目があったんだけどさすがに遙も面倒になったのか手を挙げてくれることはなかった。二度あることは三度なかった、とこぼしたら呆れた顔をされたのをよく覚えている。そんな小さなことさえ遙にはお世話になりっぱなしだったなあ。思い出に浸りながら一番後ろの席へやっていた目を戻す。

−−−息を、呑んだ。

   瞼の裏に浮かんだはずの景色が、現実となって映る。さっきから見てはいたけど。郁ちゃんが頬杖をついて外を眺める姿と、その向こうに広がる冬の夕陽との組み合わせがすごく綺麗で、繊細で、儚い。何度も目を奪われたさらさらの後ろ髪。忘れたくなかった景色が、目の前にある。
   とく、とく、と早くなりはじめる心音に急かされて手が震えるのを堪えながら、音を立てないようにコートのポケットからそうっとスマホを取り出した。迷わずにカメラアプリを起動させる。多分チャンスは一度きり。ブレないように気をつけながらカシャッとシャッター音が響かせた。
   ぱあっと自分の表情が明るくなったのが分かった。すごく、すごく綺麗に撮れた……!目をきらきらさせてスマホを見る私とは裏腹に、眉をひそめた顔がこちらを向く。

「…………今撮ったでしょ」
「うん!」
「そんな自慢げに頷かないでよ」

   へへ、と誤魔化すように笑って躱す。てっきり言われると思った『だめ』も『消してよ』も言わないらしい。

「今度はちゃんと、とっておくんだ」

   それをいいことに、ぽつりとこぼす。もう諦めたり、頭の片隅に置いた思い出の箱の中に大事に閉じ込めたままにしないように。正面向きに座り直してから、写真の下にあるハートマークをタップしてお気に入りフォルダにこっそり追加する。友達の中にはSNSの背景画像を彼氏にしてる人もいるけど、恥ずかしい上にさすがに怒られそうなのでやめておく。もう一度見返してにやついていると−−カシャッ、と再び音がした。

「よく撮れた」

   スマホを見つめていた私にシャッターを押すのは不可能だ。反射的に顔をぱっと上げると、郁ちゃんが悪戯っぽく微笑みながら撮影したてほやほやと思われる写真をこちらに向けているではないか。その中にはうっとりとスマホを眺める私の横姿がばっちりと映されている。

「えっ!なんで撮るの!」
「なんでって。茅が先に撮ったんだから、これでおあいこ」
「お、おあいこ……」

   いちいち言い方が可愛いんだよなあ。そう思う自分と、郁ちゃんってそうゆうことするんだ、って照れる自分が心の内側で混ざり合う。それ以上何も言えなくなって黙って熱くなった顔を俯かせた。

「…………どうかした?」

   中学時代、こうやって並んで過ごしたのはたったの一年で、それでも郁ちゃんのことはよく知っていると思っていたのに。それが違っていたことに頭も気持ちも追いつかない。
   彼女の写真を撮っちゃうところとか。尊敬しているお兄ちゃんに彼女の話するところとか。知人にも他人にも彼女って公言しちゃうところとか。ほかにもまだ、たくさんある。

「茅?」

   そうやって、優しい声色で名前を呼んでくるところも。基本的に"なに?"じゃなくて"どうかした?"って聞いてくれるところも。このふたつは知っていたけど、それさえも、なんだかもう、

「郁ちゃん、ずるい………」

好きで、胸が、いっぱいになる。

   ずるい。そう小さくこぼすので精一杯だった。知らない部分を知っていくことは嬉しいと思うことが増えることで、その分好きが増えることだなんて、知らなかった。机に視線を向けたまま動けずにいるとがたんと席を立つ音がした。突然のことに驚く間もなく、腕を引かれて立たされたときには視界が暗くなる。

「………どう考えてもそっちでしょ。ずるいのは」
「え、えっ」

   耳元で、声がする。抱きしめられているんだと気がつくのにはちょっと時間がかかった。ずるいって、一体なんのことやら。私が投げた言葉なんだから自分に心当たりなんかない。混乱する片隅でそう呑気に構えていられるのも今のうちだけだったと、後から思い知らされる。

