たまに、一人になりたいときがある。

   なんてセンチメンタルな気持ちなどではなく、お昼を食べたら眠くなったとか、このまま午後の授業をサボりたくなってしまったとか、ただ単にここのテントの日陰でのんびりするのが好きだとか。人っ子一人来ない上に見回りの先生も巡回をサボるような場所。目に見えて生息している虫は緑色の水にアメンボが浮かんでいる程度。使われていない学校のプールサイドというのはそんな不純な動機で足を踏み入れる秘密基地みたいな場所だった。


「おーい!ミョウジーー!!」

   この男が転校してくるまでは。

「ミョウジ!」

   無視という名の聞こえていないフリを決め込んでいると痺れを切らしたらしい彼は軍手を外しながら近くまで来て、そんなにくたびれていないベンチに寝転がる私の顔を上から覗き込んできた。テントの向こう側に見える青空が眩しい。それだけじゃない。汗が額に滲んでいる彼さえも、自堕落な私にはひどく眩しく見える。

「なんでしょうか椎名くん」
「寝てないで草取り手伝ってくれよ」
「やだよ」
「なんでだよ」
「私水泳部じゃないもん」
「どうせ暇なんだろ?」
「暇しに来てるからね」
「なんだよそれ」

   ハハッと明るく笑いながらも、緑色の水が抜けきったカラカラのプールの中へ戻る気はないらしい。そのままベンチの横、コンクリートの床に腰をおろした。ベンチの横とはつまり、私の頭の横。さっきまで見えていた椎名くんは横顔と赤い髪がチラチラと映る程度になった。

「新入部員入った?」
「入ってたら一人で草むしってねえって」
「あはは、たしかに」
「おい笑うなよ。俺は真剣なんだからな」
「ふふ、そうだねえ。椎名くんが真剣なのが伝わるから、みんな簡単に入ってくれないんだよ」

   ちょっとムキになった様子なのが面白い。真剣、という単語に思ったことを素直に述べると「お、おう」と少し戸惑った声が聞こえてきた。もしかして照れているのかな。可愛いやつめ。

「だから私も簡単に手伝えないや」
「お前……いいこと言ってる風で手伝いたくねえだけだろ」
「ふふ」
「………ま、別にいいけどよ」

   やれやれみたいな声色でそう言って立ち上がった。再び視界に入った制服姿はクラスの男子に比べてとてもしっかりしていて、各種筋肉たちが鍛えられているとシャツ越しでも伝わってくる。

「休憩おわり?」
「おー。せっかく部員が入ってきてもプール使えなきゃ意味ねえしな」

   軍手を付け直しながらまた日光のあたる場所へと出ていく。昼休みが終わるまであと十五分。そのうち十分くらいはプールの草むしりに費やすのだろう。どうしてそこまでして、なんて愚問だと思った。だって、椎名くんを見ていたらどう考えても答えはひとつしか浮かばない。

「水泳、そんなに好きなんだ」

   相変わらずだらりと日陰の下で寝転んだまま、たくましい背中にぽろりとこぼした。間髪入れずにくるりと振り返って白い歯を見せてはにかむ彼はやっぱり私には眩しくて、目が眩みそうだ。ぽたり。滴る汗がコンクリートの地面に落ちる音がやけに鮮明に聞こえた。


「おう!超好きだぜ!」


///


   ゆらゆらと揺れる水は緑色とは程遠く、コンクリートの水色を映し出し陽の光を反射している。プール特有のつんとした塩素のにおいが爽やかな風に乗って鼻腔をくすぐった。

「終わっちゃったね」

   晩春の頃、空っぽのプールの中で草を一人でむしっていた彼が隣で「おう」と頷く。夏はまだまだこれからだというのに、椎名くんの高校最後の夏が先日の地方大会で終止符を打ってしまった。

