side story : Rin Matsuoka


先生から忘れ物があったと電話をもらい、学校へ取りに来た。約二年通い慣れた校舎を出て、校門は目指して校庭を駆けていくと、プールの横の桜の木の下に男の子が一人で佇んでいた。まだ蕾がひとつふたつあるくらいで、花は咲いていない。

−−−あかいろ、だ。
彼の髪の毛を見てそう思った瞬間、ぼろり、と。男の子の瞳から涙が落ちたのを見て慌てて駆け寄った。

「ど、どうしたの!どっか痛いの!?」

ぼろぼろと落ちていく大粒の涙。こんな風に男の子の涙が落ちるところなんて、初めて見た。私が自分に声をかけたのだと気づいた男の子は慌てて涙を隠すように拭う。

「なっ、なんでもねえよ!」
「なんでもないのにそんなに泣くの?」
「泣いてねえ!………ただちょっと、思い出に浸ってただけってゆうか」
「思い出?小学校の?」

コートの袖でがしがしと目元を擦りながら、首を横に振る男の子に疑問符が浮かぶ。小学校での思い出を振り返っていたわけではないのに、それならどうしてここで泣いていたんだろう。

「俺さ、オーストラリアに行くんだよ。今日、これから」
「おーすとりあ?」
「オーストリアじゃなくてオースト"ラ"リア!もっと速く泳げるようになるために勉強しに行くんだ」
「へー!すごいねぇ!」
「へへっ、だろ?」

視線を桜の木に向けたまま、得意げににかりと笑う男の子には見覚えがあった。確か最近になってからユイちゃんが「あの子かっこいい!」とはしゃいでいた気がする、多分。別のクラスの同級生なんだろうけど、仲良しのお友達とは去年からクラスが一緒のままだったから、別のクラスの子のことはほとんど顔と名前が一致しない。

「桜のプール、一緒に見たかったんだ。最高の景色を、最後にもうひとつ」

さっきまでの得意げな顔が憂いを帯びていくのが、あたたかくなってきた春の風に揺らされた髪の隙間から見える。一緒に、という言葉がより一層寂しさを感じさせた。

「友達と?」
「友達、ってゆうよりは、仲間って感じかな」
「仲間かぁ。ふふ、いいね、友達よりもなんか強そう!絆的な!」
「ははっ、なんだよそれ。でもまあ、そうかもな。俺たちは友達なんて単純な関係じゃないからな!」

今度は腕を組んで、さっきよりもさらに得意げに彼は言う。どことなく嬉しそうに見えて、なんだか私まで嬉しくなってしまう。そこでふと思い出した。桜といえばいいものがあるじゃないか。

「じゃあこれ、きみにあげるよ!去年ここで拾った桜の花だよ」

差し出したのは忘れた本の中に挟んでいた、桜の押し花の栞。エミちゃんたちと去年拾って、先生にお願いしてラミネートに閉じてもらったものだ。一年経った今でも、綺麗にそこでは桜の花が咲いている。

「桜のプールじゃないけど、その仲間たちがここで桜を見てくれたらさ、一緒に見たことになるかもしれないよ!」

同じ場所で同じ時間じゃなくたって、同じ桜の木の同じ桜を見ているんだから、一緒に見たと言っても過言ではないだろう。きっと。ようやくこちらを見た男の子は一瞬目元の赤くなった赤い瞳を見開いたけれど、すぐに呆れたような顔をする。

「ならないだろ」
「えー、そうかなぁ」
「……けどそうゆうの、結構好きだぜ」

ふっ、と笑った男の子はそう言いながら、私の手のなかにある桜の栞を連れ去っていく。へらりと笑いながら「いいでしょ」と今度は私が得意げに言ってみせた。

「本当にもらっていいのか?」
「うん!出会いの印に!」

春はお別れじゃなくて出会いと始まりの季節だって、先生が言ってたよ。
続けてそう伝えれば、また目元が赤くなった瞳を丸くして、それなら細めた赤い瞳からまた大粒の涙をぽろりとひとつだけ落とした。

