4.

おおかた片付いたところで、ゴミが回収されたバケツがそのままになっているのが目についた。

「あ、このバケツどうしよっかハ、ルぅぅぅぅぅ」
「なんだぁ?どうした?」

七瀬くんを呼びながら項垂れたのを不審に思ったらしい椎名くんが側に寄ってきた。私いま、七瀬くんって呼ばなかった気が、いや、呼んでないな確実に。母音が"う"だったし。

「ごめんね!違うよ!みんながハルハル言うから釣られただけ!」

がばぁっと顔を上げて必死に弁解をするも、当の七瀬くんの表情は何ひとつ変わらない。なんでだろう。郁ちゃんに話しかけたときは好奇心のほうが勝ってたから、名前で呼べるのが嬉しかったのに、事故でつい呼んでしまったのはちょっと恥ずかしい。

「……好きに呼べばいいだろ」
「へ……?いいの?」
「今さら何を気にしてもしょうがないしな」

今さら……?言葉の意味が分からずに首を傾げる。郁ちゃんたちはきっと部活とかで呼び始めたんだろうけど、ええと。

「橘くんは七瀬くんのこと、ずっとハルって呼んでるの?」
「うん。昔はハルちゃんって呼んでたけどね」
「ほほぉ……!!」
「ちゃん付けはやめろ」
「じゃあハルちゃんがいい!」
「……やめろって言ってるだろ」
「えー?ふふっ、どうしようかなぁ」

ハルちゃん表情筋レパートリーがちょっとずつ増えるが面白くて、むすっとした顔で訴えてきても辞めるつもりは毛頭ない。隣にいた椎名くんがゲラゲラ笑いながらハルちゃんの背中をバシバシと叩く。

「いいじゃねぇか!可愛いぜ、ハルちゃん?」
「椎名くんもあさちゃんって呼んであげよっか?」
「ゲッ!!そ、それはちょっと、勘弁……」

さっきの私みたいに椎名くんが項垂れる。そんな様子を見て私と橘くんも我慢せずに笑っていたけど、視界のはしっこに映った郁ちゃんは難しい顔で口を尖らせていた。



「今日はどうもありがとう!とっても楽しかったよ!」
「おう!また来いよ!」
「旭の家じゃないでしょ」
「いいだろ別に。こうゆうのはフインキが大事なんだよ」
「雰囲気だから。旭ってほんと馬鹿」
「つ、伝わればどっちでもいいんだよ!」

最後まで賑やかな四人組だこと。正確には郁ちゃんと椎名くんが、だけど。お邪魔しました、と騒がしい扉を閉める。喧嘩してる二人の傍らでハルちゃんがちょこんと手を上げてるのがきゅんときた。今度エミちゃんたちと花火しようかなぁ。一人で計画を立てて石段を降りていると。

「瀬戸さん、さっきのコンビニまで送ってくよ。もう遅いから」

降りてきたのは橘くんだった。本当に優しい子だ。あのハルちゃんを手懐けているだけはある。けど自転車もあるし、どうしようかと考えていると、橘くんの後ろから郁ちゃんが降りてきた。

「真琴、茅なら僕が送るよ」
「あ、郁弥。大丈夫?部活もあったし、疲れてない?」
「それなら真琴もでしょ。ちょっと歩きたい気分だから平気。行くよ茅」
「あ、うん!またね橘くん!ありがとう!」

口を挟む間もなく郁ちゃんが送ってくれることになってしまった。慌てて自転車のロックを外し、歩き始めた郁ちゃんのあとを追いかける。海辺の道に出ると、生温い潮風に郁ちゃんの髪がサラサラと揺れた。

(花火より、郁ちゃんの方が綺麗だなぁ)

言うと呆れられそうなので、思ったことを閉じ込めて、歩きはじめる郁ちゃんの隣に並ぶ。

「花火楽しかったね!」
「そうだね」
「もう一泊お泊まりかー、いいなぁ郁ちゃん、私も男の子だったら混ざったのに」
「そうだね」
「………そうだね?」
「そうだね」

郁ちゃんがそうだねロボになってしまった。どうしたんだろう、と顔を覗きこんでみても、どこかぼんやりしているみたいだった。さっきまでは普通だったし、怒らせるようなことを言った覚えもないのに、おかしいなぁ。

「郁ちゃん、ありがとうね」

試しに話題を変えてみる。すると郁ちゃんの大きな瞳がゆるりとこちらを見た。

「なんで僕に言うの?誘ったの、ハルと真琴じゃん」
「でも郁ちゃんと仲良くなかったら多分誘ってもらえなかったもん!だから郁ちゃんのおかげだよ」

今度は隠さずに思ったことを伝える。郁ちゃんが口をぎゅうっと結んだのを私は見逃さなかった。あっ、照れるかな?照れるのかな?様子を伺っていると、予想に反して聞こえてきたのは溜め息だった。

「なんかいろいろ考えるの馬鹿らしくなってきた」
「いろいろ?」
「……いろいろ。茅は、よく喋るし、うるさいけど」
「え?なんで急に悪口?」
「けど!よ、よく笑うし、すぐ誰とでも仲良くなるし、だから、その、えっと」
「?? 私は郁ちゃんが一番好きだよ?」

みんないい子だったけど、と付け足す。郁ちゃんがどうして急に悪口を言い出したのかは分からない。けど暗くてよく見えないはずなの郁ちゃんの顔がみるみる赤くなっていくのは何故かよく分かった。

「そうだ!これもらってくれる?」
「………お守り?」
「八幡様の神社で買ったんだけどね、水神様が祀られてるんだって!」
「水神様?」
「うん!郁ちゃんが水泳頑張れるように、たくさんお願いごとしたんだよ」

買ってから渡す機会を探してずっと持ち歩いていたそれを渡す。応援している証を形にするには何が良いか考えて友達にもお母さんにも相談した。私はハルちゃんたちみたいに一緒に泳ぐことも練習することも出来ない。これから自分の大会もあるし、現地で応援出来るとも限らない。今の私にはこれくらいしか出来ないけど、郁ちゃんに少しでも伝わればいいな。

「だっ、大事にする!ずっと!」

そんなことを考えていたら郁ちゃんはそう言ってずいっと距離を詰めてきた。びっくりして、口がぱかりと開く。大事にする、ずっと。郁ちゃんの言葉を反復して飲み込んで、私はいつもどおり笑ってみせた。

「じゃあ私は郁ちゃんのことずっと大事にするね!」
「はっ、な、なんで茅は、すぐそういうこと言うの……!?」
「あはは、郁ちゃん照れたぁ」
「照れてないよっ!!」
「あっ、待ってよー!」

急にスピードをあげた郁ちゃんの後ろを急いで着いていく。照れると怒るところ、本当に可愛いなぁ。

「………僕も、大事にするから」

呑気に考えていると、なまぬるい風と塩の香りの中からぼそりと聞こえたその言葉。心が喜びで波を打つ。私はずっと、もっと、郁ちゃんを大事にしよう。さっきの言葉に嘘はひとつもないんだから。

「お守りのこと?ありがとう!」
「ちが……いや違わないけど、ああもう、いいや」
「郁ちゃん、なにか言った?」
「っ、なんでもない!!」
「へ?なんで今怒るの?」



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