「もう泣かないんだ?」
「いつまでも泣いてらんねえって。俺の水泳人生はまだまだこれからなんだからな!」

   拳を作った頼もしい腕を上げながら前向きな気持ちを露わにする椎名くんが、大会の帰り道に後輩たちの知らないところで涙を浮かべていたことを私は知っている。


   −−−理由は、遡ること数ヶ月前のあの日。仕方ないなあと言いながら身体を起こして結局一緒に草取りをした。数日経ってようやく半分くらい草取りが済んだ頃、ひとつ下の代の子たちがなんと三人も入部希望だと名乗り出てくれた。「先輩はマネージャーですか?」と聞いてきた後輩たちに迷わず首を振る準備をした。これでお役御免。約二年間お世話になった秘密基地はおしまい。椎名くんたちを見習ってこれからは真面目に生きよう。そんなふうに思っていたのに。「おー、それいいな!」まさかの採用。聞き間違えかと思っていたら「ミョウジ、マネージャーやってくれよ!」と改めてまばゆい笑顔を向けられた。
   もちろん断ることも出来たし、断れば椎名くんは無理強いしては来なかっただろう。でも、なんでかな。額やこめかみを滑る汗が、コンクリートを染める汗が、ぽたりと時折音を立てて落ちる汗が、そうさせてくれなかった。
   それからというもの、今までの横着さがまるで嘘みたいだと他人に評価されるほど、私は水泳部のために忙しなく働いた。トレーニングルームの使用時間を調整してもらうべく、ほかの運動部の人に掛け合ったり。本屋さんで新品の本を買って必要な筋トレ、練習、ルールを一から勉強したり。サボるための場所として扱われないために午後の授業にもちゃんと出席して、陽が落ちるまでみんなと一緒に過ごした。

「ねえ旭。ナマエがマネージャーで大丈夫〜?」

   自分でも改心の仕様に驚いているんだから、周囲はさぞかし驚いたことだろう。仲が良い友達にこんなことを言われるのも笑われるのも珍しくなかった。椎名くんだってきっとそう思ってるだろうと予想していたのに、彼が笑ったのは全然ちがう意味だった。

「当たり前だろ?頼りにしてるぜ!」

   いつもと変わらない、眩しい太陽みたいな笑顔。子どもみたいで、無邪気で、まっすぐで。なのにこの日はすごく頼もしく見えて、友達に言われたことに傷ついているわけじゃなかったのに、すごくすごく嬉しかった。


「ミョウジ」

   走馬灯のように目まぐるしい日々を思い浮かべていると、この夏一番呼ばれた声に呼ばれる。プールサイドに並んでプールを眺めるのは今日で何日目だろうか。でも、そのカウントダウンも今日で幕を閉じてしまう。なんだか顔を見られなくて、プールに目を向けたまま「うん?」と返事をした。

「ありがとな」
「え?」
「ミョウジがいてくれたおかげで、すっげー頑張れた!」

   聞こえてきた言葉につい顔をあげてしまった。あげたくなかったのに。あげたら、全部伝わってきてしまうのに。

「超楽しかったぜ!」

   夏の風が勢いよく私たちの間を通り過ぎていく。ああもう、本当にタイミングが悪いな。おかげで目尻に溜まっていた涙がぽたぽたと落ちちゃったじゃないか。慌てて顔を俯かせたけど、もう遅い。一度落としたものは止まることを知らないみたいに、ぽたぽたと音を立ててコンクリートを濃くしていく。まるで、草取りをしていたときの私たちの汗のようだ。

「おいおい泣くなって」
「っな、な、いて、ない…!」
「思いっきり泣いてんじゃねえか」
「だって、し、しいなくんが、へんなこと、いうから」
「なっ…い、言ってねえだろ変なことなんて!俺はただ純粋に、」
「だって!」

わたし、もっと、みんなが泳ぐところ見たかった。

   これ以上言われたら余計に止まらなくなる。だから言葉を遮って、本音をこぼした。風が木々を揺らす音だけの静かな空気が私たちを包む。なんだ、何も言わないのか。これといって何か言われたい言葉があったわけじゃないけど沈黙されるのは恥ずかしい。ひ、ひっと喉のあたりが勝手に鳴る。嗚咽を漏らすのが嫌で音を立てないようにきゅっと唇をきつく結んだ。

