himawari first side story


   かなり予定が早まって一度帰宅したと連絡が入ったのは約束より三時間も早い時間。出かける支度を既に終えていた私の心はぱあっと明るく咲いたのち、すぐにしゅんと萎れてしまった。

『……もし用事があるなら約束通りの時間でもいいけど』
「用事ってほどじゃないよ。郁ちゃんと会う前に大学の図書館行こうとしてて、返却期限が今日までなんだよね」

   数日間お世話になった本が今はちょっぴり恨めしい。忘れないようにと鞄の隣に置いてあった本に手を置きながら肩を落とす。せっかく郁ちゃんが早く帰ってきて電話までくれたのに、会うことは叶いそうになかった。

「大学出るときにまた連絡するね。郁ちゃんはそれまでゆっくり休んでて」
『僕も一緒に行くよ』
「え?でも本返すだけだよ?」
『それでもいいから。四時に駅でいい?』
「う、うん!わかった!」
『じゃあ切るね。またあとで』

   遠慮する隙をろくに与えてもらえず、あっという間に通話を切られてしまった。疲れてないわけないのに、いいのかな。申し訳ない気持ちを片隅に残しつつ、早く会えるのが嬉しいという気持ちがむくむくと膨れ上がってきて、顔が勝手ににやけてしまう。そうしている間にも刻一刻と待ち合わせ時間が迫ってくる。もったいないから、遅刻だけは絶対にしたくない。鞄と本、それから大切な紙袋を手にして家を出た。


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   移動が自然と早足になっていたせいで約束より十分も早く駅に着いてしまった。通る人の邪魔にならないようにバス停近くの壁に身体を寄せて辺りを見渡してみた。郁ちゃんの姿はなく、代わりというかなんというか、ここに来るまでもそうだったけど普段よりカップルがやたら視界に入ってくる。クリスマスイブのせいもあるかもしれないけど、郁ちゃんに会えることを意識しているせいのような気がする。おそらく恋人だと思われる男の子の隣にいる女の子たちはみんなきらきらにこにこしていて、とても可愛い。
   妙な焦りみたいなものを感じて鞄から手鏡を取り出し、身だしなみの最終チェックをする。マフラーの邪魔にならないように編み込んでまとめた髪も崩れてない、メイクもよれているところは見当たらない。次は服装を目視してみる。コートの下に着ているマーメイドラインのニットワンピースは今日のために新調した。もう一度手鏡に視線を戻す。お気に入りのピアスもばっちり。エミちゃんがデートのときは揺れるやつにしなさい!と言っていた。何故だかは分からないけど、とにもかくにも身だしなみはばっちりだ。よし、と小さくこぼしながら控えめにガッツポーズをとると、ふっと笑い声が耳に入ってきた。

「わっ、郁ちゃん!」

   声のした方へ目をやれば、一メートルくらい離れたところで郁ちゃんが口元に当てた手の隙間から堪え切れていない笑い声を漏らしていた。いつからいたのか定かではないけれど、状況から察するにしばらく私の様子を見ていたんだろう。

「見てたんなら声かけてよー!」
「ごめん。あまりにも真剣な顔してたから、邪魔しちゃ悪いと思って」

   謝罪の声にも笑い声がまんべんなく散りばめられている。やっぱり面白がって黙って見てたんだ!一瞬斜めを向いた機嫌は会えたことの嬉しさに上書きされてたちまち上を向く。我ながらこんなにちょろくて大丈夫かと心配になりそうだ。

「おかえりなさい!合宿お疲れ様でした」
「うん。ありがと」

   なにはともあれ、無事に合宿が終わって一安心だ。吹っ切れた様子も変わらずで、今もふんわりと優しく笑ってくれている。向けられた笑顔にずきゅんと胸を撃ち抜かれて、思わずウッと声が出そうになった。この前会ったときに思い知って心構えをしていたはずなのに、久しぶりに会う郁ちゃんはクリスマスイブとの相乗効果なのか、いつもよりさらにかっこよく見える。

「どうかした?」
「郁ちゃん、かっこいい……」
「は、」

   キラキラフィルターのかかった視界で郁ちゃんをぼんやり見つめていると顔を覗き込まれて、気づけば口から本音がこぼれ落ちていた。突然の褒め言葉にきょとんとした郁ちゃんは、丸くさせた大きな瞳をだんだん細めて鋭くさせる。

