himawari episode.04


「………ここで合ってるよなあ」

   約束の時間、スマホに表示されている真琴くんから送られてきた住所と施設名を目の前にある建物と照らし合わせて確認する。今日は遠野くん考案の『いいこと』を実行するべく足を運んできた。三人にお弁当を作ってから数日後、またお弁当を作ることになるとは。しかも今度は四人分。三人分でも重たいけど、さらに重い。

「おっ、来たな」

   自動ドアをくぐって建物の中に入れば、すぐのところに約束している人物がひらりと手をあげて立っていた。スマホを鞄にしまいこみながらパタパタと駆け寄る。

「夏也先輩!こんにちは!」
「おう。久しぶりだな茅。元気そうじゃねえか」
「お、おおおかげさまで!です!」
「なんでどもるんだよ」

   なんでってそれは、夏也先輩と会うのが久しぶりだからです。正確に言うと、郁ちゃんとお付き合いをするようになってから夏也先輩と会うのが初めてだからです。とはさすがに恥ずかしくてとても言えやしない。シドニー大会観戦のとき、真琴くんがいるスイミングクラブに夏也先輩もいたらしいけど顔を合わせなかったから、会ったのは大学選手権初日以来だ。本音を隠してへらりと笑って誤魔化していると、お弁当が入っている紙袋を攫われた。

「ここまで持ってくるの大変だったでしょ。持つよ」
「あ、ありがとう、ございま、す……?」

   パールブルーのサラサラの髪が揺れる。誰だか分からなくておずおずとした態度を取っていたら眼鏡の奥の瞳が優しく細められた。記憶を辿りに辿って、一人の人物名が頭に浮かぶ。中学時代にも水泳部のみんなから何度か聞いたことがある。

「多分知らないよね、俺のこと」
「真琴くんたちからお話で聞いたことなら、たぶん、何回か!ええと……尚先輩、ですよね」
「うん、合ってる。俺も話には聞いてるよ。郁弥の彼女の瀬戸茅さん?」
「へっ!あ、えっ、!」
「あれ?違った?」
「ちがい!まへん!」

   動揺しすぎて噛んでしまった。だってまさかそんなふうに言われると思わないから。分かりやすく取り乱す私がおかしいのか尚先輩は静かにくすくすと笑ってから、俺も茅って呼んでいいのかな?とさらりと言う。後輩の扱いに対する慣れをひしひしと感じる。数回首を縦に振ってからそのままぺこりと頭を下げた。

「今日はありがとうございます!こうして時間まで取ってもらっちゃって」
「連絡もらったときはびっくりしたよ。どうしようかちょっと迷ったけど、真琴のお墨付きならいいかなと思って」

   表情が柔らかいままの尚先輩にほっと胸を撫で下ろす。実を言うとここに来るまでささやかな葛藤があった。
   お弁当の差し入れを提案してくれたのは遠野くんだけど、私が合宿所にわざわざ出向いたりしていいものか。妨げになるんじゃないか。私情を挟んでいるんじゃないか。悶々とする私を一蹴したのは「茅は絶対、選手の邪魔になるようなことはしないだろ?」という真琴くんの後押しだった。あまりにもあっさりと軽々と言ってくれるものだからついつい甘えて尚先輩に連絡をしてもらって、今に至る。
   回想に浸って安心していると、しばらく私と尚先輩のやりとりを見守っていた夏也先輩が眩しい笑顔を覗かせてきた。郁ちゃんと似てる瞳を向けられて、全然異なる意味で心臓が飛び跳ねる。

「今日はわざわざありがとな」
「ひ!い、いえ!ぜんぜん!」
「………っていうかよ、さっきからなんで俺に緊張してんだ?」

   夏也先輩に図星をぐっさりと突かれてうぐっと言い淀む。ばれていた。いやそりゃあバレるか。言い訳を探そうとも考えたけどすぐに無駄だと判断して、せめてもの逃げで視線をお二人から逸らした。

「す、すみません……彼氏のお兄さんというジャンルの人種と相対するのはなにぶん人生で初めてのことなので……!」
「ああ、そういや茅は郁弥が初めての彼氏だって言ってたな」
「え?誰がですか?」
「日和から聞いたぜ」
「プライバシー……!!」

   筒抜けか!貴澄くんから続く誰も得しない伝言ゲームは一体なんなんだ!