「はああああ〜〜〜…っ!」
「えっ、な、なに」

   盛大すぎる溜め息と共にずるずるずるとしゃがみこむ椎名くんに驚いて涙が一時的に止まった。急にどうしたんだ、何事だ。私が泣いたのがそんなに嫌だったのか。ヤンキーみたいな座り方をするくせに顔を俯かせているから表情が見えない。とりあえず顔色を窺おうかと赤い髪に手を伸ばすと。

「ひゃっ!」

   ぱしりと腕を掴まれて今度は私が遮られる番になる。もちろんノールックでこんなことをされたわけではなく、顔を上げた椎名くんとはばっちり目が合った。その瞳は若干、濡れていたような気がする。でもそれは一瞬のことで、私の腕を掴んだまま立ち上がった椎名くんの目はすぐに見えなくなってしまった。

「………やべえ、嬉しい」

   耳元で声がして、ようやく抱きしめられていることに気がついた。はっとすると同時にぶわっと身体が熱くなる。ちょっと、と言いながら離れようと身をよじったが、させまいと言わんばかりに背中に回っている腕の力が強くなった。う、すこし、苦しい。シャツ越しでも分かるくらい鍛えているのだから、せめて加減をしてほしい。

「ミョウジがそう言ってくれるようになったのが、すげー嬉しい」

本当に、ありがとな。

   いつもはきらきらの明るい声をしているくせに、私の前だけで泣いたときだって「悔しいもんは悔しいんだよ!」と強気だったくせに。どうしてこんなときだけ静かな、優しい声で言うんだ。穏やかな声が熱くなった身体にじわじわと浸透してきて、また視界に映る青空がぼやけた。まだまだ夏は終わらないのに、終わってしまった。ぐず、と鼻が勝手に鳴る。誤魔化すようにたくましい背中に手を回して、シャツをきゅっとつかむと、ぽたりと何かが私の肩を濡らした。
   なんでかな、なんて答えはとっくにとうに自分が持っていた。椎名くんのひたむきさと真剣さが、何に対しても無気力な私にも響いてしまうくらい、いつの間にか伝染していたんだ。
   今はまだ、嗚咽の奥で高鳴る鼓動の正体は気づかなくていい。だからどうか、一分でも一秒でも長く、私たちを青春の真ん中にいさせてほしい。


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「なあ、ここで何してんだ?」

   声がして、ベンチに寝転んだままふと目を開けた。ひょこりと覗いた赤い髪と青い空のコントラストに目がちかちかしそうになる。足音が近づいてきていることには気づいていたけど、まさか声をかけてくるとは驚きだ。だけど力の入っていない頭は至極冷静で、おさぼり、と短くこぼした。

「いや、サボっちゃ駄目だろ」

   正論を言いながらもからりと爽やかに笑う彼。普段から人の顔ばかり見ていたりはしないけど、風海高校在学三年目で一度も見たことのない顔だった。まあなんでもいいやとまた目を瞑る。

「なあ、水泳に興味あんの?」

   ………無視していいかな。いや、ダメかな。初対面の人にはさすがに良心が痛いかもしれない。どうしようかと迷って再び目を開ける。いつの間にかプールに身体を向けていた彼は、両腕を腰にあてて横顔だけでこちらを見ていた。

「ないよ」
「なんだよ。水泳好きだからプールでサボってんのかって期待しちまっただろ」
「期待?」
「おう。俺、ここに水泳部作りにきたんだよ」

   そんなスポ根漫画の主人公みたいなことある?半ば呆れながら声には出さず、そうなんだ、とだけこぼしておいた。どうせ私には関係のないことだ。

「あっ、名前!なんて言うんだ?」

   今度はくるりと身体ごと振り向かれた。まだ少しだけ冷たい風がザァッと吹いて、プールの水面を揺らしながら彼の赤い髪を持ち上げる。私の名前なんて聞いてどうするんだ。無視すればいいのに、もしかしたら逃れられないんだとこのときから悟っていたのかもしれない。
   ミョウジナマエ、とやや投げやり気味に呟けば、ぱあっと彼の表情が明るくなる。強めに吹いた風が落とした桜の花が緑色の水面に触れさせる音がぽたぽたと聞こえた。

「俺は椎名旭。よろしくな、ミョウジ!」


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