21.

夏休みに入った生徒も何人かのいるのだろうか、校内の人気がなんとなくいつもより少ないような気がした。しかし私も先ほどの講義を最後に夏休みへ突入したのだ。ふんふんふーん、と鼻歌を歌いながら校庭を歩くくらいには浮かれている。浮かれている反面で、いろんなことが頭をよぎる。

真っ先に浮かんだのは先日行われた強化合宿の親善試合。脳裏に鮮明に焼き付いているのは、泳いでる遙と、先にプールを上がるアルベルト選手。それからゴールした後に肩で息をする遙の後ろ姿。真琴くんのバイトが長引いて到着が遅れたこともあり、偶然その場で知り合った御子柴先輩の妹さん(五十鈴ちゃんといって、とっても可愛い女の子)と一緒に観戦していたものの、特別遙が不調だったとは思えない。五十鈴ちゃんに聞いたことだけど、アルベルト選手というのはフリーの世界記録を持っている選手らしい。

(一緒に泳いだ選手の心を抉る死神、かぁ………)

観客席からでは感じ取ることは出来なかったし、どんなものか到底想像も出来ない。分かったのは、アルベルト選手がとんでもなく速かったということだけ。スマホを確認してみるも、送ったメッセージには既読すら付いていない。ガラケー時代には携帯すらしなかったことを考えれば、珍しいことでもなんでもないんだけれど。
それからもうひとつ、考えごとがあるとすれば。

「瀬戸さん?こんなところで立ち止まってどうしたの」
「へ?あっ、遠野くん」

呼ばれて振り向いた先には遠野くんがいた。部活帰り?お疲れ様!と挨拶をすれば「瀬戸さんもね」と穏やかに返してくれる。

「考えごと?随分難しい顔してたけど」
「ううん全然!少しぼうっとしちゃって…………あれ?郁ちゃんは?」

首を横に振ってふと気付いた。いつも隣にいるはずの郁ちゃんがいない。もちろん学校内でずっと一緒にいるわけではないと思うけど、部活帰りなら一緒にいるのが自然だろう。出来るだけ自然体を装いながら尋ねてみると「ああ、郁弥なら、」と言かけて視線を変える。つられるようにそちらを見れば、郁ちゃんがいて、それから隣にはもう一人。綺麗な女の人が立っていた。

「おお……!綺麗な人!」
「ああ、気にするところそこなんだ」

気にするところ、と言われると。視線を戻してぱちぱちと数回瞬きしながら遠野くんを見る。浮かべている笑顔からはなんとなく意地の悪さを感じた。

「あの人水泳部の先輩なんだけど、最近よく郁弥に話しかけてるみたいでさ」
「そうなの?」
「もしかしたら狙ってるのかも、郁弥のこと」
「へー………そう、なんだぁ」

言われた言葉にピシリと身体が固くなり、何故だか言葉に詰まってしまった。私はその先輩のことをよく知らないし、ここからでは話の内容なんてとてもじゃないけど聞こえやしないのに、切ないような寂しいような、変な感覚に襲われる。遠野くんに悟られたくない、という思いから別の話題が思い浮かんだ。

「じゃあ郁ちゃんって今は彼女いないんだね」
「そうだけど………どうして?」
「この前聞いたらはぐらかされちゃってさ」
「…………へえ、意外」

遠野くんから発せられた意外という単語に首を傾げる。意外ってなにが?そう思っていると今度は遠野くんから別の質問を投げられた。

「瀬戸さんは、郁弥に彼女が出来たらどうするの?」
「へ?どうするって?」
「郁弥と遊んだり出来なくなるかもしれないよってこと」
「! や、やっぱりそうゆうものだよね」
「さあね、どうだろう。けど相手を独占出来るのって、彼氏彼女だけなんじゃないかな」
「ど、どくせん………」

人にもよるかもしれないけどね、とフォローするように付け足されても、頭には上手く入ってこない。気にしないように何度頭の隅っこに追いやっても、どうしたってあの日の郁ちゃんが思考の真ん中へ現れる。
遠野くんの言うことはもっともだ。いくら友達だと言い張っても、きっと彼女さんにとって私は嫌な存在だろう。遙を好きだったときも何度か似たようなことを言われたことがあるけれど、そのときとは比にならないくらいのもやもやが胸のあたりに蓄積していくのが分かった。そのもやもやは、あの日最後に感じていたのと同じもの。独占、ひとりじめ。言葉ではもちろん意味を理解出来るのに。それに何より、遠野くんはなんだってこんな話を私にするんだろう。


「日和?茅?」

未知の感情にパンクしそうになったところで名前を呼ばれて、はっと思考が停止した。顔を上げればそこには郁ちゃんがいて、すぐに反応できずに思惑ぽかんとしてしまう。さっきの綺麗な先輩はどこにもいなかった。

「何話してたの」

何も言わないのをさすがにおかしいと思われたのか、少し低めの声で疑問符がついてるかどうか曖昧な聞き方をされる。

「少し意地悪言いすぎちゃったかな」
「何それ。茅、日和に何言われたの?」
「あ!いえ!大した話では無いですから!断じて!」
「なんで敬語?………………日和」
「大したことは言ってないよ」

じとりと遠野くんを見る郁ちゃんと、慣れたようにくすりと笑う遠野くん。特別変わった様子のない郁ちゃんを見て、だんだん落ち着きが戻ってきた気がする。なんか変に意識しちゃってたのって、私だけだったんだ。残念なような、悔しいような、またよく分からない感情が芽吹いている。

