桐嶋郁弥くんという人は、とても綺麗な容姿を持っていて、夢に向かってひたむきに毎日コツコツきちんと努力を重ねられる人で、世界大会とか大きな舞台に立てる人で。はじめはクールでちょっと冷たい人かな?なんて思っていたけど、大学生活に馴染んであろう頃には彼の笑顔はどんどん増えてきて、話しやすくてすごく優しい人なんだって知った。噂によると勉強もそれなりに出来るんだとか。
   そんな完璧みたいな人が偶然同じ大学の偶然同じ水泳部だった私を選んでくれるなんて思ってもみなくて、それだけでもすごく驚きだったのに。

「………」
「……あ、あの」

   ジリジリジリジリ。起きたときは騒がしいなあと思っていた蝉の鳴き声があまり耳に入ってこないくらいには焦っている。
   忙しいこの時期の練習の合間を縫って前から約束していたせっかくのお出かけ、待ち合わせていたカフェでお茶をしたところまでは順調だったのに、どういうわけだかお店を出たあたりから桐嶋くんはだんまりを決め込んで私よりちょっと前を歩いている。心当たりは正直、無いわけではなかった。

「きっ、桐嶋くん…!」

   もう一度、今度は蝉の声に消されないように少し大きめの声で名前を呼ぶとようやく桐嶋くんが振り返る。けどいつもみたいな落ち着いた顔なんかじゃなくて、でも一年の最初のときみたいな冷たい雰囲気とも違って、むっつりと不機嫌を露わにしている顔だった。

「あの、怒ってる…?」
「……そう見える?」
「ええと…み、見えます」

   静かな声に怯みながら素直にこくんと頷く。そうやって聞くってことはやっぱり怒っているんだ。せっかくのお出かけなのに怒らせちゃうなんて。初めてのことで、これ以上どう聞いていいのかも分からなくて、口を閉ざしてしまう。
   そこでぴたりと桐嶋くんの足が止まり、進行方向を変えた。突然のことに驚いて道路沿いに並んでいる木の陰に入った桐嶋くんをぼんやり見ていると「ミョウジさん」と声をかけられた。木の足元には整備されたばかりであろう綺麗なレンガが積まれており、そこに桐嶋くんが腰を預けたのを見て隣に並ぶ。蝉の声がさっきより近く聞こえるけれど、やっぱりそれどころではない。

「……変な態度とってごめん」
「大丈夫だけど、ええと、」
「さっきのカフェの店員さん」
「うっ…」
「ただの知り合いじゃなかったでしょ」

   声色が優しくなったのに安堵したのはほんの一瞬のことで、心当たりをずばりと言い当てられて押し黙る。やっぱり、と思っていたら桐嶋くんが「やっぱり」と私の心の声と同じ言葉をこぼした。
   心当たりというのは、少し遡って待ち合わせのカフェに入ったときのこと。いらっしゃいませ!と明るく迎えてくれた人が高校時代にお付き合いをしていた所謂元彼で、向かい合ってすぐに二人してフリーズしてしまった。
   しかし気さくで明るいタイプの彼はすぐに切り替えて「ナマエじゃん!久しぶり!」と気まずさを感じさせない空気を作って、先に到着していた桐嶋くんの元へ案内してくれた。

「元彼?いつの人?」
「……高校二年の、とき」
「ふーん…」

   ふ、ふーん…!?ふーんなんて初めて言われた…!!驚きのあまり目を目開きながら、ふいっと顔を逸らして言う桐嶋くんの横顔を見上げる。そしてやっぱり、気づかれていた。
   席に座ったあと一部始終を見ていたであろう桐嶋くんが「知り合い?」と尋ねてくれたのに対し、せっかくのデートに水を差してしまうんじゃないかと思って「高校のときの同級生だよ」と嘘じゃない嘘をついた。そうなんだって頷いてくれたからてっきり気づかれていないものかと思ったのに。
   せめて嘘をついたことは謝らなくちゃいけない。いや嘘ではなかったんだけど。そう思って口を開こうとしたとき「ごめん」と口にしたのは桐嶋くんのほうだった。

「なんか悔しくて、ちょっと拗ねてた」
「悔しい…?」
「悔しい」

   思わず尋ねた二回目の悔しいは一回目より少し気持ちがこもっているように聞こえた。しかも、拗ねるって。え?桐嶋くんって拗ねるの?

