himawari episode.0


「橘くん?」

   夕焼け色になりかけの太陽の光が教室を通って、歩いている廊下まで差し込んでいる。ミーティングだけだった部活を終えて忘れものを取りに教室へ戻ると、扉のところで立ち尽くしている橘くんを見つけた。

「あ……瀬戸さん。部活の休憩中?」
「今日はミーティングだけだからもう終わったんだ。橘くんは、」

   どうかしたの?そう聞こうとした口がぴたりと動きを止める。近くに寄ったところで、教室の中にひとりいる人物が見えた。

「………ハルちゃん、どうかしたの?」

   机に突っ伏す丸い頭は確かにハルちゃんだ。今年も同じクラスだから席順的にも。それにあの姿はここ数ヶ月のうちに何度も見たから、間違いないはず。でも二年に上がってからは見なくなったのに、今日は一体どうしたんだろう?私の問いかけに橘くんは視線を落とす。ハルちゃんに聞こえないようにするため、ゆっくりと廊下の反対側へとどちらからともなく移動した。

「……分からないんだ。ホームルームのあと一緒に帰ろうって声かけたんだけど、」

   今日はそうゆう気分なのかな。
   眉を下げてへにゃりと力なく笑う橘くんの顔からは、明るさなんて微塵も感じられない。心の底から寂しそうで、見ているこっちの胸が痛くなっちゃうくらい。
   水泳部といえば、今日は陸上部が休みでトラックが空いているからグラウンドで練習すると言っていた気がする。もしかして、それが関係してるのかな。正門から帰るには校庭の横を通らなければいけないから、今のハルちゃんには心苦しいのかも。ハルちゃんは相変わらず何も言わないから、全部憶測に過ぎないけど。


「ハルちゃん」

   気がつけば、ハルちゃんが突っ伏す机の前まで歩いてきていた。途中で橘くんが「瀬戸さん?」と驚いたように呼んでくれたけど、立ち止まる選択肢は無かった。もう一度ハルちゃん、と呼べば、ぴくりと肩がちょっとだけ揺れる。よかった、寝てはいないみたい。


「あのね、ハルちゃん」


:


「あはははっ!ははっ、あは、ゲホッ!ごほっごほっ!」
「ちょっと茅。笑いすぎだって」
「っけほ………んん、だって、凛が、ふ、ふふふっ」

   数時間前、真琴くんの元へ一本の電話がかかってきた。発信元は渚くんで、なんでも凛が遙と水泳勝負して負けたらオーストラリアに行くのをやめるとかなんとか。話を聞きに行った遙が戻ってきて誤解だったと説明してくれた内容が私のツボにヒットした。さすが凛。シスターコンプレックスのいいお手本だ。

「いやあ分かる、すごく分かるよ!江ちゃんすっごく可愛いもんね!……ぷぷっ!」
「もー……凛の前では笑ってやるなよ」
「ふふ、分かってるよう」

   そう言う真琴くんだってさっきからくすくす笑っている。はぁ、おもしろい。笑った笑った。ひとしきり笑ってから遙の入れてくれたお茶を流し込んだ。今はサプライズのためのバルーンを渚くん怜くん江ちゃんが調達に行っているので、七瀬家にて遙と真琴くんと三人で帰りを待っているところ。

「でも本当良かったよ。勘違いでさ」
「……そうだな」

   心の底から安心したように真琴くんが胸を撫で下ろす。頷く遙の声も、渚くんから電話をもらったときには緊縛した空気を纏っていたけれど、今はすごく穏やかだ。きっと安心したんだろう。もう一度ふふっと笑ってから、内心でちょっぴり凛が羨ましいなあと感じた。

「なにがだ」
「へ?」
「凛が羨ましいって言っただろ」
「あれ?声に出てた?」
「うん。出てたよ」

   あれま。聞かれてしまった。ゆるくなっていたらしい口をぱっと押さえてみる。もちろん時すでに遅いので二人は不思議そうにこちらを見たまま。

「二人がね、すごく心配してたから、ちょっといいなって思っただけだよ」

   へらへらと笑って言葉に軽さを含ませる。別に深い意味なんてない。そのまんまの意味。たとえ勘違いだったとしても、挫けそうになったときに飛んできてくれる仲間がいるなんて、なんて素敵なことなんだろう。二人は一度顔を見合わせてから、先にこちらを向いた遙がふっと口元を緩めた。

