29.

本日の競技が全て終了し、会場の外へと向かう途中でお手洗い行ってくるねと真琴くんに伝えて人の波から抜け出した。さすがにもう目は赤くない。お手洗いをあとにして再び会場の外へと足を向けているところで見慣れた背中を発見した。

「遙ー!お疲れ様!」

すかさず名前を呼んで駆け寄る。振り向いた遙は一瞬ぐらりと表情を揺らしたように見えたけれど、隣に並ぶのを受け入れてくれるのは普段どおりだった。

「外行くところ?真琴くんたち外にいるよ」
「メッセージ来てたから、知ってる」
「そっかぁ」
「………ああ」

へらりと笑ってみせても遙にそれが伝染することは無い。………遙は、世界への切符を手に出来なかった。顔にかかる陰は、そのせいなのか疲労からなのか、はたまたどちらもなのか、それともまた別の理由があるのか。

「やっぱりすごいね全日本選抜!会場の雰囲気も今までと全然違うから、私まで緊張しちゃったよ」

へらへらしながら口から出てきた感想は我ながら呑気なものだったと思う。当たり障りのない言葉を選んだつもりだったけれど、疲弊している遙にとっては鼻につくものだったかも。そう思ったのは遙の表情が沈んでからだった。

「俺は…………よく分からなかった」
「………うーん、そっかぁ」

分からないってことは、遙の中で何か選択肢や考えてることへの迷いがあるってことなのかな。ずっと勝ち負け以上に大切なことのほうを優先してきた遙にとっては、ひどく消耗する試合だったのかもしれない。かける言葉が見つからず、口を閉ざして歩き進めていると少し離れた場所に渚くんたちを見つける。

「あー!ハルちゃんちーちゃん!こっちこっちー!」

輪の中から渚くんの元気な声が飛び出てきた。その中にいる郁ちゃんとぱちりと目が合った気がして、きゅっと胸の奥を鷲掴みにされる。今さらだけど、きっといつもこうやって無意識に郁ちゃんを探して見つけていたんだと思う。日常生活の中に置いたままにしていた違和感のひとつひとつに気づいてしまって、時折気持ちが追いつかない。

「行こっか、遙!」

いっぱいいっぱいになりそうな気持ちを振り払うように努めて明るく呼びかけて遙の少し先を歩くと「茅」すぐさま名前を呼ばれた。

「………このあと、風に当たってから帰りたい」

振り返ると目が合ったはずの青い瞳はすぐに逸らされてしまう。言われたことに対して一瞬はてなマークが浮かんだけれど、すぐに言葉の意味が解けた。つまりは、一緒に来てほしいという意味に受け取っていいのかな。

「謹んでお供させていただきます!」
「なんだその言い方」
「むふふー」

自分の都合いいように解釈して胸に拳をとんとぶつけながら高らかに宣言する。呆れた顔の遙はすたすたと私を通り越してみんなの元へと先を行くので、慌てて隣に並んだ。

「ふ、ふふ」
「いつまで笑ってるんだ」
「お二人で何を話していたんですか?」
「あのね、遙がねー」
「茅。余計なこと言わなくていい」
「果たして余計なことだろうか」
「余計なこと考えてる顔してるだろ」
「あははっ!相変わらず仲良しだね、ハルちゃんとちーちゃん」
「別に普通だ」

輪の中に到着するなり怜くんに聞かれたので素直に答えようと思ったのに、遙に止められてしまった。せっかく遙が素直で素直じゃなくて可愛いねっていう話をお披露目しようと思っていたのに、残念だ。なんだか嬉しそうな様子の渚くんが遙を夕食に誘うが遙は首を横に振る。

「そっかぁ、ハルちゃん来ないんじゃあちーちゃんも来ないよね〜」

残念そうに渚くんが口を尖らせる。なんだその方程式、とも思ったけれど正解なので「また今度行こうね」と短く返した。

「茅さん明日もいらっしゃいますか!」
「いるよー!みんなまた明日ね!」
「おっしゃ!帰り道にはお気をつけて!」
「ありがとー!」

モモくんが渚くんを呼ぶと、その後ろから美波くんと魚住くんが声をかけてくれた。ひらひらと手を振って返しているとひょこりと貴澄くんか顔を覗いてくる。

「茅、鮫柄水泳部の人とも仲良いんだ」
「合同練習の手伝いとか行ったときに良くしてくれてね、みんなとってもいい子なんだよ」
「…………茅に彼氏できないのはそうゆうところだよねぇ」

なんかものすごく失礼なことを言われたような気がする。ぱちぱち、と瞬きを繰り返して言葉の主である貴澄くんを見上げる。真琴くんが苦笑してたり遠野くんが「ああ……」と妙に納得しているような声を発しているのも気になるところだけれど。