「今まで、そんな顔しなかったくせに」
「い、」

   両頬を包まれて目を合わせられたと思ったら、呼ぼうとした声は塞がれて出てこなかった。恥ずかしいからなのか理由は分からないけど、キスしていい?なんて予告はいつもしてくれない。だから急にされるのにはもう慣れたつもりだけど、驚かないわけでもときめかないわけでもない。暴れはじめる心臓の音と柔らかな熱い感触に支配されながら、目をきゅっと閉じて郁ちゃんのコートを握る。
   今までで一番長いキスの途中、新たな感覚にぴくりと身体が跳ね上がった。角度が変わったのだと気がついたときにはまた角度を変えられる。それは二度に留まらず、何度も何度も繰り返された。唇がすれるたびに、鼻から息が漏れてしまう。

「っ、ん………ぷはっ」

   ようやく解放された唇が酸素を求めて開くと、またすぐに抱きしめられて首元に郁ちゃんの顔が埋められる。サラサラの髪がちょっぴりくすぐったい。こんなに近いとまだ早いままの心臓の音が届いてしまいそうだ。だって、いつもとちがう、キスだった。余韻で身体がふわふわする。すっかり狭くなった呼吸を整えていると。

「ひっ!」

   柔らかくて熱い。身に覚えしかない感触が首にも降ってきて思わず高い声が飛び出た。すると途端に背中に回っていた手が私の肩をつかんで、勢いよく郁ちゃんの身体が離れる。一瞬合った瞳には動揺の色が浮かんでて、しまった、みたいな後悔した表情をしていた。

「………っ……ごめん」

   すぐに顔を逸らされて見えなくなってしまう。聞こえてきた切羽詰まったような声の謝罪があまりにも小さくて、びっくりした。そんな"ごめん"は、聞いたことがない。

「もう、行こう」
「いくちゃん、」

   足早に教室を出ようとする背中を慌てて追いかける。いつも歩幅を合わせてくれるのなんて嘘みたいにスタスタと人のいない廊下を歩いていく。さっき通ったときはゆったりと流れていた二人の足音が二倍くらい早くて、すぐに階段まで辿り着きそうだった。

「まって」
「…………」
「待ってって、郁ちゃん」
「…………」
「っ、………郁弥!」

   呼びかけに応じるつもりがないのだと悟って両手で片腕を掴む。歩みは止まったけど顔はこちらに向けてくれない。郁弥、と普段呼ばない名前をもう一度呼ぶと、つかんだ腕の先でぐっと拳を作られたことに気がついた。

「…………ごめん。勝手にして」

   勝手にして、とは。どれを指しているのか考えて、真っ先に首にされたキスのことを思い出して頬が熱くなる。感覚が、熱さが、まだ鮮明に残っている。でもごめんって。そんなふうに謝られたら、私が嫌がったみたいだ。

「ごめん、じゃ、ないよ」

   視線を落として、拙い言葉を紡いだ。加速する心音が頭に響いてくる。さっきみたいなとくとく、なんて可愛いものじゃなくて、ばくばくと荒々しい。

「嫌じゃなかったから、付き合ってるんだから、いいんだよ」

   郁ちゃんをつかまえている腕が震えそうになったのを、力をこめて懸命に隠した。だって、付き合うって、そうゆうことだ。

「よくない」

   真剣な声にはっとして顔を上げた。いつの間にか振り向いていた郁ちゃんの前髪の隙間から眉間に皺が寄っているのが僅かに確認できる。声と同じように顔にも真剣さが滲んでいた。

