24.

「送っていくよ。もう暗いし」

そう言ってスタスタと前を歩く郁ちゃんは足早にホームを出て、改札までくぐっていってしまう。私の家までの帰路をもう覚えているのか、二回ほど一緒に歩いた道を迷わず辿っていく。置いていかれないように早足で後ろをついていっているので、郁ちゃんがどんな顔をしているのかが見えない。相変わらず、綺麗な後ろ髪がぬるい夜風に揺れているのが目に入る。潮の香りはしないけれど、なんとなくあの花火の帰り道と、今の郁ちゃんの背中が同じように見えた。

「郁ちゃんに会うの久しぶりだね!二週間ぶりくらい?」
「うん」
「やっぱり夏休み中は練習ばっかり?」
「うん」
「ちょっとは遊んだりした?」
「うん」
「うーん………?」
「うん」

会話が成立しているにはしている、と思ったけどやっぱりあんまり聞いてはいないらしい。なんか前にもこんなことがあったような。なかったような。やっぱり何か、怒っているのだろうか。でもその何かって、なんだろう。

「郁ちゃん、あのね、本当にいつも送ってもらわなくても大丈夫だよ。バイトの帰りとかもっと遅いし、休めるときに身体、休、めない、と……?」

試しに話題を変えてみた。が、失敗したかもしれない。そう思う理由は、郁ちゃんが私の言葉の途中で足を止めながら吐いた溜め息にある。ようやくこちらを振り向いた郁ちゃんは、やっぱりどこか不機嫌そうな顔をしていた。

「茅は女の子なんだから、なにかあったら僕が大丈夫じゃないんだけど」

へっ、と気の抜けた言葉が漏れる。女の子なんだから、なんて男の子に言われるのは初めてだ。遙も真琴くんも気を遣って送ってくれることはあるけど、そんなことまで言われたことはない。胸の奥のほうできゅうきゅうと何かが切ない痛みがを訴えていて、郁ちゃんの目を見ていられずに視線を落とす。

「郁ちゃん、怒っているのでは……?」

目を背ければ聞きたいことがすんなりと口から出てきた。疑問系とも取りずらい言い方になってしまったけれど、少し間を置いてから「別に怒ってないよ」という言葉が降ってきて、ばっと顔を上げた。

「えええ!う、うそ!嘘だ!」
「こんな嘘ついてどうするの」
「だって街中で会ったときも凛とばちばちしてたし、目が合ってもすぐに逸らすし!」

あれが怒っているわけじゃなかったというのなら一体なんなのか、分かるように説明してもらわないと納得が出来ない。郁ちゃんは、あー……と言葉を詰まらせながら右手で首を後ろをさすっている。まるっきり心当たりがある反応じゃないか。今度は逸らさずにじっと大きな瞳を見ていれば、溜め息に近い吐息が聞こえた。

「………子どもっぽいって言わないでよ」
「うん?」
「凛と、随分仲が良いみたいだったから」
「うん、………うん?」
「あとあの山崎ってやつとも」
「うん???」

今度は私がうん、しか言えない番になった。言われたとおり、凛とは仲が良い。宗介とも、今日で少し距離は近くなったと思う。言われた言葉を脳内で復唱すると、ぴこんっと頭の中でひとつの答えが導き出された。もしかしたら、いや、そんなまさか。中一のときは今よりもっと感情に名前を付けるのが下手だったし苦手だったけれど、今ならそれを予想することが出来る。

「…………あっ、やきもち?」

そうだったらいいなぁと思ったことを口に出すと、郁ちゃんが驚いた顔をした。あれ、違ったのだろうか。あははっ、なーんて、と手をひらひら振りながら自分の言ったことを否定すると。

「………悪い?」

驚いた顔から、むすっとした顔になってぶっきらぼうに言われる。予想は見事に当たったらしい。その顔は今日何度も見たはずなのに、間違いなく今日一番の可愛い顔だ。溢れる喜びのせいで視界がきらきらと光って見えた。もちろん隠せるわけはなく、手で口元を押さえても指の間から笑い声が抜けていってしまう。

