ほとんど絶え間なく上がる花火の音。屋台の店員さんの声。いちゃつくカップルの会話。女の子同士のきゃっきゃっとした声。男の子同士が賑やかな声。はしゃぐ小さい子やそれを見守る親御さんの声。来たばかりのときは気分を高揚させる材料になっていた花火大会会場の喧騒が今は少し恨めしい。
とにもかくにもその場を離れたくて、鼻緒擦れでじくじくと痛む足を引きずってひたすら歩みを進めた。
「そんなの履いてくるからだろ」
会場から少し離れたところまで来ても、足が痛い、と訴えたときに言われた言葉が頭にこびりついて離れてくれない。
これなら似合うかな?可愛いって思ってくれるかな?そう思いながら浴衣と下駄を選んだ日も、集合時間から逆算してセットしたメイクも髪の毛も、言われたたった一言で全部否定されてしまった。
先週誘ってくれた男友達とか、クラスの男の子とかに言われたならこんなに惨めな気持ちにもならなかった。でも相手は宗介だ。友達でもなければ、ただのクラスメイトでもない。私にとってたった一人の好きな人で、恋人。そんな相手にそう言われて、嫌な方向へ感情が動かない女の子なんてきっとこの世にいないだろう。
宗介の性格は分かっているつもりだ。無愛想で、言葉が足りなくて、そのくせ本当はいつでも優しい。それでも言われたくなかった。可愛いって、言ってもらいたかった。
「っい、た…!」
「あ、ごめんなさあーい」
考え事をしていたからか、すれ違ったカップルの彼女さんと肩がぶつかってしまった。その拍子に無視していた足の痛みが悲鳴を上げて、思わずその場にしゃがみこむ。通り過ぎていったカップルから「大丈夫?」「うん。平気〜」なんて会話が聞こえてきて、余計に惨めな気持ちになった。
痛いと主張する足へ目をやると、親指と人差し指の間が擦りむけて出血していた。しかも両足とも。暗くて若干見にくいけど、鼻緒にじっとりと滲んでいるのは赤色で間違いないはずだ。浴衣とセットで新調したばかりの下駄。もう最悪だ。何もかも。
「ナマエ。大丈夫か?」
ぐっと下唇を噛み締めて耐えていると声が降ってきて、顔を上げる。そこには会場に置いてきたはずの宗介がいた。手にはさっきまで持っていなかったはずのコンビニのビニール袋が下げられている。追いかけてこない上にコンビニに寄っていたなんて、薄情なやつだ。
そんなふうに睨む私に気がつかない宗介は、すぐにしゃがみこんで私の状態を確認するように視線をゆっくりとおろしていく。そして足元に辿り着いて、止まった。
「……足、痛えのか」
だからさっき、そう言ったじゃん。素直に口に出すことさえ億劫で、じっとだんまりを決め込む。何も言いたくない。話したくない。そう思っていると宗介のたくましい腕が上がったのが見えた。
「さわんないで」
ぱしん。伸びてきた手を軽く振り払ったつもりだったのに、乾いた音が二人の間に響く。花火の音なんて掻き消してしまうほど、何故だか大きく聞こえた。
「宗介なんて、嫌い」
自分でも少し驚くくらいのはっきりとした声だった。宗介が今どんな顔をしているのか見る勇気も無いのに、嫌い、なんて。初めて言った。それもそうだろう。そんなふうに思ったこと、今までも、今も、一度もないんだから。それなのに、口から出てしまった。声にしてしまった言葉は取り消すことができない。訂正しなきゃ。
頭の片隅、冷静な部分でそう思っているのは間違いないのに、何故かそれは声になってくれない。代わりにじわじわと涙が滲んできて、それを落とすのも嫌で、下唇を噛んで耐えようと試みた。
「………それでもいいから、ちょっと大人しくしてろ」
「え?……わあ!?ちょ、ちょっと!」
突然、身体が宙に浮いた。背中と膝裏には宗介の腕が通されて、抱え上げられている。思いもよらぬシチュエーションにときめきなんかよりも恥ずかしさが先行した。会場から離れたと言っても周囲に人気が全くないわけではない。
案の定近くにいた人たちは目を丸くさせたり好奇の目をこちらに向けたりしている。羞恥心に耐えかねて硬い背中をバシバシと強く叩きながら降ろして!とアピールしてみる。
「叩くな。痛え」
「じゃあ降ろしてよ!」
ちっとも痛くなさそうなトーンで言われた挙句、聞く耳は持ち合わせていないという始末。「担がれたくなきゃ大人しくしてろ」聞こえた言葉にびしりと身体が硬直する。担ぐって、脇腹に?それとも肩に?どっちにしても今より目立つ上にみっともないこと間違いない。浴衣ではおんぶをするのは難しいだろう。
仕方なく言うことを聞いて宗介の首にぎゅっと腕を巻き付ける。別に許したわけじゃない。振り落とされないようにしてるだけ。本当にそれだけ。誰に対してか分からない言い訳を並べていると近くの公園に入っていき、一番近くのベンチへゆっくりおろされる。
「ちょっと我慢しろよ」
ベンチには座らず私の前でしゃがみこんだ宗介が、おろすときときよりもゆっくりとした動作で下駄を脱がせてくれた。触れていた傷口と鼻緒が離れるときにピリッとした痛みを伴い、っいた、と声が漏れる。それに反応した宗介が一度こちらを見上げたけど、視線はすぐに足元へ戻っていく。
何をするつもりなのか。ガサガサとコンビニの袋を漁り出したのを見守っていると、中から新品の絆創膏が出てきて、少し目を疑った。もしかして、そのためにコンビニに行ってたのかな。
