19.

『あっはははは!それは災難だったね!』

危機一髪のタイミングでエミちゃんから電話がきたので一旦お店の外へ出た。我ながら電話を取った声に心情が溢れ出ていたので、エミちゃんが用件を話すより先に私の話を聞いてくれた。案の定、盛大に笑われている。

「ちっとも笑いごとじゃないよー!」
『いいじゃん別に言っちゃえば。昔のことなんでしょ?』
「昔のことだから恥ずかしいんだって!遙だって知らないことだし、郁ちゃんになんて思われるか分かんないし……」
『あら意外。茅の口からそんな言葉が出てくるとはね〜』

そんな言葉ってどんな言葉だ。恥ずかしくて当然だろう。確かにもう恋愛感情は持っていないし、雰囲気に流されてついしてしまったあの質問の真意を遙本人は知らないんだから。それに郁ちゃんとは恋だの愛だのという話は一切したことないし、遙のことを好きになったときにはもう手紙のやりとりが途絶えていた。

『いっそのこと、みんなに言って「もうなんとも思ってないですよー」って先回りしちゃったほうが楽かもよ?』
「それは………うーん、一理あるかも……?」
『じゃあせめて桐嶋くんには言ったら?変に勘違いされたくないんでしょ?』

エミちゃんに心の内側をズバリ暴かれて、ぐっと言葉に詰まる。きっと郁ちゃんなら遙のことだけ気にしていればいいなんて突き放すようなことは言わないだろうけど。あれ?じゃあ私は何を勘違いしてほしくないんだっけ?

『まーまー!また何かあったらいつでも相談しなさいよ』
「うん!ありがと、ってあれ?エミちゃんの電話の用件は?」
『あー、それね、彼氏出来たよって報告』

軽い口調で伝えられたおめでたい話。あまりにもさらりと言うものだから頭の中で処理しきれず、脳内を一周回って理解する。数秒置いて、それなりに人が通っているにも関わらず「えーっ!!」と声を張り上げていた。


ほくほくとした気持ちでお店の中へ戻る。サークルの先輩にいい感じの人がいて、今日二人で水族館へ出かける予定だとは聞いていた。まさか今日の内に告白されるだなんて。どんな感じか詳しく聞きたかったけど、エミちゃんから「みんなといるならまた今度にしなさい」と先手を打たれて電話を終えたのだ。

「なんか嬉しそうだね」
「うん!エミちゃんから嬉しいこと聞いちゃった!」
「嬉しいこと?」
「ふふー、あっ、みんなは何の話してるの?」
「瀬戸さんの話だよ」

椅子に座ると隣の郁ちゃんにそう聞かれたけれど、みんなの前で言うようなことじゃないので内緒にしておいた。電話をしている最中にどうにか話題は卒アルに逸れたようで、ほっと一安心だ。ところで遠野くんの言う私の話とは一体。テーブルの上に広げられている岩鳶中の卒業アルバムを覗き込む。部活の紹介ページには当時三年生だった陸上部員の集合写真と活動風景。中には私が二年生のときに全中へ出場した写真が混ざっていた。

「瀬戸、全中出てたんだな!足が速いのは知ってたけど、二年で全中ってすげーな!」
「えへへ、すげーでしょー?」
「確か郁弥は知ってたよね」

あまりにも椎名くんが目をキラキラさせて言うものだから、思わず腕を組んで鼻高らかに言う。遠野くんの質問に郁ちゃんは「うん」と短く頷いた。あのときはまだ手紙が途絶える前だったから郁ちゃんにも伝えてはあったのだ。出場したところまでは。

「そういや、なんで高校も岩鳶にしたんだ?陸上強いとこから推薦とか来そうだよな」
「あー……ええと、ね」

少し言葉を探してから、さっきのエミちゃんの言葉を思い返しつつ、誤魔化さずに話をする。

「三年の県大会でね、怪我しちゃって記録が残らなくて。だから推薦は来なかったんだ」

高校ではマネージャー志望だったしね、と付け加えてちらりとみんなの様子を伺う。知っている二人が心配そうな顔をしてくれているのはもちろんのこと、遠野くんと椎名くんは驚いた顔をしていて、何より郁ちゃんが大きな目を見開いていた。この前帰ったときにはその話はしてなかったからなぁ。数秒流れた沈黙を「そう、なのか」という椎名くんの戸惑いの声が破る。

