20.

遠野くんと郁ちゃんと他愛のない話をしながら、時折二人が話しているのに耳を傾ける専門になりながら、ゆらゆらと電車に揺られる。次の駅で私は降りなければならない。帰宅ラッシュは過ぎた時間帯なので、三人並んで座ることが出来た。もちろん真ん中は郁ちゃんである。

「瀬戸さんが降りるところ次だよね。郁弥は大会後で疲れてるから、僕が家まで送ろうか?」
「あ、ううん平気平気!いつもバイトのあとは一人で帰ってるしね」

ありがとう!と遠野くんの気遣いにお礼を告げる。遙の最寄駅とは一駅分しか違わないので遠慮せずお願いすることも多いけど、さすがにみんなと遊ぶたびに誰かに送ってもらうのは申し訳なさすぎる。

「いいよ、僕が送ってくから」
「本当に大丈夫だよ?郁ちゃんはしっかり身体休めなきゃ」
「まあ、きちんと見届けないと休まるものも休まらないよね?郁弥」
「………日和、そうゆうのやめて」
「はいはい」

……?二人の会話の流れが分からない。むっとした様子の郁ちゃんと、対照的にくすりと微笑む遠野くん。二人を交互に見てみたけれど、やっぱり分からなかった。こちらを向いた郁ちゃんが、私が頭の中で疑問符を浮かべていることに気が付いたのか「なんでもないよ。とにかく疲れてないから」と口元を抑えながら言う。そこまで言ってくれるなら、お言葉に甘えちゃおうか。

「じゃあ郁ちゃんとはもうちょっとお話出来るね!」

嬉しい気持ちを押し出して、いつものようににぱりと笑う。抑えていた手を外しかけていた郁ちゃんは再びその手で口元を覆って、隣の遠野くんは未だにくすくすと静かに笑っていた。

そんな話をしていれば、アナウンスが最寄駅の名前を告げて速度を落としていく。駅に到着して遠野くんとはそこでばいばいをした。定期を探してポケットに手を入れ、鞄に入れたっけ、と思いながら鞄のポケットを見ると、目当てのものはすぐに見つかった。だけど何か、何かを忘れているような。改札を目指して歩く郁ちゃんの後ろを歩きながら記憶を探る。何か、何か、何か。

「………………あっ!!」

改札をくぐって、機械がピピッと音を鳴らすのと同時に、思い出した。

「どうかした?」
「あ、いや、それが……あの、わ、忘れもの?しちゃったみたいで」

へらへらと誤魔化すみたいに笑いながら伝えてみたけど、目が泳いでいる自覚があった。無い。写真が、遙の写真が無い!!どうしよう、どこかに落としてきたのかな。まろんで落とした、としてもみんなにはきっと見られてないはず。見られていたらもっとリアクションがあったであろう。でも街中で落としたとしても、友達の写真を落としたままにしておくのもなんだか気分のいいものでは無い。とにかく茜さんに確認を………って、もしまろんに落としてたら茜さんにバレてしまう!そしたら椎名くんにもバレてしまうかもしれない。ど、どど、どうしよう。どうしよう。どうしよう。

「………忘れものってこれ?」

ぐるぐると考えていると、探し物が目の前にぴらりと差し出される。それに映る、中学の修学旅行の新幹線内で一人眠る遙の姿。ぽふんっと顔が火照るのが分かり、もう意味なんてないと思いつつも慌ててその写真に手を伸ばした。

「うわ!うわ!な、なんで、これ!郁ちゃんが!」
「みんなが帰ったあとで旭のお姉さんが拾ったんだよ。みんなには内緒にしとくってさ」

郁ちゃんの手元に届いた経緯を聞いて、納得する反面で少し混乱している。あれか、さっき郁ちゃんがスマホを取りに戻ったとき。なるほど、なるほど。つまりは茜さんにもバレてしまって、一番隠したかった相手にもバレてしまって。なるほど、って全然なるほどじゃない。

「見た………?」

おそるおそる、尋ねてみる。案の定、郁ちゃんは首を縦にこくんと動かした。

「見ずに持ってくるなんて無理に決まってるでしょ」
「ですよね………!!」

分かってはいた。分かってはいたけれど一縷の望みにかけてみたくなったんだ。敢えなく散った希望にがくりと肩を落とす。記憶を消すには頭を強く殴るしかないんじゃ……。我ながら物騒な考えだ。「ちょっと。怖いこと言うのやめてよ」慌てた様子で郁ちゃんがばっとこっちを見る。あれ、声に出てたのか。

「………それってさ、そうゆうことなんだよね?」

どちらからともなく歩きはじめると、郁ちゃんが視線を外しながら控えめに尋ねてくる。ふと蘇るエミちゃんの言葉。それに私だけが郁ちゃんが隠したがっていたことを聞いたのも不公平だ。これでは遠野くんに認めてもらうなんて夢のまた夢だろう。