「良かったね夏也。新種の人間になれて」
「……なんか悪意のある言い方だな」
「それはどうかな」
「おい尚」
「あ、そうだ。郁弥にも会っていく?」
「えっ!無理です!」
「ふふ、無理って」
「即答すぎだろ」

   仮にも彼氏だろ、と言って夏也先輩がけらけら笑う。いや仮ではなくて本なんですが。そう言おうかとも迷ったけれど、それよりも伝えたい言葉たちが別のところから湧き上がってくる。

「選手の前では、理性的でいたいんです。でも郁弥の前だとそうじゃないよねみたいなことを真琴くんに言われたので、未熟者のうちは、練習中の郁ちゃんとは出来るだけ会わないように、したいかなって、ここまで来ておいて矛盾してるかもしれないんですけど……!」

   組み立てきれていない言葉を必死になって並べる。郁ちゃんの彼女として、というのももちろんあるけれど、どちらかと言うとコーチを目指す持論みたいなもの。私の中で遙は七瀬遙選手でもあるけど、どうしても郁ちゃんは郁ちゃんでしかない。まだスポーツの外側にいる人間として未熟な証拠。上手く言葉には出来ないけど、ほんの少しだけでも伝わったらいいな。

「大事にしてるんだ。郁弥のこと」

   そう思っていたら、ほんの少しの枠をたった一言で容易に越えられてはっと顔を上げる。言葉の発信元は尚先輩で、先ほどと変わらない穏やかで優しい顔をしていた。嬉しさのあまり、へへへっとだらしのない笑い声がこぼれていく。

「ちなみに本音だけ言うと?」
「今すぐむちゃくちゃ会いたいです!」
「はははは!変わってねえな、そうゆうとこ!」

   尚先輩からの質問には包み隠さず正直に答えた。変わってないと言えば快活に笑う夏也先輩の力強さも変わっていない。郁ちゃんのところへマメに連絡を寄越しているのを見るあたり、弟想いなところも変わっていないんだろう。「−−茅」そんなことを考えていたら少し低くなった声に急に名前を呼ばれて、思わず顔を引き締めた。さっきまで笑っていたはずの夏也先輩が、真剣な顔をしている。

「郁弥のこと、頼むぜ」
「は……−−はい!」

   釣られるように真面目な声で頷けば、夏也先輩はまた頼もしくて明るい笑顔を浮かべてくれた。そのとき、突然ピリリリッとアラーム音が鳴り響く。尚先輩がポケットからスマホを取り出してそれを止めると、夏也先輩が「休憩時間だな」と呟いて何のことだか教えてくれた。

「じゃあお弁当、有り難くいただかせてもらうね」
「はい!」
「食べ終わるまで近くの図書館で勉強してるんだっけ?」
「はい!」
「大丈夫?大変じゃない?」
「はい!楽勝です!取りに来ます!」
「そのときは郁弥に会っていく?」
「はい!………はっ!まちがえた!いいえ!」
「ふ、ふふふ」
「……尚、お前の方がよっぽど面白かってるじゃねえか」
「だってこの子、面白いよ」

   お、おもしろい……?おそらく褒め言葉であろう言葉をくすくす笑いながら口にする尚先輩に首を傾げた。何故だろう。遠野くんに笑われているのと同じような気分になるのは。

「茅、連絡先交換しようぜ」
「わあ!いいんですか!」
「おう。郁弥のことで困ったことがあればいつでも連絡してくれていいからな」
「夏也が相談する側になったりしてね」
「ならねえよ…………多分」
「ふふふ」
「尚!」

   お二人は仲良しなんだなあ。改めて人に恵まれていることを自覚しながら、新しく連絡先に追加された夏也先輩と尚先輩の名前を見ながら施設をあとにした。



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