22.

「茅」
「…………ぬうう…」
「眠いなら今日はもうやめる?」

ついつい船を漕いでいると、向かい側に座っている真琴くんから名前を呼ばれて、かくんと落ちた頭を上げた。区立図書館で勉強会を始めたはいいものの、夏休みに入ってからほとんど毎日バイトと遊びの予定をぱんぱんに詰め込んでいたツケが回ってきているのか、どうにも程よく涼しい場所でノートに向かっているとまどろんでしまう。

「もうちょっと、やります……」
「そんな状態じゃ頭に入らないだろ」

くすくすと穏やかに笑う真琴くんは、眼鏡をかけているからいつもより厳しくも優しくも見えて、言われた言葉にぐうっと押し黙る。おっしゃるとおりですとも。

「ここ併設してるカフェもあるみたいだから、そこで少し休憩しよっか」
「そうしようかぁ……………………ぐう」
「言ったそばから寝るなって!」


カットしてあるレモンが浮かぶお洒落なレモネードをぐびっと流し込み、ぷはぁ!と勢いよく息を吐けば、真琴くんが「茅、おじさんみたい」と苦笑いで言った。ちなみに眼鏡はもう外している。華の女子大生がおじさんでは困ると思い、今度は控えめに息をつく。冷たいレモネードのおかげでなんとか頭がすっきりしてきた。

「図書館にカフェまであるなんて、東京はどこもかしこもお洒落だね」
「本当にね。この前三人で行ったカフェもお洒落だったし」
「この間郁ちゃんと遠野くんとも行ったんだよ。ガトーショコラも美味しかったなぁ」
「へえ、そうなんだ。俺もまた行きたいな」
「全日本が終わって遙が戻ってきたらまた行こうね!」

そう言うと少しだけ真琴くんの顔が曇った。数秒間置いて「そうだね」と返事をしてくれたけれど、その表情はまだ不安げに揺れている。真琴くんの言わんとしていることは見当がついている。遙から連絡が来ないことについて、きっと心配をしているんだろうと思う。未だに連絡が無いと勉強会前にこぼしていたし、私も無いと答えたから無理もない。

「そうだ、郁弥とは夏休みの間に遊んだりした?」

真琴くんがぱっと表情と話題を切り替えた。あれからもう二週間が経とうとしているが、遊ぶどころか連絡すら取っていない。私は首を横に振った。

「そうなの?ちょっと意外」
「うーん………郁ちゃんも忙しいだろうし、誘っていいのか分からなくて」
「茅はどうなの?」
「私?」
「うん。郁弥に会えなくて寂しくない?」

なんだか遠野くんにもこの前同じことを聞かれた気がする。でもこの前は郁ちゃんのことじゃなくて遙のことを言われたんだっけ。寂しいかどうかなんて、そんなの答えはひとつに決まっている。

「寂しいけど、平気だよ。アメリカよりは近いから!」

にぱりと明るくそう言えば、真琴くんもつられるようにして目元を下げて笑う。

「ふふ、そっか、それもそうだね」
「うん!だから今遙がいるところだって、ちっとも遠くないよ」

ストローをくるくると回すと氷がからからころころと音を立てる。ここで真琴くんなら行儀悪いよ、と注意してくるところだけれど、今日はそれが無いらしい。

「いつでも会いに行けるよ、遙に。岩鳶にいるときと同じように」

ねっ、真琴くん!と念を押すように名前を呼んで、若草色の瞳をまっすぐ見てもう一度笑ってみせれば、その顔が少しだけ揺らめいた。何秒間か置いて「………うん、本当にそうだね」と微笑む真琴くんの顔には不安の色が薄くなっている、と思いたい。

「それに、郁ちゃんに会ってから余計に思うんだ。郁ちゃんにも遙にも負けないように、頑張らないとね」

発した言葉にほんのちょっとだけ強がりを混ぜ込んでしまった。本当は遠野くんに言われたことが何度も頭の中をよぎっては、心のどこかでハラハラしたりもやもやしたりして、知らない感情に苛まれる時間がたまにやってくる。私が会えない間だって、あの水泳部の先輩は毎日のように顔を合わせているはずだ。
もちろん考えるのはそれだけじゃない。たまにふと郁ちゃんを思い出しては、今何してるのかなぁとか。頑張ってるかなぁとか。無理してないかなぁとか。会えないのかなぁ、とか、思ったりする。その感情たちは、忙しさや楽しさの中で一時的におぼろげになっても消えてしまうことは無く、むしろいろんな気持ちを貼りつけて蓄積されて、より大きくなっているような気がした。なんだかよく、分からないことばかり。
そんな中でただひとつ確かなことは、自分に言い聞かせるようにも言った、負けないように頑張るということだけ。

