27.

夏休みの学内というのは少し不思議な空気が漂っているような気がした。いる人のほとんどはサークルや部活に出向いてる人だろう。中学、高校と部活に費やしていた夏休みがなんだか懐かしい。
開放されている図書館へ足を運び、スポーツジャンルの棚へとまっすぐ歩みを進める。いつもならトレーニング論や陸上競技の本を目に映すところだけれど、今日はそれらをスルーして水泳のコーナーへと辿り着く。昨晩、怜くんに連絡して競泳の陸上トレーニング本のおすすめを何冊かピックアップしてもらっていたので、迷うことなく手を伸ばす。が、しかし。

(と、届かない………!)

大学の図書館は高校に比べたら種類が豊富ですごく助かるけれど、その分棚の高さもある。人差し指がコツコツとお目当ての本に触れるだけで、どう頑張っても届きそうにない。仕方ない、踏み台を持ってこよう。一度諦めようと腕を下ろした途端、後ろからすっと伸びた手が私の取ろうとしていた本を攫っていく。

「はいどーぞ」
「へへ、ありがとうエミちゃん」

攫われる本を目で追いかけた先には一緒に来ていたエミちゃんがいた。中学のときからエミちゃんは私より五センチくらい背が高くて、今でもそれをキープされている。むしろちょっと離されたくらいだ。私があまり伸びていないだけなんだけど。

「競泳の陸トレ本?」
「うん。ちょっと勉強してみようかなって」
「元々してたじゃない」
「うーん、もっと、ちゃんとしたくて」
「また七瀬くん絡みか。いや、桐嶋くんかな?」
「うえっ、ち、違うよ!どっちも違うから!」

エミちゃんの口から出てきたワードに大袈裟に心臓がどきりと跳ね上がる。ぶんぶんと両手を振って否定すれば、エミちゃんは口元をにやりと緩めて笑った。

「いい顔するようになったね〜、七瀬くんのこと好きって言ってたときよりよっぽど恋する乙女って感じ」
「ちょ、ちょっとエミちゃん!」

ごほん、とどこからか咳払いが聞こえた。ボリュームが上がっていたことにはっと気づいて口元を抑える。エミちゃんには言いたいという気持ちが前面に押し出ていたのか、最寄駅で待ち合わせていた時点でそわそわしているのがバレている。バスを降りてから大学に到着して周囲に人がいないことを確認してから、自白した。どうして女の子って好きな人が出来ると仲の良い子に言いたくなるんだろう。我ながら不思議だなぁと思う。

「で?会ったの?一回くらい」
「あああ会ってないよ」
「動揺がすごいな」
「だっ、うあ、郁ちゃん、全日本前で忙しいだろうし」
「けど毎日毎時間練習してるわけじゃないでしょ?」
「それは、そうだと思うけど……」
「自分から誘えばいいじゃない。会いたいんでしょ?」
「ぬあ、うう」

会いたい、なんて心の内側に隅っこに秘めているものを直接的に表現されたら動揺せずにはいられない。ぽふっと瞬間的にあたたまる頬を見られないようにすべく、エミちゃんが取ってくれた本で顔の下半分を隠せばくすりと静かに笑われる。

「こんなに意気地の無い茅は初めてだわ」
「私も初めてです……」
「ふふ、可愛いわねぇ。けどいくら仲良くたって、気持ちは言わなきゃ伝わらないんだよ?桐嶋くん、かなりかっこいいんだからさ」

言われた言葉にうぐぐ、と黙り込む。郁ちゃんがかっこいいことは昔から知っているけれど、最近はさらに、より、深く、分かるようになってしまったから。気持ちを伝えるとは、つまり、そうゆうことなのだろう。ハードルが高すぎる。

「………アメリカよりは、近いのになぁ」

自分の言った言葉を思い出してぽつりと呟いた。隣で体幹トレーニングの本を漁っていたエミちゃんにはもちろん届いている。

「物理的な距離はそうでも、茅が縮めたいのは精神的な距離でしょ?」

ずばり。またもや心の内側を言い当てられる。真琴くんもそうだけど、エミちゃんにはもっと敵いそうにないや。肯定することも否定することも出来なくてずるずるとしゃがみこめば、上からはくすくすと堪えるような笑い声が振ってきた。

