32.

プラネタリウムのあとは商業施設内をウィンドウショッピングをしたり、お互いにあれが似合うこれが似合うと目に映ったものを宛てがったり、気に入ったものは購入したり、ふとしたときに郁ちゃんの後ろ髪に見惚れたり、見下ろしてくる優しい笑顔に射抜かれたりしていた。途中休憩のために立ち寄ったコーヒーチェーン店で郁ちゃんの分はご馳走させてもらったし、ディナータイムも営業している遠野くんオススメだというカフェでの夜ごはんはきちんと割り勘だ。逆に気を遣ってしまうからそのほうがいい。
楽しい時間というのは本当にあっという間で、今はもう帰りの電車に揺られている。

「茅、こっち側来なよ」

日曜日だからか、夏休み中だからか、遅い時間になってもそれなりに人がいて座ることは出来ず。最寄り駅まであと一駅というところで郁ちゃんに声をかけられ、言葉の理由が分からずに言われるがままドアの近くに立った。

「!」
「あっ!すんません!」

しかし、その理由をすぐに知ることになる。郁ちゃんと場所を交代した途端に、元々私の後ろにいた男子高校生の大きいスポーツバッグが電車の揺れによって郁ちゃんにどんっとぶつかった。運動部らしく潔く謝ってくれた高校生に郁ちゃんは軽く微笑んで「いえ」と短く返している。容易に想像できてしまった。郁ちゃんが私と高校生の距離を考慮して位置を代わってくれたんだと。こうゆう些細な優しさが、ずるい。もう今日は何回きゅんってなればいいんだ。


そのあとすぐに私の最寄駅へと到着し、当たり前の顔で降りてくれる郁ちゃんに、今日はなにも言わなかった。だってまだ、聞きたいことを聞けてはいない。

「今日はありがと。楽しかった」
「私もすっごく楽しかった!また遊ぼうね!」
「うん。じゃあまたね、おやすみ」
「気をつけて、ね………?」

あれ?

帰路を辿ったものの、そういった類の話は一切されずに私のアパートの下へと到着した。遠くなっていく郁ちゃんの背中を、ぽかんとしながら数十秒見つめていたけど振り返る気配はない。自室を目指してアパートの階段を登る。鍵開けて部屋に入ってしまえば、何度も張り直した緊張の糸がゆるりと解けた。今日が無事に楽しく終わったことへの安堵と、もしかしたらと考えていたことへの気の緩み。てっきりそうゆう話をするものだとばかり思っていたから、拍子抜けしてしまった。真っ先に洗面台へと向かって、まずは手洗いとうがい。健康の基本。うがいをしても最近SNSで落ちないと話題のリップティントはしっかり色が残っている。いい仕事ぶりだ。

今日は本当に、すごくすごく楽しかった。今度はいつ郁ちゃんに会えるかなぁ。今度はどこに行こうかなぁ。考えるだけで顔がにやけてしまう。

いつか、私のこの気持ちも、
郁ちゃんに伝えられたら、


−−−いつかって、いつ?


心の声にそう言われて、拭いている手を止めた。いつかって、今度って、一体いつなんだろう。いつかが今じゃ駄目な理由が一体どこにあったんだろう。自問が重なるたびに、じわりじわりと焦りが芽生える。急ぎはじめた心臓の音がどんどん大きくなっていく。それに急かされるように玄関へと向かう。貴重品を入れたまま置き去りになっていた鞄を持ち直し、ミュールに再び足を通して外へ出る。鍵がきちんと閉まったことだけは確認してからすぐに駆け出した。
聞きたいことを聞けていないのは、言われなかったからじゃない。

(私は今日、なにをしていたんだろう)

考えて、すぐに答えが出る。伝えられてないどころか、なにもしていない。こんなんじゃあその"いつか"が来たところできっと何も出来はしない。そもそもその"いつか"は来ないかもしれない。
いつでも会えると思っていたあの子があっという間に手が届かない場所は行ってしまったことを、誰よりも知っている。
いつか立ち止まって歩くことすら出来なくなった足は、今出来る全力で地面を蹴ってくれた。



「郁ちゃんっ!!」

走ること数分、ちょうど自宅と駅の間あたり。いつしか話をした公園のそばで、何度も惹かれた後ろ髪を見つけてすぐに名前を呼ぶ。時間帯的にここまですれ違う人はおらず、前方に歩いていたのも郁ちゃんだけだった。

「茅?」

振り返った郁ちゃんが丁寧に名前を呼んでくれる。まだ手の届く場所にいてくれたという事実に、何度も呼ばれた声に、安心してゆらりと視界が揺れる。目を丸くさせたまま、私の姿を確認するように上から下へと視線を下ろしてから、眉を顰めた。

「えっ、ちょ、なにその足」
「へ?足?………うわぁ?!」

言われて視線を落とせば、足の甲の側面部分にべったりと血が滲んでいた。ヒールが太くて安定感があるとはいえ、半日履いて過ごした挙句に全力疾走なんかしていたら靴擦れして当然だ。やってしまった。予想外の出来事を受け止め切れずにぽかんと口を開けていると、さっきまで少し離れた場所にいたはずの郁ちゃんに顔を覗き込まれる。

