last story : Ikuya Kirishima


忘れられない女の子がいた。

中学一年のとき、大してお互いのことを知りもしないのに、毎日欠かさず「おはよう桐嶋くん!」と元気に声をかけてくれる隣の席の女の子。入学後、しばらくして行われた体力測定ではクラスで一番足が速いとちょっとだけ有名だった。明るくて、裏表がなくて、図々しくて、いつも誰かが隣にいるような、そんな子。彼女の隣にいつもいる"誰か"の中にいつしか自分が入るだなんて、出会ったときは考えもしなかった。


「茅って桐嶋くんと付き合ってるの?」

中学生ともなればそんな会話が校内のあちこちで囁かれる。郁弥自身、男子の揶揄いのネタにされることもしばしばで、まともに取り合ってはいないものの時折うんざりとした気持ちになっていた。

「つきあう?」
「そーそー。彼氏彼女ってこと!」
「えー、そうゆうのよく分かんないからなぁ」
「なんだぁ、つまんないの。よく二人でいるから、実際どうなのかなって思ったのに」

とある日の昼休み。お手洗いから教室へ戻ろうとしたときに中からそんな会話が聞こえた。
自分が聞かれたりするのだから、茅だって聞かれていてもおかしくはない。どう答えているのだろうかと、気になった郁弥は足を止めた。

「うーん………付き合うとかは分かんないけど、郁ちゃんといるとすっごく楽しいよ!」

顔は見えないけど、きっといつもみたいにへらへらしているんだろうと想像が出来る声色に、郁弥はゆるりと表情を崩す。周囲の女子が知識を増やしてませていくなかで、子どもみたいに笑顔笑われてしまえば絆される人は少なくない。茅に質問をしていた女子生徒も例外ではないようで「そっかぁ」とのほほんとした声で返したきり、それ以上は特に何も言わなかった。そんなことが続けば次第に周りは何も言わなくなっていく。

仲間とも、戦友とも違う彼女に名前を付けるなら、きっと"親友"なんだろう。茅もそう思ってくれると信じて疑わなかった。


−−−だから、彼女には言わない。
北斗七星が見守る春の星空の下で、泣くのを必死に耐えながら応援したいって言う君が愛おしくて、おでこに唇をくっつけてしまったこと。帰り道、なんであんなことをしてしまったのかと後悔する気持ちと羞恥心に苛まれながら帰ったこと。明日からどんな顔をして会えばいいんだろうかと考えたけど、もう明日から彼女の笑顔に会えないと気づいたこと。いつでもそばにいてくれる彼女に、ひたむきに自分を応援してくれる彼女に、隣を誰かに譲りたくないと思った彼女に、何かあったときに飛んできてくれる彼女に、異性として惹かれていたこと。

明日もこれからもまた、こんなにも、会いたい。

溢れるものを耐えるつもりで下唇を噛んでも意味がないことは、濡れていく頬が知っていた。どうして今なんだ。どうして今日、気づいてしまったんだろう。

「…………好きだよ」

人生ではじめての告白は、まだ冷たい海と春の夜風、それから空に瞬く星たちだけが聞いていた。

↑↓


「告白しないの?」

練習の帰り道、大学図書館に来ていたという茅からエールをもらい、バス停にいる日和たちと合流する。ほどなくしてバスが到着したが、ほかのサークルや部活の生徒がいたため、座れはしたものの寺島たちとは前と後ろで随分席が離れてしまった。それをいいことに日和が平然と尋ねてくる。

「しないよ」

窓際に座った郁弥はむっと眉を顰めて答え、逸らした顔を外へ向けてしまった。予想の範囲内である反応に日和はくすりと静かに笑う。

「郁弥と瀬戸さん、すごくお似合いだと思うけど」
「似合う似合わないの問題じゃないでしょ」
「でも好きなんだろ?」
「…………」

再びこちらを向いた大きな瞳にはじいっと睨みつけられる。お節介と思っているのか、それともわざわざ口に出さなくていいと思っているのか。はぁとひとつ、わざとらしく溜め息をついてから郁弥は薄く口を開いた。

「違うから」
「違うって?」
「茅の好きは、意味がちがうんだよ」
「………そうは思わないけどなぁ」
「とにかく今はしない」

挟まれた"今は"というワードに日和は口角を上げる。その今が大事な時期だというのは日和も重々に理解しているので、それ以上言うつもりは無かった。それでも第三者としては、二人の距離感というのはやっぱり焦ったいものだと感じる。
アメリカ時代、まだ手紙のやりとりをしていた頃の郁弥は病室で何度も手紙を読み返していたのを見ていたし、返事を書かなくなってからでもずっと持ったままのお守りの存在も知っている。ほかの女子から告白されたり言い寄られたりしても好意を持たなかったのは、出来る限り他人と関わりを持たないようにしていたからという理由だけではないことも、なんとなく想像がつく。
半分は郁弥のためを思って、半分は冷やかしもありつつ、いろいろ突いてはしてみるのだが、あまり効果を感じない。彼女は明らかに郁弥を特別扱いしているのに。もう少し距離を詰めれば、何か変わりそうだとしか思えないのに。

「取られたくないものは、取られないようにしないとね」

似たような言葉を日和は以前にも口にしていた。郁弥と茅とカフェにいたとき、食べる?と慣れた様子で尋ねてくる彼女の隣で郁弥が隣で拗ねたような表情を浮かべていたのが原因だった。断ったのちに、思ったことを伝えれば郁弥には複雑そうな顔をされるし、茅は何のことだか分からないという顔をしていた。
………やっぱり先は長いかもしれない。自分のヒーローには、親友としても、幸せになってもらいたいんだけどな。そう思って今度は日和が小さな吐息を吐いた。