「………なに、急に」
「気がついたら言ってた!」
「なにそれ………意味分かんないんだけど」
「ふふ、可愛いなあ」
「どっちなの」
「どっちもだよ!」

   照れくさそうに手の甲で口元を覆う姿を今度は私が笑う番になった。ほっぺたが赤くなっていることは隠しきれていないのでお見通しだ。

「………それは茅のほうでしょ」

   直接的ではない褒め言葉が予期せず降ってきた。ぽふっと熱くなった顔を勢いよく上げると、さっきまで顔を赤らめていたはずの郁ちゃんがしてやったりな顔をしている。や、やられた……!不意打ちずるい!人のことを棚に上げてわなわなと震えている間に「ほら。バス来るよ」と促されるまま、熱い頬を冷たい空気に晒しながらバス停へと足を向けた。


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   人生初のクリスマスデートの最初の行き先が大学ってどうなんだ。そんなことを今さら頭の隅っこで考えながら図書館をあとにする。冬季休暇中の学内は夏休みと同様にほとんど人気はなく、もう夕方だからか部活動に勤しむ声すら聞こえない。

「茅って図書館使う頻度高いよね」
「そのへんの本屋さんよりスポーツ本の種類多くて便利なんだよ」
「なんか日和もそんなこと言ってたかも」
「遠野くんは本読むの好きだよね。この前難しそうなやつ持ってたし」
「アメリカにいた頃からよく読んでたよ」

   無意識に話題に出た人物を頭にほわんほわんと思い浮かべる。件の難しそうな小説を片手に「瀬戸さんにはちょっと難しいかもね」なんてにこやかに意地悪を言われたことはまだ記憶に新しい。遠野くんにはお世話になっている部分もたくさんあるけれど、いつか何かしらのジャンルでぎゃふんと言わせて郁ちゃんの親友としても認めてもらわねば。そんな計画をこっそりと企てていると。

「これからどうする?」

   隣を歩く郁ちゃんが尋ねてくる。元々晩ごはんを食べる約束しかしていなかったから、これから、と言われて少し考える。クリスマスといえばイルミネーションが王道だろうけど、まだ明るいし綺麗に見える時間帯ではない。そうだなあ、とこぼしながら顎に手を当てる。数秒後、ぴこーん!と頭の中で電球が光った。

「そうだ!学校探検しようよ!」
「探検?」
「うん!キャンパス広くてあんまり行かないところも多いし」
「校舎開いてないんじゃない?」
「研究や部活で使う人がいるから今日まで開いてるところもあるってリサーチ済みです!」

   ワンピースを買いに行ったときに一緒にいたエミちゃんから何気なく言われたことがここで役に立つとは。全然自分の手柄じゃないけどお構いなしで堂々と言ってみせれば、郁ちゃんはふっと笑ってから「あと一時間くらいは開いてるかな」とスマホで時計を確認しはじめた。ちょっとした提案にもこうして前向きに考えて行動に移してくれるところが、実は好きなところのひとつだったりする。

「じゃあどこ行く?」

   スマホをポケットにしまった郁ちゃんの髪がさらりと冷たい風に揺らされて、こっそり息を呑んだ。こんなふうに同じ大学に通っていて、普通に連絡を取り合って、約束して、普通に話せるなんて、しかも今は彼氏彼女だなんて、いつの私が想像出来ただろうか。
   去年渚くんに誘われて遙や真琴くんたちと過ごした岩鳶水泳部クリスマス会もすごく楽しくて、とっても大切な思い出の一ページだけれど。今年はもっと違うところで、別ベクトルですごく特別だ。

「…………どうしたの?」

   また会いたくて、また話したくて、校内を駆け回った春の陽気と初夏の暑さが懐かしい。アメリカよりは全然近い、たった数十センチ先にいる彼が大きな目をぱちくりさせて顔を覗き込んでくる。何も言わないのを不思議に思ったんだろう。少し心配そうに下がってる眉が可愛くて、ふるふると横に首を振った。

「ううん。なんでも!」

   この子のいる季節は、いつだって特別だ。


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