30.

夕日が差し込んでいる自動販売機へと辿り着く。もう表彰式が終わってしばらく経つからか人気は無く、出入り口のあるほうから声が響いて聞こえるくらいだ。胸が一杯で甘いものも炭酸も飲みたいと思わない不思議な状態に襲われ、無難に緑茶を選ぶ。あまり力の入らない膝を曲げて近くのベンチにへたりこんだ。調子が悪いわけではなく、大会の興奮が冷めていなかったり、緊張の糸が解けた反動だったり、安心しきっていたりで身体に上手く力が入らない。感慨無量とはまさにこのことなんだと思う。
目を閉じれば、瞼の裏側に数時間前のことが映される。遙がゴールする瞬間。郁ちゃんがゴールする瞬間。会場の歓声。応援しているときの興奮。何度も遙たちの試合は観てきたけど、試合後にこんなに疲労感に襲われるのは初めてのことだ。それだけ高揚させられたんだなぁ。ふう、と一息ついてから緑茶を口へと流し込む。

「茅?」

何度も聞いた声に名前を呼ばれて顔を上げると、そこには郁ちゃんがいた。私服を纏って水泳部の鞄を肩から下げているから、帰宅前なのかな。足音が近づいてきているなぁ、とは思っていたけれどまさか郁ちゃんだったとは。すっかり気が抜けきっていたので「郁ちゃんだぁ」応答する声はふにゃふにゃしていて、この間偶然会ったときのような緊張も訪れてはこなかった。

「一人?真琴は一緒じゃないの?」
「外で岩鳶の後輩たちとお喋りしてる。このあとみんなでご飯行くんだよ」
「そうなんだ。まだ行かなくて平気?」
「休憩してくるって言ってきたから平気!なんかね、ちょっとね、気抜けちゃって」

やっぱり髪、綺麗だなぁ。
飲み物を買う背中をぼんやりと眺めてそう思っていると、まっすぐこちらへ向かってきた郁ちゃんが隣に腰をかける。座ってくれたってことはすぐに行かなくていいのかな。嬉しいという気持ちよりも先に、伝えたい言葉が頭に浮かんだ。

「郁ちゃん。お疲れ様でした。シドニー大会出場、おめでとうございます」

背筋を伸ばして、両手を太ももの上で揃えて、出来るだけ姿勢良くぺこりと頭を下げながら言えば、郁ちゃんからふっと笑う声が漏れた。

「ありがと。まだ少し実感湧かないけどね」

言葉の端々にも浮かべてくれた笑顔にもどことなく力が無い。ほかのみんなは残っている種目がひとつだけだったけれど、郁ちゃんだけはフリーの100とブレの100を泳いでいる。肉体的にも精神的にも消耗していて当然だ。何か差し入れるものでも用意してくれば良かったなぁと今さら後悔しても遅いのだけど。

「シドニー大会かぁ………しばらくしたらまた忙しくなっちゃうね」
「そうだね。後期が始まったら合同学園祭の準備もあるし」
「郁ちゃんは水泳部の模擬店で参加するの?」
「ううん。それとは別で、旭たちと出店する予定」
「へえ、そうなんだ!なんのお店?」
「まだこれから決めるとこ。茅は?」
「学科の希望者で出店予定だよ。グループメッセージで候補だけ上がってて、今度みんなで集まる予定なんだ」
「茅も忙しくなりそうだね」
「けど楽しみだよ!遙と真琴くんとは毎年一緒だったけど、今年は郁ちゃんも一緒だもんね!」

あと椎名くんも貴澄くんも、遠野くんも!一人ずつ名前を上げるたびに指を曲げる。真琴くんは遊びに来てくれると言っていた。高校の文化祭もすごく楽しかったけど、きっと負けないくらい楽しい思い出になるはず。想像するだけでも顔が緩んでしまう。

「夏休みは遊べなかったけど、合同学園祭は楽しもうね!」

遙と真琴くんとは、全日本選抜が終わったら遊びに行こうと話をしている。郁ちゃんとも遊べたら良かったんだけどなぁと勝手な諦めていると。

「………まだ終わってないけど」

返ってきた言葉に首を傾げる。分かっていないのを悟ったらしい郁ちゃんは拗ねたようにむすりと口角を下げた。うーん、可愛い顔だなぁ。未だに緊張感が戻らず呑気な私をよそに郁ちゃんは薄く口を開く。

