28.


「ちーちゃん発けーーーんっ!!」
「うわあっ!?」

会場を目指して歩いていたところで背中にどん!と強い衝撃が走る。驚きのあまりに飛び出た声が大きくて、道を歩く人が数名振り返っていくのが少し恥ずかしい。バクバクと暴れる心臓を抑えて振り返れば、そこでは懐かしい顔がにぱりと明るく笑っていた。

「渚くん!怜くんも!久しぶり!」
「お久しぶりです。茅先輩」
「おはよう茅」

隣には穏やかに笑みを浮かべる真琴くんと怜くんの姿を見つける。何故止めてくれなかったんだ。そう思う反面で渚くんを止めても無駄だと思ったんだろうとすぐに予想が出来た。よし、この件について考えるのはもうおしまいだ。すると途端に渚くんがしょんぼりと肩を落とした。

「ちーちゃんにも全国大会見に来てほしかったなぁ……」
「うう、ごめんね……!私もすっっごく行きたかったんだよ……!」

先週行われた高校水泳全国大会の日もバイトの休みを申請していて承諾を得ていたのだが、シフトに入っていた人が前日に急性胃腸炎を患い、どうして出てほしいと店長から電話が入ったのだ。もう三人に断られてどうしようもないと半泣きで言われたので渋々、本当に渋々頷いて、渚くんたちの最後の大会観戦を諦めてしまった。本当に悔やまれる。

「改めまして、二人とも三年間お疲れ様でした」

二人の努力に今出来る最大の敬意を払うべく、ぺこりと頭を下げてそう告げた。こんなことでは、当たり前に全然足らないのだけれど。

「ありがとうございます。茅先輩にもとてもお世話になりました。見に来ていただけなかったのは非常に残念でしたが、」
「だから怜ちゃん、堅いってばぁ」
「い、いいじゃないですか!気持ちが大事なんですから!」

気持ちが大事。怜くんが何気なく放った言葉に、悔やむ心がふわりと少しだけ軽くなる。二人のやり取りが懐かしくて居心地が良くて、へにゃりと緩む頬を止める理由は特に無かった。と、そこで真琴くんの後ろに立っている見知らぬ存在に気がつく。

「もしかして二人とも水泳部の新入生?」
「はっ、はい!早船ロミオです!」
「石動静流です」
「瀬戸茅です。岩鳶高校で陸上部のマネージャーしてました」
「ロミオくんと静流くんが入部してくれたおかげで、今年のリレーにエントリー出来たんです」
「そっかぁ!そうだよね!二人ともありがとう!」
「なんでちーちゃんがお礼言うのさー」
「だって嬉しいよ!怜くんと渚くんが今年のリレーも泳げたの!だからありがとうロミオくん、静流くん。これからよろしくね」

対照的な雰囲気はどことなく遙と真琴くん、渚くんも怜くんを彷彿とさせる。二人の前に両手を差し出すと、静流くんはすっと手を差し伸べてくれたけれど、ロミオくんはおずおずと手を握ってくれる。

「あー!ロミちゃん赤くなってるー!」
「なななってません!」

「真琴せんぱーい!あっ、茅先輩も!」

渚くんがロミオくんを揶揄したところで可愛らしい声が空間に割って入ってくる。この声は、とすぐにぴんときた。

「わぁ、江ちゃんだー!五十鈴ちゃんも!」
「茅さん、お久しぶりです!」

握り合っていた手を解放してぱっとそちらへ顔を向ければ、呼んだとおりに江ちゃんがいて、隣には五十鈴ちゃんがいた。五十鈴ちゃんとは会うのがまだ二回目なのにも関わらず、人懐っこい笑顔で挨拶してくれた。素晴らしき御子柴家の遺伝子。おや、二人の間にこれまた可愛らしい女の子がもう一人。

「綺麗な人……」

ぽつりと女の子が呟いた言葉を拾った私の耳は、勝手に自分のことじゃないかと都合よく解釈してしまう。そんなわけないない、と数秒で我に返って「新しいマネージャーさん?」と尋ねてみる。

「はい!国木田歩ちゃんです!歩ちゃん、こちらは瀬戸茅先輩」
「陸トレメニューを作ってくれたっていう、噂の敏腕マネージャー先輩ですね……!」
「そんな噂が!へへ、照れるなぁ」

調子にのりつつ、よろしくね、と歩ちゃんにも手を差し出すと「よろしくお願いします!」と言って可愛い両手で包んでくれた。水泳部関連の友人は平均身長が高いから、ちょっとだけ嬉しい「すずちゃんち、どうだったー?」勝手に喜んでいる傍で渚くんが二人に問いかける。すずちゃん。五十鈴ちゃんのことだろうか。その呼び方、可愛いなぁ。