「あっ、けどもう治ってるし大丈夫!今でも椎名くんには負けないしね、絶対に!完璧に!圧倒的に!」
「なんだよその三拍子!そんなのやってみなきゃ分かんないだろ!」
「でも本当に茅は今でも速いよ。高校の体育祭とか、すごい活躍してたし」
「体育祭なら俺だってかなり目立ってたぜ?」
「ああ、旭は目立ちそうだよね」
「あははは!確かに旭は目立ちそうだよね〜」
「確かにね」
「おい郁弥、貴澄、遠野!お前なんか悪意あんだろ!」

みんなの明るさに救われて少しだけ重くなってしまった空気はあっという間に軽くなる。中学のときはみんなの輪の中にいることはそんなに多くなかったけれど、今こうしてここに居場所があることが本当にすごく嬉しい。


↑↓


「じゃあ茅はまた明日、会場で」
「真琴くんも、またバイト終わったら連絡してね」
「頑張ってね七瀬遙応援団長〜!」
「おうよー!」
「………なに?"七瀬遙応援団長"って」

すっかりお腹も膨れて辺りが暗くなった頃、まろんをあとにして解散という流れになっていた。貴澄くんがからかうように言った台詞にノリノリでガッツポーズを掲げて答えれば、郁ちゃんが怪訝そうな顔をして聞いてきた。

「高校のときの茅のあだ名。ハルの泳ぎが好きすぎて友達にそう呼ばれてたんだって」
「貴澄、お前高校違うだろ」
「違うけど面白いからたまに呼んじゃうよね〜」
「なんだその理由」

椎名くんの言う通り、貴澄くんに関してはなんだその理由とは思うけど、正直まんざらでもない。そんな会話をして駅が違う真琴くん、貴澄くん、椎名くんとは別れた。真琴くんとは遙の家を挟む形で近めのところに住んでいるのだが、ここから帰る分には別の路線から乗車したほうが速いのだ。郁ちゃんと遠野くんと私たちが利用する駅へ向かってしばらく経ったとき。

「ごめん、スマホ忘れた」
「………また?」

やけに郁ちゃんが荷物を漁っているとは思っていたけど、まろんに忘れものをしたらしい。遠野くんの反応を見るに、これが初めてではない様子。「取りに行ってくる。先に駅まで行ってて」そう言って迷わず駆けていく郁ちゃんを見送りつつ、遠野くんに尋ねてみた。

「郁ちゃんよく忘れるの?」
「しょっちゅうだよ。本当、手がかかるよね」
「遠野くんってもしかして割と世話好き?」
「あー、否定はしないかな。郁弥にモーニングコールするのも作った料理食べてもらうのも、結構好きだしね」

モーニングコールだなんて今までしたこともされたこともないぞ。まさかそんなことまでしてもらってるとは。多分郁ちゃんがお願いしてそうなることはないだろうから、きっと遠野くんが心配してやってくれてるんだろうなぁ。

「郁ちゃんには遠野くんが必要なんだね。遙じゃあそんなの勤まらないよ」

むしろ遙は始業式とか平気でサボるし、朝は遅刻ギリギリでも水風呂に入りたがるし。モーニングコールだなんて、頼まれてもなかなかしてくれなさそうだ。

「橘くんと七瀬くんもそんな感じじゃない?」
「んー、あの二人は二人で一緒に何かしてることの方が多いかなぁ。一見真琴くんがお節介焼いてる感じだけど、遙のほうがしっかりしてることも多いし」
「はは、橘くんって七瀬くんのことすごく慕ってるよね。それに応援団長さんも」
「その名に恥じない程度にはね!」
「それは相当って意味で受け取ればいいのかな」

遠野くんと二人きりで話をするのは、なんだかんだこれが初めて。第一印象はどうであれ、元々上手に気を遣ってくれるタイプなのか、会話がテンポよく弾んでくれる。郁ちゃんとのファーストコンタクトはどんな感じだったのかな。私と会ったときの郁ちゃんはフランクなイメージとはかけ離れていたけれど。