「ありがとな!」

↑↓


「はいどうぞ、渚くん怜くん、真琴くん。それと松岡くん」

市民大会を終えて、桜のプールに松岡くんをご招待したあとは流れるように遙の家にみんなでだらりと寛いでいた。(江ちゃんはお買い物を頼まれているとかで帰ってしまった。残念。非常に残念)せっかくなので練習メニューの相談を、ということでテーブルにはいくつかノートが広げられている。遙が入れてくれた温かいお茶をテーブルに置くと、渚くんがどこか寂しそうな顔をして口を開いた。

「ちーちゃん、なんか凛ちゃんにだけ他人行儀じゃない?」
「え?そんなことないと思うけどなぁ」
「呼び方の問題でしょうか?」
「そっか。凛だけ苗字呼びだもんね」
「学校も部活も違うしな。ハルたちの応援と合同練習の手伝いに来てなきゃ、知り合うことも無いだろうしな」
「けど茅、岩鳶小だったよ?凛は会ったことない?」
「そうなのか?」

私の返事に対して、怜くんと真琴くん、それから当事者にされた松岡くんが口々に反応を見せる。真琴くんの疑問をそのまま私へスライドさせてきた松岡くんにこくりと頷く。けど私も松岡くんが小六の冬休み明けから岩鳶小に転校してきていたことは、遙たちと仲を深めた中三まで知らなかったし、小学校のスイミングクラブでの話を聞いたときですら、そもそも松岡くんって誰だ?って感じだったから、松岡くんが私を知らなくても無理はないだろう。

「俺的にはハルが女子に呼び捨てで呼ばれてるってのに驚きだけどな」
「凛ちゃんはいないの?呼び捨てで呼んでくれる女の子、いたたた!」
「生意気言うのはこの口か?」
「いったぁい!痛いよ凛ちゃん!」
「なんだ凛。呼び捨てで呼んでくれる女友達もいないのか」

松岡くんと渚くんのやり取りの中にスルメイカを持った遙が挑発的な態度で割って入ってした。その言葉を聞いた松岡くんはすぐにぴくりと眉を動かして、つねっていた渚くんのほっぺたを解放して前のめりになる。

「いるっつうの!ただ日本には、今は、いねえってだけで!」
「鮫柄は男子校だもんね」
「じゃあこの勝負、ハルちゃんの勝ちだね!」
「一体何の勝負ですか!」
「聞いたか凛。俺の勝ちだ」
「ドヤ顔すんな腹立つ!」

賑やかだなぁ。遙の家には足が治ってから何度か足を運んでいるけれど、こんなに賑やかになるだなんて高一のときは想像出来なかった。遙と松岡くんが変なところで言い争うのなんて、この半年間でもう見慣れてしまった。またやってるなぁ、と呑気にスルメイカをもさもさとかじっていると。

「おい茅!」
「おい瀬戸!」
「!? は、はい!」

ビクッと肩が跳ねる。突然二人の矛先が私に向いたのだ。

「凛を名前で呼ぶな!」
「俺のこと名前で呼べ!」
「えええ」

話を右から左へと受け流しているうちに、なんだか面倒なことになっている。この二人がくだらないことや突拍子もなく争い始めるのはもう見慣れてきていたので驚きはしないけれども。返答に困っていると、突然目の前にチョコレートの包みが差し出される。伸びてる腕を辿った先には松岡くんがいた。

「瀬戸、甘いもん好きだろ。やるよ」
「わーい!ありがとう凛くん!」
「フッ、どうだハル!」
「おい餌付けするなんて卑怯だぞ。それに呼び捨てじゃないから、まだ俺のほうが上だな」
「上も下もねえだろ!」