「とりあえず座ろう。歩ける?」

突然の近距離にどきりと跳ねたのが、身体なのか心臓なのかは分からない。郁ちゃんが心配してくれてるというのに、私ってやつは。こくこくと頷いて歩けることを訴える。走るのに夢中で気づかなかっただけに、気がついてしまうとさすがに痛みを感じた。一番近くにあった公園のベンチへと腰をかけるなり、隣に座った郁ちゃんからは溜め息が聞こえてくる。

「何考えてるんだよ。ヒールで走ってくるなんて」
「ご、ごめんね、郁ちゃんのこと引き止めなくちゃって、必死で、」
「それにしたって、電話するとかあるでしょ」
「ごもっともです……!」
「ほんとにもう、馬鹿じゃないの」

おっしゃるとおりだ。ぐうの音も出ない。語気が鋭いことと内容から機嫌を損ねてしまったと窺える。肩身の狭さを感じながらティッシュポーチに入れていた絆創膏を取り出した。すぐに隣から「貸して」と言われて返事をする間もなく持っていた絆創膏を攫われる。

「………あんまり心配させないでよね」

正面にしゃがみこんだ郁ちゃんから、ぼそりと控えめに聞こえた言葉にまた心臓を掴まれる。やっぱり、ちょっとずるい。むすりとする間もなく、そっと丁寧にミュールを脱がされ、優しく足に触れられる。思わず足を引っ込めたくなった。痛いのと、恥ずかしいのと、あともうひとつ理由が浮かぶ。

「痛い?」
「う、ううん!大丈夫!ありがと!」

こみあげるものを堪えるために顔に力を入れて耐えていると、貼り終えた郁ちゃんが心配そうに見上げてくる。痛みに耐えている顔だと思われたのかもしれない。首を振って否定する。手を差し出して残った絆創膏のゴミはもらっておいた。

「それで、どうしたの?」

隣へ座り直した郁ちゃんが静かに話題を切り出した。どうしたの、というのが何を指し示しているのかが分かってぎくりと身体が緊張する。目が合わせられなくて、膝に置いている手をじっと眺めた。

「あ、き、聞きたいこと!話したいことも、あって、ええと……」
「…………」
「その……あ、あのね……」
「…………全日本選抜のあとに、僕が言ったこと?」
「うっ、」

言い淀んでいると察したらしい郁ちゃんが躊躇いがちに答えを言う。ぶわりと顔に熱が一気に集中した。

「………」
「………」
「………」

…………今日一番長い沈黙が流れる。ちゃんと言わなきゃいけないのに、そのために走ってきたのに、言葉が出てこない。す、と息を吸う声が隣から聞こえた。

「……言ったこと、そのままだよ。この前手を繋いだのも、僕がそうしたかったから」
「え、あ、ええと」
「けど、ごめん。返事もらうつもりなくて、今日は何も言わなかったんだ」
「…そうなの?」
「うん」
「もう、好きじゃなくなっちゃったってこと……?」

頭の中で考えるより先に口から言葉が出てきて、郁ちゃんをようやく見た。久しぶりに合った目はゆるりと細められて、首を横に振られる。それが私を好きだという意思表示なのが、嬉しくて、寂しかった。

「今日、本当に楽しかった。もしかしたら、茅が少しでも意識してくれるんじゃないかと思ってたんだけど、断られでもして、もう友達でいれなくなるくらいなら、このままでもいいかなって、思、」

言葉の続きを遮るように、ばっと立ち上がれば、郁ちゃんの言葉がぴたりと止む。絆創膏を貼ってもらった足がぴりぴりと痛んで、ぎゅっと鞄のストラップを握りしめる。少しだけ、その気持ち分かるよ。だって私にも今のままでいいやと諦めた恋があるから。それはそれでよかったと胸を張って言えるけれど、今の恋を、私は諦められない。

「す、すき!わたしも、すき、だよ」

座っている郁ちゃんをまっすぐに見下ろして言った。一瞬目を丸くさせた郁ちゃんだったけれど、絡んでいた視線はふいと逸らされて、地面へと落ちる。

「茅の好きは、僕と違うでしょ」
「ち、ちがわないよ!男の子の、郁ちゃんが好きで、郁ちゃんの彼女になりたいっていう、好き」

声が自信なさげに震えてしまう。なんて言えば、どうやって言えば伝わるんだろう。こんなことなら練習でも予習でもしてくればよかった。ささやかな後悔に苛まれているうちに、ゆっくり顔を上げた郁ちゃんから「………うそ、」という呟きが聞こえる。目を丸くさせて、信じられないと顔に書いてあった。

