「山崎くん?」
声をかけてすぐに、しまった、と思った。私がほぼ一方的に知っている状態なのにも関わらず、知っている顔がいたものだからつい声をかけてしまった。夏休み明けの体育で少し足を捻ってしまい、念のために来た整形外科での診察を終え、待合室に戻ったところで呆然と立ち尽くしてしまう。佐野北駅で江ちゃんが山崎くんを見かけたことがあると言ってはいたが、まさか同じ病院だとは。
「茅………さん」
取ってつけられた敬称に一瞬だけ思考が止まる。もしかしたら、多分だけど、ひょっとしたら、山崎くんと私の共通の友人の中で苗字呼びをする人がいないから苗字を知らないのかもしれない。
「悪い、苗字が分かんねえ」
そんな予想を組み立てていると、山崎くんが素直にそう言った。どうやら大当たりだったらしい。
「茅でいいですよ」
「おう。こっちも敬語は無くていい」
ではお言葉に甘えてタメ口で話をさせてもらおう。ちょうど待合室が混み合っていることもあってか空席が少ない。隣に座っていいかと尋ねると顔色ひとつ変えずに頷いてくれたので遠慮なく隣に腰掛けた。
「凛と佐野小の同級生なんだってね。あと貴澄くんも」
「ああ」
「水泳は凛の勧めではじめたの?」
「おう。小三のときに」
「そうなんだぁ!ふふ、凛って誰でも引きずりこんじゃうんだね」
「………ふ、そうだな」
おお……!という感心の声を心の中にどうにかこうにか留めておく。山崎くんが顔を綻ばせているところは江ちゃんと話しているときとか、鮫柄水泳部の皆さんといるときに何度かお見かけしたけれど、強面な印象があるからかぐっとくるものがある。すごく優しいと江ちゃんが嬉しそうに話していたのを思い出す。だから、つい、口を開いてしまった。
「山崎くんのバッタはダイナミックだよね!凛とはまたちょっと違う感じで、やっぱり肩周りの筋肉の付け方とか柔軟さが違うのかなぁ」
「俺は鯨津でトレーニング積んでたからな」
「東京の学校だったよね、確か!鮫柄学園も学校内のトレーニング設備しっかりしてるよね!羨ましいよなぁ、一応岩鳶にもあるけど鮫柄に比べたら、」
そこまで喋って、はっとした。呆れるような視線がぐさりぐさりと山崎くんから刺さってくる。
「お前、よく喋るな」
「ご、ごめんつい、ベラベラと……」
「いや、凛と江からお前の話は聞いてた」
「え?それってどんな話?」
「いろいろだ」
いろいろとは。激しく気になるところではあるけど、また突っ込み出すと口が止まらなくなりそうなのでぐうっと押し黙る。それでも山崎くんに言われた言葉が嬉しくておかしくて、思わずふふっと口から笑みが溢れてしまった。案の定、怪訝そうな顔をされる。
「よく喋るなってやつ、昔よく友達に言われてて。懐かしいなぁ」
そう言いながらへらへらと笑ってみせた。半分は誤魔化しも含めて。特に嫌な顔もせず「そうか」と落ち着いた声が返ってくる。うん、やっぱり江ちゃんの言う通り、とても優しい人みたい。
「あ、あの、山崎くんって凛がオーストラリアにいる間、ずっと連絡取ってたの?」
だからこれも、つい、だ。聞きたくなってしまった。
「いや、途中から………あいつが壁にぶつかってる間は取ってなかった」
「壁に………、そっか」
去年の地方大会のあのメドレーリレーの裏側の出来事も話にはちゃんと聞いている。凛はオーストラリアで壁にぶつかったことも。留学すれば相手は当然外国人だ。体格差だけではなく、言葉や生活。何が理由でつまづいたり、立ち止まったりしたってなんら不思議はないこと。
「あえて何も聞かなかった。あいつが壁をぶち破るって信じてたからだ」
私がそれ以上に何も言わないからか、山崎くんはさらに「それに」と続ける。
「俺が立ち止まる理由にはならねえと思った」
強い意志の持った眼差しに、一瞬息をするのを忘れる。それからただただ、すごいなぁと思った。私は立ち止まってしまったから。やり場のない思いを自分で消化できず、言葉にも涙にも出来ず、進むことから目を背けてしまったから。私もオーバーワークが原因で靭帯断裂という大きな怪我をしてしまったけれど、私と山崎くんでは大きな差があると本能的に感じた。それに、私とあの子とも。あの子はチームが解散しても立ち止まらずに進み続けているのに。
「聞きたかったことはそれだけか?」
山崎くんの言葉にぎくりと身体が硬くなる。うう、バレていた。今年度になって山崎くんという存在を知ってから実は気になっていたんだけど、なんとなく凛には聞きづらくてずっと胸の奥にしまいこんでいた。内心焦る、と同時に反省した。
「う………ご、ごめんなさい。山崎くんの努力を安易に受け取ろうとしてしまった……」
肩を落としながら謝罪をする。気になっていた、なんて簡単な気持ちで聞いていいものではなかった気がしたから。それに山崎くんがこれから自分の怪我と向き合っていかなければならないというのなら、尚更。
「そんな大袈裟に思わなくていい。そっちのほうが面倒だ」
「………へへ、そっかぁ」
ぶっきらぼうに放たれたその面倒という言葉さえも、きっと山崎くんの優しさで出来ているんだと思う。その器の大きさを目の当たりにして、つい自然に口を開いてしまった。またしても、つい、だ。
「実は、私の友達にもいるんだ。水泳留学してる男の子」
「………連絡がないのか」
話の流れからしてそう思われて当然だろう。私は素直にこくりと頷いてから、でもね、と言葉を続けた。
「とっても強い子だから、きっといつか凛の良いライバルになるよ」
我ながら強気な顔をしていると思う。凛のライバル、というワードを逃さない山崎くんは一瞬驚いた顔をしてから、ふっと微笑んだ。
「そいつは楽しみだな」
「うん!ありがとう山崎くん!」
彼の優しさに甘えてしまったこと、貴重な話を聞かせてもらったこと、全部に対してのありがとうだ。伝わったのかどうかは分からないけれど、山崎くんの表情はどことなく穏やかに見える。
「そういえば全国のとき、男子のコンメの決勝見たか?」
「こんめ?あ、個人メドレー?」
「おう」
「うーん、記憶にないし、見てないなぁ」
「そうか………」
「うん?」
口元に手を当てて、何かを考えているような顔をする山崎くんに首を傾げる。個人メドレーの決勝が行われてる頃には、もうメドレーリレーの試合は終わったあとで、会場の外で遙たちと話していたはず。決勝どころか予選ですらちゃんと見ていなかった気がするけれど、何かあったのだろうか。
「優勝したやつが確か、岩鳶中の」
「瀬戸さーん、瀬戸茅さーん」
山崎くんが話し出すのとほぼ同時で受付の人に呼ばれる。会計の計算が済んだのだろう。
「呼ばれちゃった……ごめんね山崎くん、ええと、」
「いや今度でいい」
今度、という言葉に一瞬きょとんとする。つまりはまた会ったら話しかけてもいいということだと、都合よく解釈していいのだろうか。こうなったら例え違うとしても今度会ったらまた話しかけよう。
「うん!話聞いてくれてありがとう。また今度ね!」
「ああ。またな、茅」
改めて名前を呼ばれた声の色は、やっぱり強くて優しいものだった。