↑↓


「じゃあサークルの部室寄ってくるね」
「うん。適当にうろうろしながら待ってるね」
「水泳部覗きに行ってきてもいいんだよ?」
「いっ、いい行かないよ!」

相変わらず動揺を露わにする私の反応にけたけたと笑いながらエミちゃんが学内へと消えていく。彼氏さんの忘れ物がサークルの部室にあるとかで、それを取りに行ったのだ。一緒に来るのかとも聞かれたけれど、部外者だしなぁと思って遠慮しておいた。ふらふらと行く宛も決めずに校庭を歩く。そこで、ふと思った。

(………すごいなぁ、エミちゃんは)

好きだと思う人とちゃんと距離を縮めて、好きだと伝え合って、きちんとお付き合いをして。遙を好きだと思ってたときは、もっと仲良くなりたいって気持ちが強かったけれど、郁ちゃんとは元々仲良しだし、気持ちに気づいたところでどうしていけばいいのか正直よく分からない。会わない日が続けば続くほど全日本選抜の日は迫ってくる。
そんなことを考えていたせいか、足は勝手にプールのある場所へと進んでいた。エミちゃんには行かないと言っておきながら、我ながら、なんというか、なんというかだ。花壇と隣り合わせになっているプールの窓から中を覗いてみるも、既に水面は凪いでおり、プールサイドにも人気は無い。練習はとっくに終わっているだろう。スマホで確認した時刻はもうすぐ十七時を指そうとしている。
未だに郁ちゃんとは一日に十通もないくらいのメッセージの行き来がのんびりと続いていた。私もそんなに返事が早いタイプではないので、これくらいがちょうどよくて、心地いい。朝送ったきりで今日はまだ返事がない。忙しくて当然だ。学校に来たからといって、ばったり会えるわけ、


「茅?」

無いと、思っていた。たった今の今まで。

「い、郁ちゃん……?」

目の前で夕日に照らされて、静かな風に揺れている綺麗な髪に目を奪われる。水泳部のジャージを纏った郁ちゃんが、そこにはいた。何度も瞬きを繰り返して「ほんもの?」と震えた声で尋ねれば、呆れたように目を細められる。

「当たり前でしょ。何してるの?」
「あ、え、ええと、図書館に!本を借りに来てて」
「そうなんだ。一人?」
「ううん!エミちゃんと、一緒!」

言葉の端々に戸惑いが滲んでいるのが分かってしまう。しかもその戸惑いは、思いがけず郁ちゃんに会ったからではなくて、数日前に真琴くんの前で吐露して認めてしまった想いのせいだ。

「え、っと、郁ちゃんは練習?だよね?」
「練習って言っても、二時間前からは自主練だけど」
「そ、そう、なんだ!お疲れ様!」
「うん。ありがと」

どうしよう、目が、合わせられない。
郁ちゃんへの気持ちを自覚したってだけで、なんでこうも景色が違うんだ。ちらっとだけ見た郁ちゃんの顔は不思議そうな色を浮かべている。そりゃそうだろうとは思いながらも普通に出来ない。今までどおりにしていられない。心臓が、すごく、騒がしい。

「………茅、」
「おーい桐嶋ー!帰ろうぜー!」

名前を呼ばれるのとほぼ同じタイミングで、郁ちゃんが呼ばれる。プールの入り口があるほうにテッポウウオこと寺島くんと、それから寒河江くんと遠野くんが立っていた。身体半分をあちらへ向けた郁ちゃんが「今行く」と短く返事をすると、寺島くんたちは止めた足を進め始める。

「じゃあ茅、」

−−−またね。

きっと言葉の続きはそれだった。


「っあ、ご、ごめっ、!」

予想した言葉を止めたのはほかの誰でもない私だ。聞きたくないと思ったら、いつの間にか郁ちゃんの上着の裾をつまんでいた。引き止めてしまったと気がつくのに数秒を要した。慌てて手を離せば、郁ちゃんは大きな瞳を丸くしてきょとんとしている。

