食事が喉を通らない。この夏何度目かのそうめんということも理由のひとつだけど、全然、大部分を占めている理由に比べたら些細なことだ。早々に手を合わせてごちそうさまと告げ、自室のベッドでぱたりと倒れ込む。ぬるい夜風と虫の声が外から入ってくる。部屋に入ったらいつもは真っ先にエアコンをつけるけど、今日はそれが出来なかった。
   こんなに悩むくらいならやめておけばよかったのに。でも、衝動が抑えられなかった。定期的に訪れる罪悪感と羞恥心に耐えきれず、置いてあったタオルケットを頭のてっぺんまで被って目をぎゅっと瞑った。高校最後の夏休み最終日、明日からは二学期が始まる。寝よう。寝て忘れよう。それでもって明日、何にもなかったことにしてしまおう。それでも忘れられなかったら、明日は休んでしまおう。
    悶々とする頭を無理矢理寝かせようと試みていると携帯が着信音を鳴らした。ぱちっと反射的に目を開けてしまう。あとにしようか。相手が誰なのかだけ確認しておこうか。少し迷ってから枕元に放っていた携帯を手に取り、メールの差出人を見てからぎゃあ!と声が漏れた。
   ……なんで?いつもメールどころか携帯を携帯すらしない人が、なんでこうゆうときばかり活用してくるのだろう。びくびくと勝手に震える手でおそるおそるメール文を開いてみる。

『今どこだ』

   ……家に決まってるんですけど。嫌な言い方を真っ先に思いつく。それほどに今、私の心は尖っているんだ。もちろん返事をするつもりは無い。どうせ向こうだって一文送ったきり見ちゃいないだろう。そう思って携帯を閉じようとした途端、再び着信音が鳴る。

『ナマエの家の近くの浜辺にいる』

   私の行動をリアルタイムで見ているんじゃないかと疑いたくなるような追い討ち。見なくとも相手がこうゆうときにどうするのかくらい容易に想像出来る間柄に観念して、部屋をあとにする。リビングにいたお母さんにアイス買ってくる!と適当な嘘をついて家を出た。

   ハル、怒ってるかな。はじめは震える身体を必死に動かして歩いていたのに、地面を蹴るスピードはどんどん早くなっていて気付けば駆け出していた。このままじゃ嫌だって思っていた本心が早くなるにつれて顔を出す。
   海沿いの道へ出てから少し歩いたところ、外灯に姿が晒されない場所に人影がひとつある。暗くてぼんやりしているけれど、誰だか見間違うはずもない。そちらへゆっくり歩き始めるとさっきまで気にならなかった波の音がなんだか妙に気になった。緊張しているのが、嫌でも分かる。

「……ハル」

   近くに来て呼んだ声はやっぱり震えていた。すぐに振り返った青色の瞳と目が合って嫌なふうにどきっとする。そんな私とは裏腹に「ナマエ」と呼び返してくれたハルはいつも通りのように見える。それが余計にどくどくと嫌な脈を加速させた。

「……ええと、どうしたの?こんな時間に」
「ちゃんと話しておかないとなと思った」
「えっ」
「じゃないとお前、明日来ないだろ」
「そ、んなこと、ないよ」

   少し言葉につまづいてしまった。これじゃあそうですと頷いているようなものだ。ざあ、とぬるい風が私たちの間を通るとそれに伴って波の音が耳に響いてきた。いつものこと。でもいつもの日常風景さえ、今はすごく居心地が悪い。

「昼間の、」
「ごめんなさい!」

   ハルが口を開いたのを視認するなり、謝罪の言葉が飛び出した。少しずつ少しずつ視線を落として目を丸く見開いたハルから目を逸らす。

「ご…ごめんなさい……」

   またもや勝手に震える声で辿々しくもう一度謝罪を口にする。さっきの勢いはどこへやら。さざめく波の音にほとんど掻き消されて、届いたのかさえ定かではない。だんだん視界までゆらゆらと水の膜を張って震えてきた。鼻の奥も、ちょっとだけ痛い。

「も、もう、しないから」
「…ナマエ」
「ごめん。ごめん、なさい、はるちゃん」
「俺は、」
「…きらいに、…っならないで……」

    縋りつくような子どもみたいな声で、無意識になってしまった子どもの頃の呼び方で、胸の前でぎゅっと両手を握りしめながらぽつりぽつりと謝った。ハルが口を開くたびに怖いという気持ちと後悔が一緒になって押し寄せてくる。こんなことになるなら、しなければよかった。

   キスなんて、しなければよかった。

   幼馴染同士である私とハルに恋人同士という名前が新しくついたのは、高校二年のホワイトデーから。設立された水泳部での活躍もあり、ハルは今までよりたくさんバレンタインチョコをもらっていた。ひっそりと想いを寄せていた私は彼女が出来るんじゃないかと内心かなりヒヤヒヤしていたけれどそんな様子はなく。それどころかひと月後のホワイトデーに私にだけ手作りのお返しを用意してきたという。ほかの子たちは市販のものだったのに。
   もちろんどうして?って聞いた。そうしたらハルが私と同じように不思議そうな顔を浮かべて「ナマエがほかの女子と同じなわけないだろ」なんてさらっと言うから、勢いでそのまま気持ちをぶつけてしまった。ハルはすごく驚いていたけど、それ以上にすごく嬉しそうで「俺も好きだ」って微笑んでくれた。
   しかし元々幼馴染としての付き合いが長いということもあってか、私とハルの距離感はそんなに変わらなかった。二人で帰ったり、たまに手を繋いだりはしたけど、本当にそれだけ。私に魅力がないんじゃないかと自信を無くしたり、それでもハルが私だけを特別に扱ってくれるのが分かるから、また自信を取り戻したり。そんなことが数ヶ月も続いていたら私もこの状況を気にしなくなっていた。私たちには私たちのペースがあるんだって納得していた。
   そのはずだった、のに。今日学校で泳ぐというハルに差し入れを持って行ったあの瞬間に、それが崩れてしまった。
   新しく夢を見つけて吹っ切れた様子で泳ぐハルが今までよりも何倍も綺麗に見えて、プールから上がって当たり前のように隣に来て差し入れを受け取ってくれるのが嬉しくて。差し入れであるスポーツドリンクを飲もうとするハルの腕を掴んで、引き寄せて、背伸びをして、もっと、近づきたいって思っちゃったんだ。それから、ハルが青い瞳を見開いているところを最後に見て、あ、しまったって思いながら、学校を飛び出した。