「だから、夏休み、まだ終わってないでしょ」

少しそっけなく言われてようやく理解した。意味を理分かってしまえば、たちまち気持ちにぱぁっと花が咲く。

「遊んでくれるの?」
「次の日曜日なら、オフだし。予定もないしね」
「ほんとに!?」

嬉しさのあまり、腰掛けているベンチに手をついてずいっと身を乗り出す。瞬時に詰めた距離に一瞬びっくりしていた郁ちゃんはすぐにふわりと微笑んだ。

「こんな嘘ついてどうするの」
「へへ、やったー!うれしー!」
「ちょっと、大袈裟すぎ」

ついついボリュームを上げて喜びを表現してしまった。今さら遅いとは思いつつも口に一度手を当てて言葉を仕舞い込んでから、へらりと笑う。

「あのね、郁ちゃんと行きたいところたくさんあるんだよ。東京タワーとか、スカイツリーとか、この前遙たちと行った新しい水族館とか、渋谷の展望台とか!」
「展望台?」
「うん!エミちゃんが彼氏さんと行ってすごく綺麗だったって言っててね、」
「……っふ、」

嬉々として忙しなく口を動かしていると、途中で郁ちゃんが控えめな笑い声を上げた。何かおかしなこと言ったかな。そう心配しながらも郁ちゃんの笑顔に目の前がきらめいた。

「本当に茅は、よく喋るね」

初めて郁ちゃんが笑ったときみたいだ。そう思っていたところに懐かしい言葉をかけられる。郁ちゃんにそう言われてしまえば、私が返す言葉はひとつしかない。

「郁ちゃんと話したいこと、たくさんあるからだよ」
「茅って本当に変わんない」
「郁ちゃんこそ」

そう返答されるのを予想していたかのように全く動じず、さらりと言葉を返される。じいっと数秒見つめ合ってから、ふはっと笑い出すのはほぼ同時だった。郁ちゃんと話していると全身を襲っていた疲労は落ち着きを取り戻してきていた。もう少しゆっくりしたら戻ろうかと考えていたら、郁ちゃんがすっと立ち上がる。

「そろそろ行くよ。また連絡するから」
「うん!またね、郁ちゃん。ゆっくり休んでね」
「ありがと。茅も帰るとき気をつけてね」
「…………あっ、郁ちゃん!」

別れの挨拶をしながら去ろうとする郁ちゃんを呼び止める。振り向いてくれた郁ちゃんにはまだ、言ってないことがひとつあった。

「かっこよかったよ!いちばん!」

右手に作ったVサインを郁ちゃんに向けて、誇らしげに伝える。目を丸くさせたかと思えば、くすぐったいような顔をしてふいっと視線を元いた場所へと戻してしまう。照れる様子を見せる郁ちゃんに、可愛いと思いつつ、眠っていた緊張が起き始める。意識をしたら、話せなくなってしまう。必死になんでも無い顔を取り繕って、へへ、と笑うと、再び郁ちゃんと目が合った。表情は少し真剣さを帯びていて、どきりと心臓が跳ねる。

「僕も茅に言っておくことあったんだ」
「うん?」
「好きだよ」


「…………………へっ、」

諸々考えていたことが、全部頭の中から吹っ飛んだ。

「じゃあまたね」

今度こそ立ち去るときにさらりと流れた後ろ髪に、また目を奪われる。郁ちゃんの背中が見えなくなっても、言われた言葉が頭の中で処理しきれずにリフレインしていた。
好き、好きだよ。好きって、え、なんだっけ。だって、さっき、好きって言った、郁ちゃんが。あっ、もしかしたら聞き間違えなのでは……?けどもし聞き間違えだとして、郁ちゃんはなんて言ったんだろう。はっ!もしかして夢を見ている?夢を見ているにしては、バクバクと心拍数を上げる胸の痛みがリアルすぎる。あれ、痛いなら夢じゃないんだっけ?なんで今?なんでこのタイミング?郁ちゃんの言った好きは、私と同じ好き?それとも中学のときに私が言ってた好き?

思考を巡らせれば巡らせるほど、じわじわと顔に熱が集まっていく。芽生える全ての疑問に置いて答えを導き出すことは、私には不可能だ。全ては郁ちゃんだけが、知っている。


「郁弥に会えた?さっき会ったときに茅がどこにいるか聞かれて、多分自販機って答えたんだけど」

結局真琴くんから電話が来るまでその場を動けずにいた。悶々としながらも一生懸命平静を装って外へ足を向ければ、真琴くんにこそりとそんなことを言われて、ますます混乱した。



- ナノ -