「ふ、ふふっ、ふふ」
「ちょっと。笑わないでって言ったじゃん」
「笑わないでとは言われてないよ!子供っぽいって言わないでって言われたんだよ」
「どっちも同じでしょ」

ふいっと顔を進行方向へ背けながら郁ちゃんが止めていた足を進める。置いていかれないように、今度は後ろじゃなくて隣に並んで歩いた。口からはまだ笑い声が溢れている。

「へへへ、やきもちかぁ、嬉しいなー」
「………嬉しいの?」
「もちろん!そっかそっか、郁ちゃんは凛と宗介にやきもちやいてくれるのかぁ」
「何回も言わなくていいから」
「ふふふ、心配しなくても、一番の仲良しは郁ちゃんだって思ってるよ!」

ゆるゆるのほっぺたで嬉々として告げてみせる。さっきまで納得できない、なんて思っていた頭の中はすっかり嬉しい気持ちでいっぱいに満たされていた。我ながら単純だなぁ。特に郁ちゃんのことに関しては。

「………それじゃあ意味無いんだけど」

ところが隣からは不服そうな声が聞こえてきた。緩む頬をそのままにして、首を傾げながら見上げれば「なんでもない」と言い放たれる。まあ、なんでもなくてもいいかなぁ。郁ちゃんが凛と宗介に妬いてくれたというのが何よりも嬉しい。二週間会っても連絡を取ってもいなかったせいか、喜びが何倍にも膨れ上がっているような気がする。
そこでふと、思い出す。二週間前に見た光景と、遠野くんに言われたこと、二週間の間に私が何回も考えていてはもやもやしていたこと。思わぬ形で出た答えにひどく納得した。

「そっか、私もやきもち、してたんだ」

他人事のような呟きがぽつりと夜道に落ちる。当然聞こえていた郁ちゃんはこちらを振り向いて、不思議そうな顔をした。

「………誰が?誰に?」
「ええと、水泳部の先輩?この前遠野くんと三人で出かけたときに、郁ちゃんが話してた人」

すぐに誰だか出てこないのか、郁ちゃんは口を閉して少ししてから思い出したようにああ、と零した。すらっとしていて、綺麗な郁ちゃんの隣に並んでいるのがすごくお似合いだった人。私より郁ちゃんに会う回数が多いであろう人。ほんの少しだけ羨ましいと思ってしまったんだ。今でも考えると、やっぱりもやもやした気持ちが顔を出してくる。

「郁ちゃんのこと、取られちゃうのかなって思ったから」

何かを言われる隙を作る間もなく、ひたすら前だけを見ながら言葉をひとつずつ紡いだ。

「遠野くんの言ってたあれ、なんか、気になってたんだ。取られたくないもの、取られたくないってちゃんと言わないとって。だとしたら私はやっぱり、郁ちゃんのことかなぁって」

でも郁ちゃんにもし彼女が出来たら、あんまり一緒にいたらダメだよね。最後にそう付け足して、いつもみたいにへらりと笑う。郁ちゃんに伝えられたおかげか、なんだか少しすっきりした気分だ。

「茅のそれ、何?」
「…………"それ"?」

それ、とはどれのことを指しているんだろう。すっきりしはじめていた頭の中にまた新たな疑問符が浮かび上がる。ぱちぱちと瞬きをして見上げていると、ぱっと視線を逸らされてしまった。今日はもう何回目を逸らされたらいいのだろう。

「日和がなんて言ったのか知らないけど、前に話してた先輩は、星川キャプテンと付き合ってるから」
「へー………えええ!そうなの!?」

待って、遠野くんものすごい嘘つきじゃないか。狙ってるとか言われた気がするんだけど。いやでも、もしかしたら知らなかったなんてこともあるのかもしれない。なんとなく遠野くんに限ってそれはないんじゃないかと確信めいたものを抱く。けど今は安心の気持ちのほうが何倍も大きく、ほうっと分かりやすく安堵の息を吐いた。あれ?でもなんで、安心するんだろう。あ、そっか、やきもちしてたから。郁ちゃんのこと取られないんだって、嬉しいって、思ってるから。