(…………日和は、知らない)

しょうがないなぁ、とでも言いたげな溜め息を聞いていた郁弥は口を閉ざしたまま考えていた。

「…………僕は?」

あまりにも意識されなさすぎて、振り絞った勇気だった。意識してほしいと遠回しに伝えても、こちらがいつもどおりに振る舞ってしまえば茅もいつもどおりになっていた。

「僕のこと、少しは気にしてくれてた?」
「し、してた、よ。少しじゃなくて、たくさん」


そう思っていたのに、そうじゃなかった。
水泳部の先輩に嫉妬して、さらにそれ以上に自分のことを考えてくれていた。たまらなかった。あれ以上茅の話を聞いていたら、向けられる好意が同じなんじゃないかと期待してしまいそうで、勘違いしてしまいそうで。うっかり好きだと。伝えてしまいそうで。
せめてもう一歩、前に進みたくて手を握った。遙が踏み入れた場所に進みたかったのだ。振り払われてもおかしくないのに、茅は腕を振り払わないどころか、それについて何も言わなかった。どうして、なんて。一人で考えても答えなんて出るわけがないのに、あれから続いていたメッセージが届くたびに思ってしまう。誰にも取られたくないと言えたら、どんなにいいだろう。

馬鹿がつくほど正直で鈍感な茅を相手にもやもやしたところで仕方ないと、自分が一番分かっているんだ。本当に、たちの悪い。
今、最優先するべきは目の前にある全日本選抜だ。本当に大切に想うのならば、なおさら集中するべきなのだ。静かに深呼吸をしてぱたりと思考を断ち切った郁弥の瞳には、確かな闘志が帯びていた。

↑↓


「お疲れ郁弥。シドニー大会出場おめでとう」
「ありがとう真琴。あのさ、茅どこにいるか知ってる?」
「茅ならちょっと休みたいって、多分自販機じゃないかな」
「分かった。ありがとう」
「あ、郁弥!」

だから、何も告白しに行こうというわけでは無かった。ただ顔を見て話をしたかっただけ。居場所を聞いた真琴に背を向けて歩き出して、名前を呼ばれて振り返る。

「茅のこと、よろしくね」
「? うん」

真琴がどうゆうつもりで穏やかな笑顔を向けてきたのか、郁弥は分からないまま首を縦に振る。会って、話をして、おめでとうって言われて、ありがとうって言って、家に帰る。そのはずだった。

「かっこよかったよ!いちばん!」

いつも茅が決め台詞のように言ってくれるこの言葉に、満面の笑みを浮かべて無邪気に手を伸ばす姿に、郁弥は静かに息を呑んだ。

いつもずるいんだ、この子は。
せっかく一度は諦めたのに、弱さと一緒に捨てたはずだったのに、あの頃より綺麗になって、大人になって、あの頃と変わらない笑顔で現れて、正直すぎるところも変わってなくて、あの頃のように追いかけてきて、あの頃より大事に想ってくれて、どうしようもなく蘇ってくる好きって気持ちを無視するなんて、無理に決まってる。

大会を終えて余分な力は残っていなかったからか。昨日遙と二人で歩いてくるところを見た焦りもあるのかもしれない。一度必死に自制したものはがらりと崩れ、逸らしていた視線を再び彼女へと寄越す。関係が壊れるのは怖い。けど、今の現状を、どうにか壊したい。

伝えたい言葉はたったひとつだった。


「僕も茅に言っておくことあったんだ」
「うん?」
「好きだよ」


あの日、春の夜空に置いてきた告白を。

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「………そろそろ帰ろっか」

送っていくよ、とベンチから立ち上がる。まだ現実味がなく、ふわふわと浮き足立つ感覚が抜けない。お互いの気持ちを確認出来たこともあって、帰ることに名残惜しさしかないが、明日は練習があるし帰らなければいけない。もちろん、茅の家に泊まるわけにもいかない。茅が立ち上がったことを確認してから、郁弥が足を進めようとすると「あのね」と後ろから声をかけられた。

「ええと、お願いがあって」
「お願い?」
「………………つ、つなぎたい、です」

照れくさそうに目の前に手を差し出された。絞り出すような一生懸命な声に、もしかして今日一日思ってくれていたのかも、なんて自惚れが芽生える。そういえばさっき手繋がないのかなと思ってたと言っていたな、と郁弥はやんわり口元を緩めた。

「僕も」

相手がいっぱいいっぱいだとこちらに余裕が少し生まれるのはどうしてだろう。微笑みながら手をとれば、暗くて判別しにくいけれど、茅の顔がぶわりと赤くなったのがうっすら見える。すぐに照れる郁弥を可愛い可愛いと散々言ってきた彼女も、どうやら案外照れやすいようだ。持ち前の鈍さでなんでもかんでも躱してきたこの子がこんな顔をするなんて、六年前は知らなかった。こんな日が訪れるなんて思いもしなかった。そんな郁弥の思いもよそに、茅はすぐいつもみたいに、嬉しそうに、柔らかく、へらりと笑う。

忘れられない女の子が、特別になった日だった。


「…………あっ」
「? どうかした?」
「わ、わたし、郁ちゃんの彼女ってことで、いいのかな!」
「…………不満?」
「ううん!ふふふ………そっかぁ」

浮かれちゃうなぁって。
そう言って悪戯っぽく笑う彼女は、やっぱりどこまでもずるい。


fin!



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