「茅の原動力は、いつも郁弥だね」

この前遠野くんと話したときみたいに、頭の中をめいいっぱい膨らませていると、真琴くんの言葉でそれがぱちんと弾けた。

「…………へ?いつから?」
「んー、中学のときから?」

疑問系に疑問系で返される。そうかなぁ、と気の抜けた声で返せばすぐに、そうだよ、と言われる。言われてみれば確かにそうかもしれない。嬉しいような、照れくさいような、くすぐったいような、それでもって切ないような、苦しいような。なんとも形容しがたい気持ちを誤魔化すように、からからころころとストローで氷を掻き回すと、今度はちゃんと「行儀悪いよ」と注意をされた。


↑↓


「寝ないように気をつけてね」

夕方からバイトがある真琴くんは明るいうちにそう言い残して区立図書館を先に出たのだが、せっかくの注意も無駄にするようにしっかり寝過ごしてしまった。外に行けばもうすっかり空の色は橙色になっていて、エアコンの風がちょうど当たる位置だったからか、若干肌寒く感じる。真夏の気温で身体をあたためていると、街中を行き交う人の中で目を奪われてすぐにぱぁっと気持ちが明るくなる。見間違えるはずがない。夏休みの間、何度も頭の中に浮かんだ人。

「郁ちゃんっ!」

難しいことはひとまず頭の隅っこに投げやって、ぱたぱたと駆け寄れば郁ちゃんはすぐに気づいてくれた。よくよく見てみると椎名くんたちもいるではないか。

「おー、瀬戸じゃねえか」
「茅、何してるの?」
「区立図書館で勉強してて、その帰り!」
「一人で?」
「ううん。真琴くんと一緒だよ」
「あれ?真琴って今日バイトじゃなかった?」
「バイトの時間まで付き合ってもらってたの!」

ひょこっと顔を出してきた貴澄くんの質問に答える。相変わらず仲良いよね〜、なんて間延びした声で褒められて、思わずへらへらと笑ってしまう。最初に私を呼んでくれた椎名くんの隣には遠野くんまでいるではないか。郁ちゃんに会えた嬉しさで頬がゆるゆると解けていくのが分かる。それにしても面白いメンバーだなぁ、と眺めていると、急に視界がフッと暗くなった。

「ふぎゃあ!?」

後ろから何かを被されたと身体が勝手に感知する。驚きのあまり、色気とは程遠い変な声を出せば今度はぱっと視界が明るくなり、本能的に後ろを振り返った。

「よぉ、茅。久しぶりだな」

暗転する視界に慣れようとぱちぱちと瞬きを繰り返す。そこにはおそらく視界を遮ったであろう黒い帽子と、それを手にした人影が。赤い髪と赤い瞳、聞き覚えのある声。見間違えるはずのない、全部見覚えのある、あかいろ。

「凛………?」

もしかして夢かと思いながら目を擦ってみても、やっぱり赤色は目の前にあった。おそるおそる呼んだ名前には「おう」と返事が返ってきて、自分の顔がまた緩くなっていくのが分かる。

「わぁ、凛!ほんもの!久しぶり!元気だった?」
「当たり前だろ。茅は相変わらずだな」
「え?それって褒めてる?」
「想像に任せる」
「なんだぁ褒めてないやつか、まあいいか!」
「いいのかよ」
「わー!でもほんとに凛だー!オーストリアから帰ってきたの?いつ?昨日?今日?一昨日?」
「オーストリアじゃなくてオースト"ラ"リアな。あと質問多いな、ちょっと落ち着け」
「だってびっくりして!嬉しくて!うわっ」

食い気味に凛と話していると突然ぐいっと後ろから腕を引かれて、転びはしなかったものの、バランスを崩す。引かれた先を目で追うと、険しい表情をした郁ちゃんがいた。なんだか怒ってるような雰囲気を纏っていて、一瞬どきっとはしたけど、不穏な空気を察してか何故?という気持ちのほうが上だった。

「………凛、茅と知り合いなの?」
「ん?ああ、ハル経由でな。妹も随分世話になったし」
「ふーん……………なるほどね」

なるほど、と言っているのに全然納得した顔をしていない。ひとまず腕は解放された。周囲にいるみんなを見渡すも、椎名くんはこの状況が掴めないような顔をしているし、遠野くんはどこか面白がっているようににこにこと笑顔を貼り付けている。そこで気がつく。凛の隣にいるのは、元鮫柄学園の水泳部の山崎くんだ。まさか山崎くんにもこんなところで遭遇するとは。