「江さーーーん!って、ああ!茅さんも!!」

人混みを掻き分けるような元気な声が響く。周囲の人も何人か巻き込みながら、みんなでそちらへ視線を向ければ、鮫柄学園水泳部の顔が並んでいた。元気な声の主はもちろんモモくんだ。素晴らしき御子柴家の遺伝子。

「茅さんお久しぶりです」
「久しぶりだね、岩清水くん、美波くん、魚住くん」
「東京の影響か……!ますますお美しいっ!!」
「クソッ、なんで岩鳶ばっかり!女子マネージャーがいるんだよ!」
「うちが男子校だからだと思うんだけど……」
「うるせえ似鳥!!」
「ふっふっふっ、これが岩鳶水泳部の実力だよ!」
「渚くん、茅先輩は水泳部のマネージャーではありませんから」

相変わらず岩鳶と鮫柄の関係が良好であると窺える。モモくんが自分も五十鈴ちゃん宅へ泊まりたかったという文句を五十鈴ちゃんがばっさり切り捨て、ひと盛り上がりしたところでみんなで会場へと足を運んでいく。人の流れに乗りつつも、後ろのほうで歩く宗介の隣に並ぶ。

「宗介、おっ、おはよう!」
「おう。元気そうだな茅」

なんでかは表現しにくいけれど、宗介には挨拶はきちんとしなければいけないという使命感を感じる。舎弟とかってこんな気分なんだろうか。

「宗介はリハビリ順調?」
「ああ。もうリハビリじゃ泳いでる」
「そっかぁ!いつか宗介が泳ぐところ見るのも楽しみだなぁ」
「あれ?二人ともそんなに仲良かったっけ?」
「まあな」

かくんと首を傾げて、可愛らしい仕草ながらも直球で尋ねてくる渚くんの質問をさらりと返す宗介に、ほわっと胸の中が温かくなった。ついへらへらと笑ってしまう。目が合った宗介がつられるようにふっと顔を緩めるものだから、なおのことだ。浮かれていると視界の外からずいっと江ちゃんが乗り出してきた。

「と、こ、ろ、で、茅先輩!大学はどうですか!素敵な筋肉を備えた彼氏さんは出来ましたか?」
「うげっ、江ちゃんの筋肉トーク……出来てな、」
「そうなんですか?でも分かります分かります。高校時代、あんな素敵な筋肉たちに囲まれてたんですから!」
「あ、ええと、」
「遙先輩の上腕三頭筋に真琴先輩の僧帽筋、そしてお兄ちゃんのパーフェクトな大胸筋!あれに勝る強者はなかなか現れませんよね!ねっ!!」
「江、茅が困ってる。すげえ困ってる」

言葉を探している間でも江ちゃんの口の動きが止むことはなく、宗介の声かけでようやくストップした。
和らいでいた雰囲気と気分は会場が近づくにつれて選手の気持ちが伝染してくるのか、みんなの空気も少しだけ張り詰めたものへと変わっていく。久しぶりに感じる重苦しい緊張感に手が震えてしまう。

「うわぁ、緊張してきた……」
「え?ちーちゃんが緊張なんて珍しいね。いつも目きらきらさせてハルちゃんが泳ぐの見てるじゃない?」
「いや、うん、それは、うん、そうなんだけどね」
「今日は昔の仲間も泳ぐからさ。じゃあ俺たち、あっちで友達待ってるから行くね」
「うん、またあとでねマコちゃん、ちーちゃん!」

高校の水泳部のみんながまとめて座れる観覧席を探し求めて会場の奥へと進んでいく。最後尾を歩いていた渚くんに手を振って見送ってから「ありがとう真琴くん」とお礼を伝えると、ゆるりと微笑まれた。

「あれから郁弥には会えた?」

………笑顔の理由はこれだったか。う、と言い淀みながらも、こくりとひとつ頷いてみせる。

「一回だけ、だけど、頑張ってねってちゃんと言えたよ」
「ふふ、そっか。良かったね」

穏やかな声に緊張していた心がじわりとほぐれていく。へへへ、といつものように喜びを顔に浮かべる。一分、一秒経つごとにざわつきが増し、人通りが多くなる会場が開始の時間が近いことを知らせている。

「俺たちも、応援頑張ろうね」
「うん!」

↑↓


「なんか茅、今日はそわそわしてるね」

隣に座る貴澄くんにきょとりとした顔で問われてぎくっと肩が強張る。

「へへ、なんか、緊張しちゃってさぁ」

誤魔化すようにへろりと返せば、貴澄くんの向こう側に座る真琴くんが少し張り詰めた表情で「今までの大会とは、まるでレベルが違うと思う」と口にする。今回の大会では国際大会に出場経験のある社会人も多数出場しているし、規模も懸ける思いも、今までとはきっと比べものにならないはずだ。