「………茅?どうかした?」

ようやく合わせた目にまっすぐ問われる。あ、とか、う、とかは口から出てくるけど、肝心な言葉が何ひとつ出てこない。何か、何か言わなきゃ。

「郁弥。僕たち先に行ってるから」

そう思っていると、寺島くんと寒河江くんの数歩後ろを歩いていた遠野くんが振り返ってそう言って、再び私たちに背を見せた。遠くなる背中に「分かった」と返した郁ちゃんがこちらへ向き直る。

「茅?」

さっきよりも丁寧な呼び方に、きゅうきゅうと胸の奥が切ない痛みを訴える。郁ちゃんのことはずっとずっと大好きなのに、どうして好きの種類が違うだけでこんなに緊張するんだろう。真っ白になりそうな頭の中に、伝えたい気持ちが溢れてくる。
郁ちゃんに会いたかった。それから、もっと会いたい。メッセージのやり取りじゃあ足りない。郁ちゃん、あのね、わたしね、

「っ、郁ちゃんのこと、」

もう気づかないふり、してないんだよ。


「応援!するからね!一番大きい声で、郁ちゃんに届くように!」

胸の奥の痛みを立て替えるようにして、自身の拳をぎゅうっと握って、にぱりと笑った。今思ってることが言いたいことだとするなら、言いたいことがたくさんある。けれど今は自分の気持ちよりもずっとずっと大事なことが控えている。いつか世界を目指したいと語ってくれた、郁ちゃんの大切な夢。目前にしてこんなことを言ってはいけない。それにきっと大会当日は伝える時間が無いだろう。ならば今、一番に伝えたいことはこれだと思った。ぱちりと目を瞬かせている郁ちゃんを笑顔のままじっと見上げていると、突然右手首を攫われる。

「へっ、え、うあ、ええと、郁ちゃん……?」

一度落ち着いたはずの心はいとも容易く揺れ動く。私とは打って変わって、郁ちゃんは落ち着いた様子だった。郁ちゃんの左手によって空へ向いていた右手のひらの上に、ポケットに入っていた郁ちゃんの右手がそっと重なって、少し力を込められる。

「念には念を、ってね」

ふわりと優しく笑みを浮かべられる。ゆっくりと郁ちゃんの両手が離れていくと、残された私の右手には別の感触があって、目を見開いた。

「もしかして、ずっと持っててくれたの?」
「……捨てたりするはず無いでしょ」

ふいっと目を逸らす郁ちゃんを見上げる。もう一度そこへ視線を落とすと、いつかの花火の帰り道に郁ちゃんへ渡した岩鳶の八幡様のお守りがそこにあった。渡したときに比べたらかなりへたっている。不意打ちすぎる登場に見開いていた視界がゆらゆらと揺れたけれど、代わりに揺れていた心がしっかりと固まった。胸元へ持ってきて祈るようにお守りをぎゅっと握りしめて、今度こそまっすぐ郁ちゃんを見た。

「郁ちゃん、頑張ってね!」

今度は私が郁ちゃんの手を掴んで、その手のひらにお守りを乗せた。名前も顔も知らない水の神様に、願うことは変わっていない。大きな瞳をゆるりと細めた郁ちゃんはただ一言発して、あのときのようにこくりと頷いた。

「うん」



郁ちゃんを見送って数分後、近くのベンチに腰掛けていると「ごめん茅!」とエミちゃんが駆け足で戻ってきた。どこから走ってきたのかは分からないけれど、息ひとつ乱れていない。さすがエミちゃん。

「お待たせ〜」
「おかえり!全然待ってないよー」
「………お?」
「へ?な、なに?」

意味ありげにこちらを見るエミちゃんが、次第ににやにやと口の端を上げていく。

「顔、赤いよ」

熱中症にでもなったのかしらね〜、なんて。確かにこの時期は夕方になっても暑いけれども。違うことが分かっているくせに、意地悪く言ってのけるエミちゃんに耐えていたものが爆発した。

全日本選抜は、もうすぐそこだ。



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