「郁ちゃんになら言ってもいいかぁ」

本当のことを遙に知られてしまうかも、と思って誰にも内緒にしていたこと。こればかりは真琴くんにも、高校時代に割と連絡を取っていた貴澄くんにも言えなかったこと。

「私、遙に失恋してるんだよね」
「………え?」
「え?」

思ったのと違う反応が返ってきて、思わず一緒になってきょとんとしてしまった。

「現在進行形じゃなくて?」
「現在進行形?……あっ、ちがうよ!それは無い!今は遙に恋愛感情とか無いから!」

両手をぶんぶんと横に振って大袈裟に否定すると、どうやら信じてもらえたようで、ほっと胸を撫で下ろす。安堵以上に、何かがすとんと落ちるような感覚もあった。………あ、そっか。私がされたくない勘違いって、これだったんだ。郁ちゃんに今も遙のことを好きだって、思ってほしくなかった。あれ。でもどうしてそう思ったんだろう。ひとつ気持ちの行き場を見つけては、また新しい疑問が浮かび上がる。

「いつから、とか聞いてもいい?」
「おお……!郁ちゃんもこうゆう話聞きたいって思うんだね!」
「べっ、別にそんなんじゃないし!」

今度慌てたのは郁ちゃんのほう。そんなんじゃないならどんなんだ。そう思いつつもあわあわする郁ちゃんが可愛くて、無意識に張っていた緊張の糸がゆるりと解ける。我慢できずにふふふ、と笑うと、私の笑い声に消されちゃうくらい小さな小さな声で。

「………茅じゃなかったら、こんなこと聞かない」

むすりとする郁ちゃんから聞こえたような気がした。郁ちゃんも少しくらい、知らない間の私のことを知りたいって思ってくれたのかな。そうだったら、すごく嬉しい。

「さっき、中三のときに怪我したって言ったでしょ?そのとき遙が励ましてくれたんだよね」
「ハルが?」

家までもう距離が短いことを察して、通り掛かりにある公園に足を運ぶと、郁ちゃんは特に咎める様子も無く着いてきてくれた。さすがに暗くなったこの時間に人気はなく、貸切状態である。ブランコに座ると郁ちゃんも隣のブランコに座ってくれたのを見て、こくりと頷いた。

「実は結構落ち込んでたんだ。推薦も無くなったし、進路もどうしたらいいか迷っちゃって、選手に戻るまでは半年以上かかるって言われて、ほかのことも重なったりして」

ほかのこと、というのはつまりは郁ちゃんのことなんだけれど、さすがにこれを伝えることは出来ない。

「けど遙が、泣きたいときは泣けばいいって。それでもう泣くなって、言ってくれてね。たくさん泣いたら、辛い気持ち全部、きちんと整理できた」

それから高校を遙と同じ岩鳶に決めたときも、嫌な顔ひとつせず「好きにしろ」って言ってくれたこと。完治してまた走れるようになった私に顧問の先生や先輩方が選手としての期待の眼差しを向けてくる中で、マネージャーがやりたいと言った私に「フリーだ」と言ってまた背中を押してくれたこと。先日、遙と真琴くん、郁ちゃんと椎名くんの四人で話したときに出た話題について耳にした言葉がある。遙に憧れ続けた郁ちゃんが遙に付けた名前は、私の目に映る遙にもすごくぴったりだったんだ。

「私にとっても、遙はヒーローだったんだよ」

勝手に緩んだ頬に力を入れることなくそう言えば、大きな瞳がきらきらと見開かれた。中学一年のときは郁ちゃんが遙に憧れを抱いているのは知っていたけど、私はハルちゃんも案外可愛いなぁ、くらいにしか思っていなかった。けど今は、郁ちゃんの気持ちがすごくよく分かる。遙に私は救われたんだ。

「……失恋したってことは、告白、したんだ」
「うん、高三のときに一応ね。高一のときに遙の初恋の話聞いて、とっくに諦めてはいたんだけど」
「えっ、ハルって好きな人いたの?」

告白と呼ぶのには少しずるいかもしれないけど、私からすればあれは立派な、人生で初めての告白だ。遙の初恋、というなんとも珍しいフレーズに驚く郁ちゃんに、にんまりと笑う。

「ふふ、なんだと思う?」
「そこ普通"誰だと思う?"って聞かない?」
「だって滝だよ滝!自然の水!」
「………は?」
「あははっ!やっぱりそうゆう反応するよね!私もした!けど遙があまりにも真面目に言うからさ」

そんなの勝てるわけないよね、あっ、遙には聞いたこと内緒にしてね。勝手にばらしたことを申し訳ないと頭の片隅で思いつつ、けらけらと笑いながらそう続けた。決して馬鹿にしているわけじゃない。遙らしくてついつい笑っちゃうだけ。いまいち理解出来ないという顔をしていた郁ちゃんも、少し経つと「まあ、確かにハルらしいかも」と呟いていた。もう本当にその通りなんだ。

「でも話聞いたときもそんなに落ち込まなくて、むしろ笑えてきちゃって、嬉しかったから!それでなんか、諦めもついちゃった!」

友達には憧れなんじゃないかと言われたりもした。落ち着いて過去のことを客観視出来るようになった今なら確かにそうだったかもしれないと思うことは出来る。私はあまり泳ぐのが上手くないから、遙の泳ぎに、私が見ることの出来ない景色に、びっくりして、どきどきしてただけなのかもしれない。思い返してみても遙の彼女になりたいとかどうしたいとかは、あまり明確に考えていなかった気がする。