「そうだ。瀬戸さんにもついて来てもらえばいいんじゃない?」

そんなことを考えていると急に遠野くんが何かを思いついたらしい。その提案にまた郁ちゃんがむすりとして、日和はすぐそうゆうこと、とか純粋に意見が多いほうがいいじゃない、とか謎の言い争いを始めた。しばらく頭に疑問符を浮かべて見守っていると、言い争いに決着がついたのか、郁ちゃんがくるりとこちらを向く。

「茅、このあと時間ある?」


↑↓


「夏也くんお酒好きだし、あげられたらいいんだけど、僕たちじゃまだ買えないしね」
「あっ、そっか!夏也先輩はもう成人してるんだ」
「僕たちの二つ上だから、夏也くんは次の誕生日で二十一かな」
「大人だぁ……」
「大人って言う割には、悪酔いするまで飲む癖全然直さないし」
「悪酔い?」
「兄貴、お店で寝るまで飲んだりするから」
「ははーん、それはきっと郁ちゃんと一緒なのが楽しいんだよ!」
「そんな名推理みたいに言われても。単に限度が分かってないだけでしょ」
「ポジティブだよね、瀬戸さんって。昔郁弥から聞いてたとおり」
「なっ、ちょっと、日和」
「え、郁ちゃん、遠野くんに私のことなんて言ったの?」
「それは………っ、っ、ってゆうか、また脱線してるから話戻してよ」
「はっ!そうだった!」
「あ、これとかいいんじゃない?」
「おー!遠野くんセンスいいね!あ、でもこっちもいいかも」

郁ちゃんの付き添ってほしい用事というのは夏也先輩への誕生日プレゼント選びだった。夏也先輩が日本の高校に行っている間は郁ちゃんがまだアメリカにいたり、郁ちゃんが日本の高校に通っている間は夏也先輩がいろんな国を飛び回っていたりで、しばらく誕生日プレゼントはあげていなかったらしい。二人とも日本にいる今年こそは、と遠野くんに提案されて買いに行くことになったとのこと。
お店を何件か周り、途中で何度も話を脱線させながら、あーだこーだと言い合ってなんとかこれ!というものを見つけ出すことが出来た。黒い革のキーケース。シンプルなデザインのものだし、きっと夏也先輩にも似合うだろう。

今はいつしか遙と真琴くんも来たカフェで、ふっわふわのムースフォームミルクの上にチョコレートソースが乗ったカフェモカと、ホイップクリームがつきの濃厚なガトーショコラをいただいていた。

「夏也先輩、絶対喜ぶね!郁ちゃんからもらえるものならなんだって嬉しいよ!」

ねっ、遠野くん!と強く同意を求めると、ブラックコーヒーを口にしていた遠野くんがカップから口を離してゆるりと微笑む。

「それは僕も同意見かな」
「………二人して恥ずかしいこと言わないでくれる?」
「そう照れなくても」
「へへ、郁ちゃんはやっぱり可愛いなぁ」
「嬉しくないからやめて」

むっとしながらピスタチオクリームのケーキを口に入れる郁ちゃんは、どこからどう見たって可愛い以外の何者でもないと思うんだけどなぁ。そう思っているとまた遠野くんと目が合う。きっと同じことを考えていたであろう遠野くんはくすくすと笑い出した。

「二人はここのカフェ来たことあるの?」
「入学前にね。式まであと二日しかないのに、郁弥がまだスーツ買ってなくてさ」
「間に合ったんだからいいでしょ」
「ふふ、遙もね、高校の卒業式終わってもこっちの部屋決めてなくて、真琴くんと三人で内見回ったりしてたんだよー」
「ハルの部屋探しまで三人でしてたの?」
「うん!真琴くんは自分の部屋の鍵もらうついでで、私はバイトの面接のついでだったんだけどね」
「本当に仲良いよね、七瀬くんとも橘くんとも」
「へへ、二人には助けてもらってばっかりだからなぁ」

そう言いながらガトーショコラを口に入れる。ガトーショコラの中でもチョコレートの味が濃厚で、甘さ控えめなホイップクリームとの相性がすごく良い。「んー!美味しー!」と素直な感想を漏らせば、郁ちゃんが「そういえば」と口を開いた。

「日和もこの前同じの食べてたよね」
「うん。普通に美味しかったよ」
「普通にって、それ褒めてるの?」
「あっ、じゃあ郁ちゃんも食べてみる?」

はい!と一口分フォークに刺して郁ちゃんの方へ向ける。いつもなら、遙と真琴くんなら、ここで躊躇わずに口に含むところなのに、きょとんとする郁ちゃんと遠野くんを顔を見て、少ししてからはっとした。

「あっ、ご、ごめん!遙と真琴くんといるときの癖が!つい!」

遙と真琴くんなら、ってそりゃそうだ。郁ちゃんは遙でも真琴くんでもないんだから。慌てて引っ込めようとした手を掴まれる。郁ちゃんの手から伝わる体温に驚いていると、手に持ったままのフォークからぱくんとガトーショコラが攫われた。

「うん、普通に美味しい」

咀嚼して飲み込んだあと、どこかで聞いたような感想を述べる郁ちゃんがなんだか可愛くて「へへ、そっかぁ」と言ってへらりと笑う。その裏側で、すごく速くなる心臓に戸惑っている自分がいた。隠したくて、バレたくなくて、遠野くんにも食べる?と尋ねてみると「僕はいいよ」とやんわりと断られてしまう。

「取られたくないものは取られたくないって、ちゃんと言わないとね」

そのあとに続いた遠野くんの言葉の意味は分からなかった。分からなかったけれど、郁ちゃんは複雑そうな顔をしていたし、私もなんとなく胸に引っ掛かりを感じていた。



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