ええと、どうしたらいいのかな、これは。

「二人とも、あんまり茅のこと困らせないでね」
「どうでもいいじゃないですか呼び方なんて……」
「えー!良くないよー!こーんなに面白いのに!」

目の前で行われるやり取りに困っていると真琴くんが助け舟を出してくれたが効果はいまひとつ。怜くんは相変わらず呆れた顔をしているし、二人を焚きつけた事の発端である渚くんの瞳はすっかり好奇の色に染まっている。そんな光景の中、座っていた凛くんが膝立ちになった拍子に、広げられていたノートからひらりと桜の花が舞い落ちた。

「………あれ、これって、」
「凛さんのですか?」
「あっ。もしかして岩鳶小の桜の木?」

そっと手に取ったのは桜の花ではなくて、桜の花がラミネートされた栞。覗き込んできた怜くんに続いた真琴くんが凛くんにそう尋ねた。

「そうなの?栞にして持ってるなんて、凛ちゃんってばロマンチック〜!」
「うるせえ、いいだろ別に。もらったんだよ」

ぱっと連れ去られる桜の栞。攫っていく赤色。小六のときには同じ岩鳶小に通っていた男の子。ぱちり、ぱちりと揃えられたピースが当てはまっていく。そうだったんだなぁ、と頭の中は意外と呑気なものだった。

「ほらね、凛」

あのときは知らなかった名前を呼んでみる。驚いた顔でこちらを見たのは彼だけではなかった。友達よりも強い絆で結ばれた仲間の顔がよっつ。

「春はお別れの季節じゃなかったでしょ!」

仲間と一緒に見た本物の桜はどうだった?
凛が目元の赤くない赤い瞳をまん丸にさせるものだから、私はにかりと得意げに笑ってみせた。

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"今何してる?ちょっと出てこれるか"

リビングで夏休みの特番である、小さい子どもたちが勇敢に初めてのおつかいに挑むという番組をまったりしながら見ていると、そんなメールが携帯を揺らした。差出人は凛だった。どこにいるのかと返事を送るとすぐに返ってきて、私はお母さんに走りに行ってくると言って家を出れば、特に疑問に思われることなく見送られた。


「よお」

私の家の近くにいるとはメールに書いてあったけれど、思ったよりもすぐ近くにいた凛は、家に出て少し海の方へ近づけば姿を現した。

「悪かったな、急に」
「全然いいよー!あのね、あれ見てたの、おつかい!」
「あー、やるよな。この時期」
「凛が見たら絶対泣いちゃう、あいたっ」
「そんなほいほい泣かねえよ」

話しながら少し前を歩き始める凛の隣に並ぶ。途中チョップが飛んできて、反射的に声は出たけど痛くはない。ぬるい夜風に凛の髪が揺れたのを見て、胸の奥がほんの少しだけ痛んだ。北斗七星は、今日も北の空に貼り付いている。もし相手が凛ではなく、このタイミングでもなければ何かしらときめくシチュエーションなのかもしれないけれど、本題に心当たりがあったのでそんなもの一切感じなかった。

「真琴から電話があった。ハルのやつ、まだ迷ってるみたいだな」

ああ、やっぱりそうだ。予想が的中したことにも大して驚くことはなくて、凛と二人、なんとなく海辺のほうへと歩みを進めていく。

「この間も、夢なんて無いって暗い顔で言ってたよ」
「それ聞いて、茅はなんて返したんだよ」
「"これからの遙のフリーに期待!"って!」
「んだよそれ」
「そのまんまの意味だよ!」