「憧れだったのかもしれないけど、恋愛感情じゃなかったって言い切るには寂しいとも思えるくらい、遙のいいところを知り過ぎちゃったから。私にとって遙は、大事な初恋なんだよ」

こっちに来てからはほとんぼ毎日泳げるから落ち着いたものの、水がある場所を察知してはすぐに脱ぎ出すし、凛との勝負なら結構なんだってムキになるし、蓮くん蘭ちゃんに付き合っておままごとをしてあげちゃうし、真琴くんの失敗した料理をリメイク出来ちゃうし、ベッドの下に水の雑誌を隠してるし、しかもそれを謎に恥ずかしがるし。
手がかかると思うところから優しいところまで。探せばまだまだたくさん出てくるこの数年間で知った遙のこと。気づけば当たり前になってしまった穏やかな好きという気持ち。
日直で放課後二人きりになった高一のとき、夕日に照らされた教室で遙の初恋の話を聞いたあの瞬間から、これが恋愛感情かどうかの答えなんていらないと素直に感じた。−−−勝てないと思った。遙の中で"水"があまりにも特別なことにも。自分の中にある"特別"にも。だからただ、そばにいられれば。ただ楽しい思い出を増やしていければ。ただ応援し続けられれば。きっとずっと、それでいい。これまでも、これからも。

「みんなには内緒にしてね。好きだったっていうのは真琴くんも貴澄くんも知ってるけど、失恋してたことは誰にも言ってないから」
「そうなの?」
「そうだよ!郁ちゃんにだけ!」
「………分かった」
「いやー、おかげで高校のとき彼氏の一人も出来なかったんだけどね!そのうち出来るのかな。あっ、そういえば郁ちゃんはあっちの学校で好きな人とか、彼女とか、」

がしゃん、と音がして顔を上げると、隣のブランコにいたはずの郁ちゃんが気付けば私の座っているブランコの鎖を両手で握っていた。突然の出来事に、言葉の続きをごくりと飲み込んで、ぱちぱちと何度も瞬きをしてしまう。

「……………僕は?」

目元が前髪がかかっているせいで表情が読み取れない。この歳になってから一番近い距離に胸のあたりがすごくざわついた。僕は?

僕はってなに、


「なんてね」

優しい風に仰がれた前髪が郁ちゃんの表情を照らす。細められた目と弧を描いてる口元。確認できた顔にはっとした。

「か、からかったな!」
「それ以外にないでしょ」
「びっくりして損した!」
「ふふ、ごめん、言ってみただけ」

僕は、僕は、僕は。
初めて聞いた郁ちゃんの声が何度も頭の中で再生されてしまう。とくりとくりと何かが溶け出すようなあの感覚が胸のあたりに流れている。なんだこれ、なんだこれ。なんだこれ!

「ありがと。話してくれて」

ばくばくと暴れる心臓に混乱しているとそろそろ行こうか、と公園の外へと歩きはじめる郁ちゃん。再びはっとして、慌ててあとを追いかけた。相変わらずサラサラの髪が歩くたびに綺麗に揺れている。昔から知っている郁ちゃんの後ろ姿に、ざわついていた胸が少しずつ、本当に少しづつだけど、落ち着きを取り戻していく。

「でもすっきりしちゃった!これで郁ちゃんに隠してること、もう何にもないや。ところで郁ちゃんの話は?そうゆうこと無いの?」
「…………ああ、うん、だよね」
「うん?」

落ち着ききらないせいか早口で捲し立てるように話してしまった。だよね、とは。何かを納得するように紡がれた言葉に疑問が浮かぶ。しばしの沈黙を置いて、まっすぐ前を向いたままの郁ちゃんが口を開く。

「無いことは無いけど」
「………………えっ、ええ!き、気になるよすごく!」

思わず何秒かフリーズしてしまった。まさか郁ちゃんに恋話があるだなんて思わなかったから。いや、でもそうだよね、おかしくないよね。あんなに可愛かった郁ちゃんは、背だってうんと伸びて、身体付きだってしっかりアスリートで、男の子じゃなくて、男の人だ。胸に溜まっていたものが一瞬ヒヤリと冷たくなった気分になる。けどそれは、くるりと顔をこちらに向けた郁ちゃんによってすぐに取り除かれることになった。

「じゃあ、そのまま気にしててよ」

えっ、と今度は心のなかで溢した。だって郁ちゃんが、さっきみたいな顔をするから。もしかしてわざと?なんて思ったりしたけれど、その答えは郁ちゃんしか持っていない。
その後は家のそばまで郁ちゃんと一緒に帰って、絶えず話をしていたけれど、何を喋ったのかあまり鮮明に記憶できなかった。だから郁ちゃんがどんな顔をして一緒に帰ってくれたのかも、ちっとも頭に入らなかった。もしも郁ちゃんに今好きな人や昔に彼女がいたとして、今みたいな顔をその人にも見せているのかな。そうだとしたら、それは、すごく、なんだか。

「…………いやだなぁ」



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