「ナマエ」

   もし私が行ったときに後輩三人組が職員室へ行ってなかったら、二人きりではなかったら。どうにもならないことばかりが頭を埋め尽くす。気がつけば堪えきれなくなった涙がぼたぼたと落ちていて、拭うことさえ出来ないくらいに身体が強張っていた。
   名前を呼ばれてびくりと肩を揺らすと、ゆっくり手が伸びてきて優しく優しく頬にそっと触れられた。

「好きだ」
「はる、ちゃ、」
「嫌いになんて、なるはずないだろ」

   頬に添えられる手のひらが、涙を拭ってくれる親指が、私を安心させようとするその声が、見上げた青色が、全部全部優しくて余計に涙が溢れ出た。
   好きって直接的な表現をされるのなんて告白したとき以来な気がする。こうゆうときだ。ハルが私を特別に扱ってくれているんだって実感して、好きって気持ちが膨らむのは。だからこそ、何もされなくてもいいんだって思っていたのに。

「……ただ、驚いた」
「ご、ごめんね…」

   少し落ち着いてきたところでハルがぽつりとこぼす。そりゃそうだろう。した方だってとてつもなく驚いて、逃げ出したくなるくらい恥ずかしかったんだから。後悔が安心に代わり、残された羞恥心で小さく謝った。するとさっきまで私を安心させるべく優しい表情をずっと浮かべていたハルが、少しだけ難しい顔をした。

「……謝るようなことじゃない」
「へ…?」
「嬉しかった。だから謝らなくていい」

   謝らなくていいの?ハル、嬉しかったの?聞き返そうとした言葉は唇の動きを遮られて出てこなかった。ぱち、と瞬きをする間に離れていくハルの顔。状況を頭が理解するより前に顔にぶわっと熱が集中した。

「は、はるちゃん!い、いい、いま…!」
「…もう一回するか?」
「えっ、えっ、いや、あの……っ!」

   戸惑っている間にもう一度唇が重なった。さっきよりも長くて、ハルの唇の感触が鮮明に伝わってくる。熱くて、柔らかくて、やさしい。胸がいっぱいで上手く呼吸が出来ず、目をきつく瞑ってハルのシャツを握り締めると、唇がゆっくりと離れていった。
   ふはっと酸素を求めて息を大きく吸ったのも束の間。頬を包んでいたハルの手が離れたかと思えば、今度は背中に回されてそのままぎゅっと抱きしめられる。え、え、と処理が追いつかない頭がぽろぽろと言葉にならない声を漏らす。付き合って数ヶ月が経過していたって、抱きしめられるのもはじめてだ。

「え、あ、はる、」
「ずっとナマエに触れたくて」
「へっ」
「でも、どうしたらいいのかよく分からなかった」
「……ほ、ほんとうに…?」
「……ああ」

   こんなときに人を茶化すような嘘がつける人じゃない。嬉し涙が出そうになって背中に回した手に力を込めると、ちょうど耳に当たる胸の奥からとくとくと優しい音がした。普段の落ち着いた様子からは考えられないくらい、早くリズムを刻む心臓の音。ハルも、どきどきしたり、してるのかな。ハル、今どんな顔してるのかな。
   名残惜しみつつ背中に回した手をそっと解いて、顔を見上げられる距離を取る。

「もう一回してもいいか」

    迷わず上げた目線の先にあった青い瞳にどくんと心臓が大きく跳ねた。優しいのに、男の子の目をしていると直感で思う。こくっと控えめに頷くとすぐに短い口づけが降ってきた。二回目よりも全然短い三回目に少しびっくりしてハルの目を見ると、すぐにすっと逃げられてしまった。

「…こんなに緊張するものなんだな」
「ハル、緊張してるの?」
「……しないと思ったのか」
「思ってた、かも…?」

   思うも何も、そもそも想像すらしていなかった。していなかったというより、諦めていたの方が正しい。曖昧に同意するとハルが納得いかないような面持ちで再び目を合わせてきた。

「好きなやつに触れるんだ。緊張して当たり前だろ」

   まっすぐに目を見てそう言われる。ひえ、と出た情けない声はまたハルの唇に奪われてしまった。今度はまた、長い口づけ。観念してゆっくり目を閉じるとなまあたたかい風がふわりと二人の隙間を通った。
   さっきまで疎ましく感じていた波の音が心臓の音に掻き消されて遠くに聞こえる。来年の今頃、私たちはこの街を離れて未来に向かって進んでいくけれど、どれだけ新しい場所へ行っても、またハルとの関係が一歩進んだとしても、この波の音はずっと忘れないと思った。



- ナノ -