あれ、確か遙に対しても同じ返しをしたようなしてないような。歩き始めてからは凛の顔は見ずに前を向いていたけれど、ここでようやく凛と目を合わせた。

「だってそれに、凛はいつだって、ハルちゃんを引きずり込んでくれるでしょ」

今の私はちゃんと知っている。
昔、凛と遙たちがメドレーリレーで優勝したことも。嫌がる遙を説得したのは凛だったってことも。中一の終わり、遙が水泳部の辞めた理由が凛への罪悪感だったってことも。高二の夏、また遙が競泳の世界へ飛び込んだのは凛がいたからだってことも。そして今年、高三の夏。特別な心配をしなくたって、遙には頼もしく、力強く、時には煩わしく、そして何にも変え難い仲間がいると、私はちゃんと知っている。

「………俺じゃねえよ」
「え?」
「引きずり込んでんのは、俺の方じゃねえ」
「へへ、うん、そっかぁ」

確かに凛からすればそうなのかもしれない。だけど私が思い浮かんだこと全部、紛れもない事実なんだよ。その言葉はごっくんと飲み込んでおいた。

「オーストラリアに行こうと思う」
「へ?いつ?」
「明日。ハルを連れて」
「遙も?」
「ああ。夢が見つからねえって言うんなら、夢を思い描ける場所へ連れてってやる」

砂浜までやってくると夏の夜のぬるい風に乗って潮の香りが私と凛の間をすり抜けていく。元々持っていた決意をより強固にしたのか、意思の強い瞳をした凛は空を見上げながら続けた。胸の奥が、ざわりと少しの警笛を鳴らす。

「卒業したあとも俺はオーストラリアへ行く」

「明日から、アメリカに行く」

やっぱり、まだ少しだけ、痛いらしい。
目の前で話しているのは凛なのに、頭の片隅では別の誰かの声がした。他人事みたいにそう考える一方で、じわじわと込み上げてくるものがあった。負けたくないという闘志と、純粋に凛はすごいなぁという感心。

「うん、そっかぁ」
「そこは驚かねえのかよ」
「そりゃあ第一印象がオーストラリアだったからね」
「第一印象がオーストラリアってなんだよ」

呆れた顔で言った凛と再び目が合うと、二人同じタイミングでくすくすと笑い出す。夜ということもあり、控えめの笑い声は波の音に攫われていってしまう。

「茅は東京の大学目指してるって言ってたよな。教わりたい人がいるって」
「うん!模試も合格範囲内だったし、なんとかなりそうだよ」
「すげえじゃねえか。意外と勉強熱心だしな、茅は」
「意外は余計である」

岩鳶高校水泳部の陸トレメニューと冬のトレーニングメニュー作りには、江ちゃんが相談しに来てくれたので携わらせてもらっていた。それに興味を示してくれた凛と意見の交換をしあったり、時にはお互いが主張しあったり、ディスカッションを重ねているうちに軽口を叩き合う仲になった。勉強熱心というのはおそらくそのことについて言っているんだと思う。

「………まあ、そんなお前だから、ハルも真琴も信頼してんだろ」

俺もな。ぼそぼそと、凛にしては珍しく自信なさげに、というか照れくさそうに小さな声で呟かれる。どうしよう、笑っちゃいそう。嬉しくて。たまらずにやければ、それを見逃さない凛はいつもの大きさで「おい!」と突っかかってきた。

「ふっ、へへ、ありがとうね、凛」
「笑ってるやつに言われても嬉しくねえよ」

つん、とそっぽを向かれてしまった。けどね、凛。本当に感謝してるんだよ。凛と遙たちが、離れていても仲間だってことを目の前で証明してくれたから、私はより一層強くなれた。今でもあの子との絆を信じて、もっともっと前を見ようと思えたんだ。感謝してもしきれないよ。

「じゃあ次の春も、出会いと始まりの季節だね!」
「当たり前だ。オーストラリアは夢への通過点だからな」

凛と出会ったときなら言えたかもしれないけれど、恥ずかしいので大事にしまっておくことにしよう。

「桜のプール、また見られたらいいね」
「ああ。見れるに決まってんだろ。………茅」
「ん?」
「ありがとな」

最高の景色を、もうひとつ。

「こちらこそ!」


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