自惚れが確信に変わるまで全く時間はかからなかった。手際良く絆創膏を貼ってくれた宗介が袋から水の入ったペットボトルを取り出して、こちらに寄越してくる。中身の見えたコンビニの袋からそれ以上のものは見つからなかった。
「水飲むか」
「う、うん、あ、ありがとう……」
呆気にとられていたら声をかけられる。数秒間差し出されたままだったペットボトルを受け取ると、宗介は少しだけ口角を上げた。もらった水を一口飲むと少しだけ暑さが和らいでいく。蓋を締めたペットボトルを隣に置く数秒の間に、すごく反省した。一瞬でも薄情だなんて思ってしまった。宗介が薄情だったこと、今まであったことがないのに。
「………さっき、言い方間違えた」
しゃがんだままの宗介から、ぽつりと呟かれる声。すっかり遠くなってしまった花火の音に掻き消されることなく、その声は耳にはっきりと届いた。
「お前、楽しみにしてただろ。花火大会」
「………うん」
「足が痛くなって台無しになるくらいなら、そんな格好してこなくていい」
まっすぐにそう言われて、落ち着きを取り戻していた心がまたざわつきはじめる。宗介が優しさで言ってくれてるんだってこと、頭ではちゃんと分かっている。それでも。分かっていても。
「そんな格好って、言わないでよ」
素直になれないのは、私のほうだ。じわあ、とまた視界が歪む。宗介とのデートだから可愛い格好がしたかった。可愛いって褒めてほしかった。楽しみにしてたのだって、相手が宗介だから。宗介が、好きだから。宗介が好きだから、言ってほしくないんだよ。
思っていることがひとつも言葉にならない。膝に置いていた手をきゅっと握って、そこに視線を落として涙を堪えた。素直になれない上に、泣いて宗介に面倒だって思われるのは、もっと嫌だ。
「……すげえ可愛い」
膝の上の手に、宗介の大きな手のひらが重なった。ぐちゃぐちゃになりはじめた心が、ぱちんと弾ける。ぱっと顔を上げると目が合った宗介がちょっと気まずそうに一度目を逸らした。照れくさそうなその顔が、さっきの一言が聞き間違いでないことを示している。強張っていた身体も手のひらも、一瞬で和らいでいくのが分かった。
「ほ、本当……?」
「こんな嘘言わねえよ」
「………もう一回、言って」
「"こんな嘘言わねえよ"」
「そ、そっちじゃない!」
戻ってきた視線に怒るとははっと軽い調子で笑われた。そのまま笑顔で「冗談だ」って言って、ますます笑う。雰囲気を柔らかくさせるための優しい冗談。つられて少しだけ笑えば、宗介は心なしか嬉しそうに見えた。
可愛いのおかわりは出来なかったけど、宗介が笑ってくれるならもういいやって思えるくらいには、嬉しい。穏やかな気持ちでもう一回を諦めていると重ねられていた手がそっと降りて、宗介が隣に腰掛ける。今度はその手が優しく私の頬に触れた。
「すげえ可愛い。ほかのやつに、あんま見せたくねえくらい」
自然と目で宗介の目を追いかけると、閉ざされていくのが見えてつられるように瞼をおろす。唇に柔らかいものが触れた途端に上がった花火の音が、やけに大きく、鮮明に聞こえた。
「ふふ、ほかの人なんて見てないよ」
「……意外と見てんだよ。入り口で待ち合わせてたとき、近くにいたやつらお前に声かけようとしてたしな」
「えー、嘘だあ」
「こんな嘘ついてどうすんだ」
さっきと似たような言葉なのに込められている気持ちが若干違うみたいで、拗ねてるような、そんな言い方。例えそれが本当だとしても、今の宗介が可愛いなんて真っ先に思うくらいどうだっていいと思える。ふふっと少し笑ってから、ちゃんと冷静になった頭で口を開いた。
「私は、うそ、言った」
「………おう」
「嫌いって言ったの、嘘」
「おう。知ってる」
でも、もう言うなよ。
眉を顰めた宗介は怒っているというよりも、悲しそうだとか苦しそうという表現のほうがしっくりきた。嫌いって言ってしまったときも、もしかしたらこんな顔をさせていたのかもしれない。
申し訳ないと思う反面でどうしようもない愛しさが込み上げてきて、ごめんね、と小さく呟いた。また花火がちょうど上がって邪魔をされたかと思ったけど、宗介が「おう」って優しく頷いてくれたから、声も気持ちもちゃんと届いたみたいだ。
「食いてえもんあるなら戻って買ってきてやるけど、どうする?」
ベンチから立ち上がった宗介に尋ねられた。足の痛みは絆創膏があるおかげかいくらかマシになっている。一人で行ってしまうのではないかと慌てた身体が、答えるよりも先に手を伸ばして宗介のTシャツの裾をつまんでいた。
「ううん。大丈夫だよ」
「いいのか?楽しみにしてただろ」
「それは……だって、宗介とデートだもん。宗介と、いられるからだもん。当たり前でしょ」
素直じゃない言い方で、素直な気持ちを今度こそ口にする。子どもみたいな言い方になってしまった。そう思ったのは宗介も同じなのか、ちょっとだけ悪戯っぽい笑顔を浮かべられる。
「俺もだ」
宗介の後ろで再び花火が上がった。だけど宗介はちっとも花火なんか見てなくて、エメラルドの瞳には私しか映っていなくて、それがどうしようもなく、心をときめかせる。
でもきっと宗介はお腹をすかせているだろうから、一緒に食べにいこう。さっき唐揚げの屋台をじっと見ていたのはちゃんと覚えている。そう思って私もベンチから立ち上がると、Tシャツをつまんでいた手を宗介が取ってぎゅっと握ってくれた。