「そこがちーちゃんの良いところなんだよね!じゃあ行こう怜ちゃん!」

フォローになっていない気がするフォローをしてくれた渚くんは怜くんと肩を並べて、輪の中から抜けていく。郁ちゃんが遙に声をかけたあと、会話に参加した椎名くんとエールを送り合ったところで、寺島くんが向こうから郁ちゃんと遠野くんを呼ぶ。「じゃあね」と言って背を向けようとする郁ちゃんに小さく手を振ると、目が合った郁ちゃんがひらりと振り返してくれた。そんな小さなことさえ今は嬉しい。今日は話せなかったから、やっぱりこの間のうちにちゃんと頑張れって伝えておいて良かった。かっこよかったよって、明日はちゃんと言えたら良いな。そう思いながら揺れる綺麗な後ろ髪に想いを馳せていると、ジッと視線を感じた。

「?」
「………」

なんでもない、とでも言いたげに絡み合った視線を逸らしたのは遙だった。気のせいだったのだろうか。きょときょととしていると続けて椎名くんと貴澄くんが別れを告げて歩き出す。さっきまでの賑やかさが嘘のようにすっかり静かになったところで凛が現れて、真琴くんの提案で私たちもその場をあとにした。
明日、ここを帰る頃には全てが決着している。ざわりと胸がざわつくのを感じながら、先を歩く三人の大きな背中を追いかけた。

↑↓


真琴くんが案内してくれたのは、ふわりと潮の香りが鼻に通って、静かな夏の風に穏やかに揺れる海がいっばいに広がっており、強烈な懐かしさに包まれる場所だった。優しい海に心が凪いだのか、真琴くんの向こう側に座る遙が静かに口火を切る。
勝利のためだとしても何も捨てたくないこと。その気持ちで挑んだ結果、負けてしまったこと。それらを経て、自分には世界で戦う資格が無いのでは無いか、と。
曝け出された胸の内を聞いた凛と真琴くんが堪えることなく笑いはじめるものだから、私も少しくすりとしてしまう。

「ハルでもプレッシャー感じたんだなって思ってさ。ちゃんと熱くなってんじゃねえか」

訝しげな顔で何故笑うのかと尋ねてくる遙に、真っ先に感想を口にしたのは凛だった。

「ふふ、ハルちゃんの悩みはいつも優しすぎるなぁ」
「だね。ハルのその泳ぎがあったから、俺たちはここにいるんだよ。そうやって悩むこと自体が、答えなんじゃない?」
「……なんだそれ」

三者三様に思ったことを伝えても、遙は変わらず怪訝な顔をしている。それから凛がさらに深い部分へと話を運んでいく。それを聞いた真琴くんも世界を目指す選手を支えるトレーナーを目標にしていることを明かしてくれた。新幹線の中で真琴くんが言っていたのはこのことだったのか。まっすぐな言葉にもう迷いは見られず、こちらまで気持ちが晴れやかになった。

「応援してるぜ、真琴」
「一緒に勉強頑張ろうね!」
「ありがとう凛。茅もよろしくね」

凛の言葉に便乗して言えば、真琴くんがふわりと笑ってくれる。つられるように、へらりと笑っていると再びぱちりと青い瞳と目が合った。今度は逸らされることなく、まっすぐに私を見ている。

「茅。この前、俺のことを誇らしいって言ったよな」
「………うん。言ったね」

凛と真琴くんはこのことを知らないので、突然出てきた話題にはてなマークを浮かべている。私も何故遙がこのタイミングで言ってきたのかは分からず、言葉を待つことしか出来ない。

「お前の誇りに、応えたいと思ってる」

聞こえてきた言葉に、凛とした声に、息をするのも忘れて目を見張った。頭の中に記憶が流れ込むような錯覚を起こす。初めて遙の泳ぎを見たとき、水泳部の話題を避けるように机に突っ伏す寂しい背中、泣くなと言って手を差し伸べてくれたこと、夢なんて無いと俯いていたとき、全国大会のあとで夕日に照らされながら言ってくれた言葉。
当たり前のように近くにいるようになるまで、近くにいるようになってからも、本当にいろんなことがあった。その全てが今この瞬間、この言葉の為にあったんじゃないかって思うくらいに、嬉しい。この上なく贅沢な喜びに指先が震える。ただでさえ緩んでいた涙腺がまた揺らぎそうになったのをぐっと堪えて、精一杯の笑顔を浮かべた。

「うん、期待してるよ。水の中じゃ最強なんだもんね、ハルちゃん!」
「………茅の言葉はたまに重い」
「お、おもい!」
「分かる」
「分かるんだ!?」

遙の言葉にすかさず同意した真琴くんにびっくりして声を上げる。ショックを受ければいいのか、反省すればいいのか。狼狽えているとけらけらと笑っていた凛が口を開く。

「言葉の重さの分だけ、俺たちのこと見てくれてるってことだろ」

にかりと得意げに笑って赤い髪の毛を揺らす様は、初めて会ったときと変わらない。

「応え甲斐があるよなぁ、ハル!」
「ああ」

力強い声で頷いた遙が急にすくっと立ち上がる。息を吸いこむ音が聞こえたかと思えば、突然海に向かって叫び始めた。咆哮ともとれるそれに驚いた鳥たちが羽を大きく動かして空へと舞い上がる。

「世界で戦う!!!!」

大きく広い世界を目指して懸命に羽ばたこうとしている遙たちと、少し重なって見えた。



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