「え……桐嶋くん、もしかして妬いてくれてるの?」

   おそるおそる尋ねてみると大きな瞳がちらりとこちらを向く。考えるより先に出た言葉に少しだけはっとした。桐嶋くんみたいなよりどりみどりな人がやきもちなんて妬くわけないのに、私ってば何言ってるんだ。綺麗な顔の眉間にはちょっとだけ皺が浮かんだ。

「……悪い?」
「えっ、わ、わるくは、な、」
「ミョウジさんは今、僕の彼女なのに」

   挙動が怪しくなる私を置いてけぼりにして、口まで尖らせた桐嶋くんは「あいつチラチラこっち見てたし。僕が席立ったらわざわざ話しかけにきてたし。なんなの。普通に仲良いし」と呟いている。
   そこでもうひとつ思い当たった。桐嶋くんがお手洗いに行くと席を立ったとき、元彼がいそいそとやって来て「今彼超イケメンじゃん!うわあ〜俺霞むわ〜!」と言っていた。桐嶋くんが言うようにもし本当に何度もこちらを見ていたとしたなら、確実に桐嶋くんがかっこよすぎるせいだと思う。
   普通に仲良いし、という部分については元彼がそうゆう人だからとしか言いようがないけれど、会ったら喋る程度で普段連絡なんて全く取り合っていない。
   弁解する言葉が頭には浮かんでくるのに、声にはならず私の口はぽかんとだらしなく開いているだけ。ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら綺麗な横顔を見つめていると、それに気がついた桐嶋くんが不思議そうに首を傾げた。

「……どうしたの?」
「桐嶋くんみたいな人でもやきもち妬くんだって、びっくりしちゃって」
「……ミョウジさんが知らないだけ。割と妬くほうだと、思うよ」

   ぽつりぽつりと伝えられる言葉は、まるでほかにも思い当たるようなことがあるみたいな言い方だ。「ミョウジさん、誰にでも優しいし。いつもにこにこしてるし」きょとんとしたままでいたらさらに続きの言葉が降ってきて、堪えきれずに思わずふふっと笑ってしまった。

「……笑うとこじゃなくない?」
「ふふ、だって桐嶋くんが私のこと好きなんだって実感できて、嬉しい」

   こんなときにごめんね。と謝罪を付け足しても綻んでしまった頬は緊張を取り戻さない。口元を両手のひらで隠して出来るだけ控えめに笑っているけれど、絶対桐嶋くんにも聞こえているだろう。彼のむっとした表情はなかなか晴れない。

「それって、今まで実感できてなかったってこと?」
「えっ!?いやいやちがうよ!なんか、高嶺の花に手を出してしまったっていうか、夢見心地っていうか、夢みたいで信じられないっていうか」
「信じてなかったんだ?」
「ち、ちがうってばあ…!」

   あたふたと否定するも桐嶋くんの怪しむ目つきは変わってくれない。否定すればするほどなんだか言い訳がましい気がしてきて、うう…と言葉を詰まらせて顔を俯かせると、今度は小さな笑い声が降ってきた。

「ふふ、可愛い」
「へ!?か、かわっ…!?」
「僕のことでいっぱいいっぱいになってくれてるミョウジさんが可愛くて、つい、ごめん」

   ようやく桐嶋くんの顔が綻んだのに、繰り出される言葉の応酬にさらに慌てふためいてしまう。つい、という言葉に意地悪をされたのだと気がついた。あれですか。世間一般で言う好きな子には意地悪したくなるやつですか…!

「たまには好きな子に意地悪したくなったっていいでしょ?」

   思っていることを見透かされて、その上わざとらしく顔を覗き込みながら言ってくるものだから余計に心臓に悪い。ぱくぱくと声が出せないまま口だけを動かすと桐嶋くんはますます笑った。

「でも妬いたのは本当」
「それは、ごめんなさい。ちゃんと言えなくて」
「僕が勝手に妬いただけだし、気にしないで」
「う、うん、ありがとう」

   声も表情もすっかりいつもの桐嶋くんだ。ようやくほかのことにも意識が向いて、木の陰の隙間から入ってくる太陽が熱いと感じる。
   桐嶋くんも同じだったのか「暑いよね。涼しいとこで話せばよかった」とちょっとだけ困ったような顔をして、それから蝉の音が鳴り響く東京の街へ手を引いてくれた。今度は少し後ろじゃなくて、ちゃんと隣。そのことに喜んで安堵したのは束の間のことだった。

「これから時間をかけて教えてあげるから」
「え?なにを?」
「僕がナマエのこと、どれくらい好きかって」

   心の準備も何もしていないところへ投げかけられた言葉にぴしりと身体が固くなる。拗ねたり意地悪なことを言ったり、新しい桐嶋くんでキャパオーバーになりかけていた頭では、言われたことも初めて呼ばれた名前も受け止める容量は残っていなかった。一瞬で顔を真っ赤にする私を見て、桐嶋くんはとても楽しそうに微笑んだ。


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