「安心しろ。お前が夢を諦めるとか言うようなことがあれば呼び出して説教してやる」
「説得の間違いでは」
「説教だな」
「説教だね」
「ぬあ!ま、真琴くんまで!」

   それはなんか求めてるものとちがう!がびーん!とショックを受けていると、真琴くんが柔らかくふふふっと笑う。

「そんな日が来る心配なんて全然してないよ。ね、ハル」
「……………」

   その言葉にほわぁっと胸があたたかくなる。真琴くんが視線を移した遙へと、同意されることを期待して私も視線を移す。言葉を待っていれば代わりに腕が伸びてきて、わしゃわしゃと頭を少し乱暴に撫でられた。「わわ」と言葉が漏れ落ちる。

「茅がこの四年間、妥協して過ごしてないことくらい、知ってる」

   遙は淡々とそう告げて、急須を手にして逃げるようにキッチンへ入っていく。ぱちぱちと数回瞬きをして、ぽかんと口を開く。じわじわとゆっくり言葉が入ってきて、ぱあぁっと顔が緩んでいくのが分かった。

「ふふ、ハルが照れてる」
「………へへへ、うれしいなあ。贅沢だなあ」

   にやにやしながら呟いて、ごろんと畳に寝転がった。手に持っているのは買い替えたばかりのぴかぴかのスマホ。ボタンを押すと卒業式の看板を背景にして今いる三人が卒業証書の入った筒を片手に笑っている。……いや、遙は笑ってないけど。多分心の中で笑っている。なんたって表情が柔らかい。うんうん。あ、そういえば、と思い出してキッチンから戻ってくる遙を呼んだ。

「明後日機種変するんだよね?」
「ああ」
「スマホにしたらロック画面これにしようよ!おそろい!」
「嫌だ。めんどくさい」
「めんどくさくないよ!簡単だよ!お守りになるよ!」
「別に守ってもらわなくていい」
「ちょっとの間でいいからさ」
「めんどくさい」
「真琴くん、ハルちゃんがワガママ言う」
「そっちだろ言ってるのは」
「ははは……でもそれいいよね。俺も機種変したらしばらくそれにしようかな」
「わーい!やったあ!」

   頷いてもらえることなんてはじめから期待していない。真琴くんの言葉にぱっと身体を起こして喜んだ。嬉しいな、三人それぞれ道はちがうけど、四月からまた同じ土地で頑張っていけるなんて。予定を合わせるのはきっと今より難しくなる。でも顔が見られなくたって、二人が頑張っていたら、私も頑張れる。一度にやけた頬のゆるみは簡単に収まらない。遙がお茶を淹れ直してくれる手元を見ているだけなのに、にやにやしっぱなしだ。

「…………わざわざお守りなんかにしなくても、会おうと思えばいつでも会えるだろ」

   湯呑みが置かれる音と一緒に、その声はやってきた。今度は私と真琴くんが顔を見合わせる番になった。またぱちり、と瞬きをする。それから遙の方へ視線をやったのはほぼ同時だった。

「ハルちゃん……」
「ありがとうハルちゃんーー!」
「二人してちゃん付けで呼ぶな」
「ふふ、ごめんごめん、ハル」
「ごめんねえハルちゃん」
「…………」
「あたたたたた!頭つかまないで馬鹿になるから!」
「もうなってる」
「失礼!!」


:
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「凛」

   シドニーの街を走るバスの中、隣に座る凛を呼ぶ。本を読んでいた凛は手を止めて顔を上げるなり、遙が構えていたスマホにすぐ気がついた。カシャッ、と無機質な音がエンジン音の中に一瞬混ざる。

「珍しいな、ハルが写真とかよ」
「まあ……………………たまにはいいだろ」
「なんだよ今の間は」
「……………」


「写真撮って楽しむくらいの余裕は意図的に作っておかなきゃ!」
「いつか凛や郁ちゃんと『初めての世界大会でこんなこともあったなあ』って、笑って話せる内容が増えたらきっと楽しいよ、ハルちゃん!」


「……って、茅が」
「それっぽいこと言って丸め込んでるだけじゃねえのか、それ」

   正直遙もそう思っていた。しかし緊張は意図せずとも勝手にやって来る。張りっぱなしの気を一度緩めるという意味合いでは、少し役に立っているような気がしなくもなかった。スリープ状態になっているスマホのボタンを押せば、ロック画面の中で、片手に卒業証書、片手にピースをつくって嬉しそうにはにかむ彼女と幼馴染、それからいつもとほぼ変わらない表情の自分が卒業式の看板前に並んでいる。

「そういや、ハルのロック画面ずっとそれだよな」
「ああ」

   −−−−。

   一度開いた口を閉ざして、次の言葉を差し替える。凛は少し不思議そうな顔をした。

「………これにしろってうるさかったからな」

   −−お守りだ。
   その言葉は飲み込んで、誰がともあえて言わない。それでも凛には誰を指しているのか気づかれたのか、ははっと軽く笑われる。あいつに甘いよな、ハルは。余計な一言を添えられて。


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