「それから郁弥が、」
『−−−まもなく、男子個人メドレー二百メートルの予選が始まります』

みんなの出場種目を貴澄くんと確認しあう真琴くんの言葉にアナウンスが被さった。

「夏也先輩との兄弟対決だ」

−−−桐嶋夏也
−−−桐嶋郁弥

表示が変わった電光掲示板に名前が並んでいるのを見て、さらに顔が引き締まっていくのが分かる。心拍数が上がっていくせいで、息が苦しい。観客席にいても緊張するくらいなんだから、郁ちゃんや遙のプレッシャーは相当だろう。それでも自分が大会に出た記憶のほうがずっとずっと緊張していなかった。少しでも緊張を紛らわすべく身体を揺らしていると、口から勝手に「あーーうーー……」と唸り声が溢れていく。隣からはくすくすと笑う声が聞こえてくるけど、それさえも頭に上手く入ってこない。だめだぁ、ちっとも落ち着かない。

(…………念には、)

夏也先輩と並んで入場してくる郁ちゃんの後ろ姿を見て、思い出す。

(念を、)

ふぅーー……と一息。深く息を吐いて両手を胸元で結ぶ。今ここで出来ることはたったひとつだ。
郁ちゃんが怪我をしませんように。郁ちゃんが無理をしませんように。郁ちゃんが勝てますように。それからなによりやっぱり一番は、今日も、明日も、これからも。


『 " Take your marks " 』


「郁ちゃんが楽しく、泳げますように」

ピッ、電子音が鳴る。選手たちが水の世界へと一斉にダイブした。先頭には夏也先輩、その後ろには隣のレーンの郁ちゃんが次いでいる。大学選手権のときのような辛そうな泳ぎではないことに対する安堵を先に感じた。中学時代、たった一度観に行ったあの大会でも夏也先輩の泳ぎは拝見したけれど、異国の地を転々として培ってきたものは、記憶のそれとは比べものにならない。すごくすごく速くて力強い。
一度目のターンから少しずつ差が縮まっていく本当ならここから飛び出して、一番前で応援したい。最前列に観客が多いためにそれは叶わないけれど、それならここで一番大きな声を出すまで。

「郁ちゃん!頑張れーーーっ!!」

最後のターンに入ったところでようやく二人が並んだ。残すはあと数十メートルというところで、夏也先輩がぐんと加速して再び郁ちゃんとの差が広がっていく。それに呼応するように郁ちゃんのペースも上がっていった。頑張れ、頑張れ、と何度も小さく呟くうちに目頭がぎゅうっと熱くなる。だめだ、だめだ、まだ泣くな。泣いたらちゃんと見えなくなる。

「っ、負けないで!郁弥!!」

振り切りように渾身の声量を送る。目の前のレースが決着したことに会場がどよめいた。目視では確認できないくらい、タッチのタイミングはほぼ同時。視線を移した先の電光掲示板には郁ちゃんの名前の横に"1"と黄色いランプが点灯して、はっと息を呑んだ。ゆらめく視界に夏也先輩が強く郁ちゃんを抱きしめたのが映った。ここからじゃ力の加減なんて分からないはずなのに、絶対にそうだと確信めいたものが生まれる。目頭がすごく、熱い。
中学のときの郁ちゃんと夏也先輩の間にあった溝については、一部始終しか知らないし、郁ちゃんからもその後詳しく聞いたりはしていない。だから知っているのは、その溝が原因で水泳部を辞めると叫んで教室を飛び出したことと。憧れている人は誰かと聞かれたら「兄貴」とそっけなく、照れくさそうに答えてくれること。それから夏也先輩が「自慢の弟だ」と嬉しそうに笑ってくれること、たったそれだけ。
たったそれだけが、今、こんなにも胸を締めつける。

「僕、茅が泣くところ、初めて見たなぁ」

隣の貴澄くんがぽろりと呟く。力いっぱい下唇を噛んで耐えていたつもりだったのに、どうやらもう手遅れだったらしい。

「郁弥、かっこよかったね」

慌てて両手で鼻と口元を覆い隠したのに、真琴くんがそんなことを言って頷かせるものだから、余計にぽろぽろと涙が落ちてくる。
手紙を諦めた甲斐はあったかもしれないなぁ。だって今の郁ちゃんに繋がっているんだから。そんなことを思いながら、落ちてくる涙をひたすら拭う。

やっぱり郁ちゃんは、一番かっこいいね。



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