「茅のこと、大事だから。今よりもっと、大事にしたいって思ってるから、いいはずないでしょ」

   ぱちん、と頭の中でピースが嵌まる。お互いの自宅への出入りを拒む郁ちゃんと、大事にされてんだろ、という宗介の言葉。そ、そうゆう意味か……!特定して別のものだと考えていたわけじゃないけど、こういう意味で言われてるなんて思ってもみなかった。自分の恋愛に対する経験値の低さを改めて思い知る。あれ?だとしたらあの三人はそうゆうつもりで話を聞いていたのかな。変な空気にならなかったのは三人のさりげない優しさのおかげか。ナチュラルにも程がある……ありすぎる!
   今の状況とのダブルパンチで、かああっと顔が熱くなる。どうしよう。また好きが増えてしまった。郁ちゃんってそうゆうこと考えたり、行動に移したり、するんだ。どうしよう。ほんとうに全然、嫌じゃなかった。
   でも今は照れたり浮かれたりしてる場合じゃない。もしもこのままこの場を離れてしまったら、郁ちゃんの中にあるだろう後悔も罪悪感も置いていくことは出来ない。つかんでいた腕を離した両腕を郁ちゃんの首裏へ回して、めいいっぱい抱き寄せた。

「ちょっ、!」
「すき」
「っ、」
「だいすき!」

   逃がすまいと腕の力を強くすると、郁ちゃんの身体がびくりと強張ったのが伝わってきた。

「……なんで今、そうゆうこと言うの」

   低くて頼りない、弱々しい声が聞こえてきて腕を解く。でもまだ逃してなんかあげない。言いたいことはちっとも済んでいない。

「だって、郁ちゃんが申し訳なさそうにしてるの、私も大丈夫じゃないから」

   顔を逸らされないように両手を郁ちゃんの両頬に添える。てっきり目は逸らされるかと思ったけどそんなことはなくて、切なそうにきゅっと結んだ唇も、潤んだように見える大きな瞳も、まっすぐこちらに向けられていた。

「郁ちゃん、いつもごめんって言うから。言わなくたっていいんだよ」
「………言ってないでしょ」
「言ってるよ!だから、ええと、びっくりはするけど………ちょっとずつなら、平気だから、ね」

大事にしてくれて、ありがとう。

   私もさっきね、郁ちゃんに触りたいって思ったんだよ。そう言う勇気はさすがになくて、心の隅に追いやった。いつか言う勇気と覚悟が定まったら、ちゃんと言うんだ。ささやかな決意を込めて見上げれば、大きな瞳がようやくふわりと優しく細められる。

「うん」

   包み込んでいた手からじわりと頬の熱が伝わってくる。私の気持ち、届いたのかな。そう思って役目を終えた手をおろそうすると上から手が被せられて、逃がさないと思っていたはずなのに、逃げられない立場へと逆転していた。
   ………キス、したいなあ。ゆっくり近づいてくれるのがほんの少し、もどかしいと感じる。待ちきれなくて背伸びをしてしまいたくなる。でも結局行動には移せなくて、身を委ねて瞼を落とそうとした、

−−−キーンコーン、カーンコーン……

   と、ほぼ同時だった。どこからかチャイムが鳴り響いたのは。おそらく何限目かの講義が終わる時間で、冬休みの間もチャイムは切っていないんだろう。閉じる予定だった目をぱちくりさせると、郁ちゃんの手と身体がすっと離れていった。たった数秒前まであんなに優しい顔をしていたのに、今は気まずそうというか、照れているというか、不機嫌そうというか、なんとも言えない顔をしている。

「…………こうゆうの多くない?」
「っふ、ふふっ、あはは!そうかも!」

   不満げな呟きに我慢出来ず笑ってしまった。小さく溜め息をこぼす郁ちゃん。もうキスはしないらしい。ちょっと残念に思っているといつも差し出している手をさりげなく取られる。ずっと気になっていた空っぽの手のひらが埋まったことに胸を弾ませたのも束の間、ぱちりと瞬きをするほんの一瞬の隙をついて唇が重なっていた。

「行こっか」

   まるで何もなかったみたいに微笑む郁ちゃんに手を引かれて歩き出す。驚きとときめきの二連続攻撃に耐えかねて「っ、っ、っ!」と言葉にならない声を漏らしていると、今度は郁ちゃんが明るく笑い出した。そうこうしている内に夕陽はすっかり傾いて窓の外は暗くなりはじめている。クリスマスはまだまだ終わらない。



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