「………僕さ」

聞いてみようかな、と思って口を開こうとしたとき、遠野くんが先に言葉を発していた。

「怪我のこと、知らなかったとはいえ、瀬戸さんにひどいこと言ったよね」

ひどいこと。そう言われて、郁ちゃんの第一印象についての思考を頭の片隅に追いやった。思い当たることといえば、遙たちが霜学に来たときのことくらい。いや、多分そのことを言っている。

「あー!そんなの全然気にしないでよ!」

あまりにも私があっけらかんと言ったせいか、遠野くんは眼鏡の向こうにある瞳を丸くさせていた。さすがに言われたばかりは少し考えるものがあったから、百パーセント傷がつかなかったかといわれれば、さすがに少しくらい嘘になるけれど、あれくらいじゃ私の夢は揺らいだりしない。

「遠野くんよ。選手ってさ、案外一人でやれることに限界があるよね」
「まあ、そうだね」

栄養管理、トレーニングメニューの考案、メンタル、フィジカル、日程管理、大会へのエントリー、その他諸々。とても全部一人では回しきれないからこそ、トレーナーやマネージャーがいる。

「遙がもし天才と定義される人間だとしても、ありとあらゆるチームメイトの支えと好敵手がいなかったら、ここまで来られなかったかもしれないんだよ」

「それってさ、すごいことだと思うんだ。選手の外側に立ってみて初めて気づいて、私は選手を育てて支えられる人間になろうって、自分で決めたの。郁ちゃんと同じ目線になれなくたって、違う目線から助けることは出来るんだって思ってる」

だから遠野くんに謝ってもらうことなんて、ひとつもないよ。
真っ直ぐに遠野くんの目を見据えてはっきりとそう言ってのけた。それに遠野くんに言われて得るものだってあった。続けてそう口にすれば、再び一瞬目を丸くされたけれど、すぐに穏やかなものに変わったのを見て「それに!」と声を張った。

「支える側だって選手の"脇役"なんかじゃないしね!」

胸に拳を当てて堂々と言う。ぽかん、とした遠野くんの顔が崩れて「ふ、ははっ」と屈託のない顔で笑う。いつも大人びた雰囲気の遠野くんが無邪気な笑い方をするのは初めて見た。

「はーぁ、………分かる気がするなぁ、これは」

ぼそりと何かが呟かれる。途切れ途切れにしか聞こえてこず「今なんて言ったの?」と聞き直してみても「……さあ、なんだと思う?」と逆に質問されてしまった。このクイズ、難易度高いなぁ。そう思いながらうーん、と考えこんでいると。

「郁弥の"親友は"譲ってあげないって言ったんだよ」

そう言って遠野くんはどこか誇らしげに、自慢げに微笑んだ。やけに"親友は"の部分を強調されたような。すぐに反論の言葉が出て来ずに、ぱくぱくと数回口を開閉する。案の定、笑われた。そもそも遠野くんに許可を得ないと郁ちゃんの親友にはなれないのか。なんじゃそりゃ、とも思う反面。

「じゃあ、もっと強くなるよ。郁ちゃんを守れるように」

遠野くんに、親友の親友にも認めてもらいたいという気持ちが強く動いた。精神面でも知識でも、選手としても友達としても支えられるように、強く、今よりもっと。真っ直ぐ眼鏡の向こう側を見つめて言えば「望むところだよ」とまた薄く笑われる。そして気づけば駅に到着しており、後ろからパタパタと急ぐ足音がちょうど近づいてきた。

「ごめん。お待たせ」
「あ、郁ちゃん!」
「スマホあった?」
「…………ああ、うん、あったよ」

なんだか間があったような気が。遠野くんも気づかないわけがないのか、すかさず「大会後だし疲れてるよね。帰ろうか」と言って、改札へと向かっていく。私と郁ちゃんもあとに続いた。
すぐに私は気がつかなかった。郁ちゃんが上の空になった理由も、ポケットに入れていた遙の写真が無くなっていることにも。



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