「珍しいよね、茅が呼び捨てで呼んでるのって」
「あー、確かに。俺なんて今でも苗字で呼ばれてんのに」

この状況でも貴澄くんは普段どおり悠然と話題を出す。言われてみれば確かに椎名くんのことはずっと椎名くん呼びをしている。特別こだわっているわけではないんだけれども。

「それはだって、高三のときに凛と遙が、あいてっ」
「余計なこと言おうとしてんじゃねえ」

せっかく凛との思い出をみんなに披露しようと思っていたのに、頭に落ちてきたチョップによって阻まれてしまった。

「凛ってば乱暴だなぁ。そんなんじゃ彼女出来ないぞー」
「うるせえ、余計なお世話だっつうの。茅だってどうせ彼氏いねえんだろ。いつまでもハルにベタベタしてっから」
「失礼な!もうしていない!」
「昔はしてたのかよ」
「否定しかねる」
「潔いな」
「男らしいでしょ」
「男じゃねえだろ」
「でも私は凛みたいにすぐ泣いたりしな、あいたぁ!!」

二度目のチョップが振ってきた。くそう、江ちゃんには甘々なお兄ちゃんのくせに。なんだって私にはこう暴力的なんだ。しかもさっきよりちょっと痛い。「二人も意外と仲良いよねぇ」という貴澄くんの呑気な声が聞こえてきた。意外とは。

「まーまー、郁弥。そのへんも含めて白黒つければいいじゃない」
「白黒?なんの?」

そのへん、ってどのへんだ。突然入ってきた遠野くんの言葉に首を傾げていると、椎名くんがこそりと耳打ちしてくれる。

「なんか知んねえけどこいつら張り合っててさ、遠野のいう場所で勝負すんだよ」
「勝負?え、えっ、喧嘩はだめだよ」
「そうだよねー、茅からも言ってあげてよー」

こいつら、と言われてすぐにピンとこない。けど顔を上げてみると、先ほどと変わらずむすりとしたままの郁ちゃんが凛のことを睨みつけていて、凛もそんな郁ちゃんの視線を挑戦的な顔で受け取っている。こいつらってこの二人か。

「郁ちゃんだめだよ喧嘩なんて」
「なんで僕だけに言うの?悪いけど、こればかりは茅も首突っ込んでこないで」
「えええ」

貴澄くんに促されて制止を試みるもあっさり失敗に終わってしまった。本当に郁ちゃんなんで怒ってるの?助けを求めるつもりで遠野くんに目をやるも、相変わらずにこにこしている。うん、だめだな、これは。肩を落としていると凛がギザギザの歯を見せてニヤリと笑った。

「上等だ。おっし、行くぞ!」

その言葉を皮切りに、遠野くんが先頭に立ってみんなが後ろに並んでいく。こうして連なっているのを見ると、みんなただの大学生にしか見えない。一緒に行っていいのか分からないが、勝負とやらが気になるので勝手に一番後ろを歩くことにした。それからもうひとつ、気になることがある。

「や、山崎くん!こんにちは!」
「おう。久しぶりだな茅」

少し緊張しながら声をかけてみれば、その鋭い顔つきとは裏腹に優しい声が返ってくる。返事をする代わりにへらりと笑うと、その横にいた凛が何か気に入らないというように眉を顰めていた。

「なんか、宗介に対して腰低くねえか」
「別に普通だろ」
「今までの俺と茅のやりとりが見えてなかったのかよ」
「山崎くんは人生の先輩なので!」
「いや同級生だろうが」

今日も凛のツッコミが鋭い。冴えている。オーストラリアで鍛えているだけのことはある。うんうん、と腕を組んで頷きながらそんなことを考えていると「おまえ変なこと考えてんだろ」と訝しげな表情を向けられる。どうしてバレたんだ。

「宗介、どうやって手懐けたんだよ」
「………凛の中で私って珍獣かなんかなの?」
「ぶふっ!」

こら、そこの貴澄くん笑うんじゃない!肩を揺らして堪える様子の貴澄くんを睨みつけていると、遠野くんの隣を歩く郁ちゃんがこちらを振り返り、ばちりと目が合った。嬉しくなって素直に笑顔を浮かべる。が、郁ちゃんの目はすぐに前を向いてしまう。あれ、と一抹の疑問と不安が頭をよぎった。少しだけ心臓がばくばくと嫌な音を立てて加速していく。もしかして、郁ちゃんがなんだか不機嫌なのは私のせい、だったりするのかな。もしそうだったらどうしよう。心当たりが見当たらない。


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