2.

結局その日一日ろくに郁ちゃんと話が出来なかった。授業中は普通だったけど、体調は悪くなかったのかな。思い詰めてるみたいだったけど、なにか力になれることはないのかな。明日は郁ちゃんとまた話せるといいな。そう思いながら職員室をあとにした。今朝は日直だったことをすっかり忘れていつもどおりの時間に来たから相方の子に怒られてしまったので、日誌は私が出すということで許してもらった。陸上部は今日休みだし、ちょうどいいや。



「馬鹿言うなよ!!リレーの練習しようぜ!リベンジすんだよ佐野中に!」

あとは教室から鞄を取って帰るだけだった。扉まであと二歩三歩といったところで聞こえてきた怒号に近い大きな声。昼休みによく聞こえてくるこの声は、椎名くん?

「勝手にすれば。…………僕はもう水泳部を辞める」


郁ちゃんの声。
胸にぶっすりと何かが刺さった感覚がするほど鋭利に、耳に入ってきた。

「何言ってんだよおまえ!ふざけてんじゃねぇぞ!!そんな冗談笑えねぇよ!」
「うるさいっ!!もう辞める!!!」
「あ、おい!待て郁弥!!」

「あ、ちょっ、郁ちゃん!………っと、」

向こう側の扉から私のいる方向とは反対側へ走る郁ちゃんと、その後ろを椎名くん、隣のクラスの子、七瀬くんが順番に追いかけて行った。反射的に四人の走り去る背中のあとを追いかけそうになったけど、ピタリと足を止めて教室を見る。よくよく見れば七瀬くんも椎名くんも郁ちゃんも荷物を丸ごと全部置いていっているではないか。大丈夫かな、貴重品とか無いのかな。ええ、どうしよう。郁ちゃん苦しそうだった、すごく心配。けど荷物が。けど郁ちゃんが。けど荷物が。

「あああ、もう!!」

繰り返した葛藤の末、荷物がかかったままの郁ちゃんの席に腰掛けた。

(郁ちゃんのこと頼んだよ、岩鳶中水泳部!!)


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ゆらゆらと身体が揺さぶられている感覚にぱちりと目を開ける。手の甲で目元を擦りながら意識を覚醒させていると、クリアになってきた視界には眉を下げた郁ちゃんが映りはじめた。

「んーー………郁ちゃん………?」
「何やってるんだよ、こんなところで」

呆れた顔に優しい声色の、いつもの郁ちゃんが隣に立っていた。夕焼けに照らされた目元がいつもより赤くなっている。自分の目を擦っていた手を止めて郁ちゃんの頬をするりと撫でる。私の行動に驚いた郁ちゃんはビクッと身体を揺らしているけど、構わず手を動かすと目元に濡れた形跡を見つけた。

「郁ちゃん、水泳やめちゃうの?」

まだ少し寝ぼけているからか、自分でも少し驚くくらい直接的な質問を投げることが出来た。数秒間の沈黙がやけに長く感じる。見張られた大きな瞳を逃すまいと捕らえていると。

「やめないよ」

郁ちゃんは凛として、迷いのない顔をしてそう言った。丸くなっていた大きな瞳がゆっくりゆっくり細くなる。

「もしかして聞いてた?教室で話してたの」
「………うん、ごめんね。日誌出して戻ってきたら四人が話してて、偶然」
「いいよ。もう大丈夫だから」
「へへ、よかったぁ。みんな荷物置いて走ってっちゃうから、びっくりしちゃった」
「もしかしてそれで待ってたの?」
「そうだよ!貴重品とかあったら大変だと思って」
「その割にはよく寝てたみたいだけど」
「うっ……!そ、それは!寝てたように見せかけてただけで、」
「おい郁弥ぁ!瀬戸起きたんなら早く行かねえと!」

いつもみたいに話に夢中になっていると、さっき郁ちゃんが飛び出した扉から椎名くんが顔を出す。その後ろからひょこひょこと七瀬くんたちの顔も出てきた。わわ、もしかして私が起きるのみんなで待っててくれたのかな。それだとしたら逆に申し訳ない。

「じゃあ僕、部活行くから。暗くなる前に帰りなよ」
「うん!頑張ってね郁ちゃん!」

椎名くんの言葉に慌てた郁ちゃんは走っていく三人を追いかけていく。さっきとは正反対の光景だ。郁ちゃんに言われたとおり、私も早く帰ろう。立ち上がるとバタバタバタと忙しない足音が戻ってきて、郁ちゃんがまた顔を出す。忘れ物?と聞くべく口を開こうとしたとき「茅!」力強く名前を呼ばれた。

「心配してくれて………その………えっと、あ、ありがと!また明日ね!」

言い逃げるように郁ちゃんはすぐにそこを離れていく。ずるいなぁ郁ちゃん、私も"また明日"って言いたかったのに。すっかり聞こえなくなった足音を追うように教室をあとにした。



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