「茅」

再び地面に足をくっつけた郁ちゃんに名前を呼ばれて三歩くらい先で立ち止まり、振り返って、気がついた。生温かい夜風が郁ちゃんの前髪を揺らしているのに思わず見惚れる。その前髪から覗いてる大きな瞳が、ゆらゆらと揺らめいて、きらきらと瞬いていた。

「僕のこと、少しは気にしてくれてた?」

この前の、見たことない顔をした、郁ちゃんだ。

「し、してた、よ。少しじゃなくて、たくさん」
「たくさん?」

とく、とく、とく、と自分の心臓の波打つ音がゆるやかに加速していくのが分かる。それに釣られるようにして声が少しだけ震えてしまった。

「うん、あの、郁ちゃん何してるのかなとか、頑張ってるかなとか、無理してないかなとか、いろいろ、たくさん!でも練習の邪魔になっちゃうから、連絡しないように我慢して」
「連絡しようとしてくれたの?」
「す、するよ、そりゃ!だってせっかくの夏休みなのに、ちっとも会えないから。けど郁ちゃんが頑張ってるから、私も頑張らないとって、思っ、」
「茅」

まとまらない言葉をひたすら口から追い出していると、はっきりとした声でまた名前を呼ばれた。無意識に泳がせていた視線をもう一度郁ちゃんの瞳へ向ける。空いていた三歩分の距離は、いつのまにか一歩分くらいまで縮まっていた。私は動いていないので、郁ちゃんが距離を詰めたということになる。息をするのを忘れていたら、鞄のストラップを握っていないほうの手が攫われた。郁ちゃんの体温が、じわりと伝わってくることに身体のどこかがびくりと跳ね上がる。郁ちゃんはやっぱり見たことのない顔をしていて、多分、顔は赤くなっている。いつもなら、昔だったら、郁ちゃんは可愛いなぁって笑えたのに。今は全然それが出来そうにない。

「もう、いいから」

何かを堪えるような声色だった。帰ろう、と手を引かれて再び歩き出す。どうして手を繋ぐんだろう。けど繋がれているのが嬉しくて、聞いたら離れてしまいそうで、何も言わずにいることにした。

「僕も、連絡しようか迷った。何回も」
「何回も?」
「何回も」
「そっ、か」
「うん」
「連絡してもよかった?」
「………当たり前でしょ。全日本まで時間ないから、そんなに返事、出来ないと思うけど」

言われた言葉に、頬がまた軽くなった。郁ちゃんが忙しい時期だなんてよく分かっている。もしほんのちょっとでも妨げになるのなら、という心配から「くだらないことばっかり送るよ?今日なにしてたとか、どこいったとか」と確認するように聞いてみても「いいよ」とすぐに返事が返ってきた。さらりと綺麗な後ろ髪を揺らしながら振り返った郁ちゃんが、ふわりと優しく微笑んだ。

「なんでもいいよ」

とろん、とあたたかい何かが溶けるような感覚は、郁ちゃんと再会してからもう何度目だろうか。隠すように、へへ、とだらしなく笑ってから繋がれた手をぎゅうっと握りしめる。自分のとは全然違う、大きくて堅い手のひら。すっかりもう、男の人なんだなぁ。穏やかな気持ちとは正反対の騒がしい心臓の音が、手を通して聞こえてしまいそうだ。

この時間が続いたらいいのになぁ、って思うのは、おかしいことなのかな。住んでるアパートが見えてきたところで手が離れるのを想像しながら、そんなことを思っていた。どうしよう。気づいてはいけないことに、気づいてしまう気がする。



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