「嘘じゃないよ」

まるであの日のようなやり取りだ、と口元が少し緩んだ。練習も予習もしてないけど、大会が終わってから今日まで何度も考えたことならある。

「中学、上がるまで、何やるにしても楽しければそれでよかったの。陸上も真面目にはやってたけど本気じゃなかった」

ぽつりぽつりと、ひとつずつ丁寧に伝えていく。速いねって褒められるのは嬉しかったけど、成績とか将来とか大会とか、あんまり興味はなかった。もっとやる気出せばいいのに、もったいない、と中学の部活が始まったばかりの頃に顧問の先生や先輩に言われたこともある。

「けど郁ちゃんがね、本気で競泳やってるの見て、かっこいいなって思ったんだ。私もちゃんと本気で誠実にやってみようって思った」
「………」
「そしたら、もっと陸上好きになった!だから今も、勉強もバイトも、みんなの応援も、なんでも全力でやれる!本気でやることは楽しくて、その分大切な思い出が出来るって、すごく大事なこと、郁ちゃんが教えてくれたんだよ」

新しい夢をただひたすらまっすぐ追いかけ続けられるのも、そのおかげだ。ありったけの誠意と努力を詰め込んで。特別な何かが無かったなんて真琴くんに言ってしまったけれど、一番大事なものをもらっていた。当たり前になりすぎて、忘れてしまっていたんだ。人生最初の挫折、這い上がる根っこの強さを私は確かに教えてもらっていたのに。というか、特別な何かなんて私のほうがひとつもあげられていないのに。我ながら、いろいろ、ばかだなぁと思う。長すぎる告白を郁ちゃんは瞳を揺らしながら聞いてくれていた。私の後ろ、北の空。ゆらゆら揺れるその大きな瞳には北斗七星がきらめいている。


「好きです。桐嶋郁弥くん」


ねえ、そろそろ信じてほしいよ。

そんな願いを込めてへらりと笑ってみせると、身体に少しの衝撃が走って、なにかに包まれた。そのなにかが郁ちゃんで、抱きしめられているのだと気がつくのに時間はかからなかった。きゅう、と心臓が切なく締め付けられる。顔とまぶたがじんわり熱くなるのを誤魔化すように口を開く。

「まだ、いっぱいあるよ」
「もういいよ」
「緊張、したり、ほかの女の人にやきもちしたり、手繋がないのかなぁって、思ったり、目が合うと、うれしかったり、今もすごい、心臓はやくて、」
「待って、ほんとにもう、待って。分かったから。なんで、そうゆうこと全部言うの」

余裕のない声で私を止める言葉を手繰り寄せる郁ちゃんに、思わずふはっと笑い声がこぼれた。照れてることくらい、簡単に想像が出来る。きっと照れてることに気づいた私がそれについて笑ってるということに気づいたであろう郁ちゃんが、わざとらしく腕に力を込めてくる。私も背中に腕を回してぎゅっと抱きついた。通常よりも早く聞こえる心臓の音がどちらのものなのかは分からない。
郁ちゃんと抱きしめ合うのはこれでおそらく三度目。夕日に包まれた病室での一度目も、潮風に揺れた花冷えの中での二度目も、存在を確かめるような悲しくて寂しいものだった。こんなに嬉しさで満ち溢れたものがあるだなんて、また知らずのうちに知らないことを教えてもらっていた。好きな人が私のことを好きなんて奇跡みたいなこと、本当に起きるんだ。上手に言い表せない。切なくて、くすぐったくて、すごく幸せな気持ちになる。

「………ごめん。さっきの取り消していい?」
「さっきの?」
「このままでいいとか、そんなふうに思うの、やっぱり無理」

茅のこと、諦めたくない。

背中に回っていた腕の力がするりと抜けて、つられるように腕の力を緩める。続いた言葉がきゅーっと涙腺を刺激する。見上げた郁ちゃんの顔は見たことのないくらい優しくて、でもいつも郁ちゃんの面影が残っているような、泣きそうなのに嬉しそうな不思議な顔をしていた。

「………茅、」

大きな瞳がきらきら輝いている。もしかしたら私も同じ顔をしているのかもしれない。名前を呼ばれたけど、言葉を探しているのかなかなか続きが聞こえてこない。

「郁ちゃんは、かっこいいなぁ」

へらりと笑って、そう言った。何回かっこいいと言ったのか、もう数は分からない。ふっと目元と口元を緩めて「だからなんで今言うんだよ」って言いながら、呆れたように笑った。



忘れられない男の子がいた。

中学一年生のときに隣の席だった、繊細な雰囲気の男の子。いつか笑った顔が見たいなぁ、と妙に惹かれる後ろ髪に想いを馳せていた。そんな彼が今、特別な人になっていく。
おとぎ話や映画みたいに運命的な出会いでもなければ、ロマンチックなはじまりでもない。王子様は現れないし、お姫様はキスで目覚めたりもしないし、ましてや泡になって消えたりもしないけど。きみが笑ってくれるなら、なんだっていいんだ。

小さな岩鳶の町の、中学校の教室のすみっこで、すべてはそこからはじまった。

「おはよう桐嶋くん!」

大切な人を見つけた。
きみが、特別になるまでのおはなし。


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