18.

忘れられなかった男の子がいる。

諦めきれなくて、諦めて、それでも忘れられなくて、頭の片隅に置いていた思い出の箱の中にそっとそっと大事にしまっていた。その中できらきらと輝く、彼は今。


「郁ちゃーんっ!」

待ちに待った大学選手権二日目。会場に着いてすぐにミナセさんたちに会ったので、一緒に来た真琴くんに先に行ってもらった。今日出場すると聞いたので、めいいっぱい応援の言葉を伝えてから観客席へ足を運んでいると、その姿を見つけた。

「椎名くんも!おはよー!」

"SHIMOGAMI"と"HIDAKA"の文字を背負った二人組を発見して声を掛ける。間違えるはずのない二人は私の声に足を止めて振り返った。

「おう!瀬戸!来てくれたのか」
「おはよう。今日は真琴と一緒じゃないの?」
「ううん、一緒だよ。さっきそこでミナセさんたちに会ったから、エール送ってきたところ!」

ミナセさん、という登場人物に椎名くんが「ミナセって誰だ?」と首を傾げたが「うちの女子水泳部員」それに答えたのは郁ちゃんだった。二人が並んで歩いているということはきっと招集場所に向かう途中なんだろう。

「二人とも、今日も頑張ってね!」
「ありがと茅」
「サンキュー!応援頼むぜ!」

再び歩きはじめた二人の背中にひらひらと手を降る。途中で郁ちゃんだけがちらりとこちらを振り返り、ぱちりと目が合う。それが嬉しくてにぱりと笑うと、郁ちゃんは一瞬目を丸くしたかと思えば、すぐに優しく口角を上げてからポケットから出した手を少しだけひらりと揺らしてくれた。

とろん、とあたたかい、何かが胸のあたりで溶けるような感覚。ここ最近になって時折感じるそれを不思議に思いながら、真琴くんがいるであろう観客席へと足を向けた。


↑↓



無事に二日目も終了し、月紫くんの可愛い声と茜さんの作る料理の美味しそうなにおいに包まれた喫茶店まろんへ来ている。

「いいにおい……お腹すいたぁ……」
「ふふ、もうちょっと待っててね」

お腹がすいて力が出なくなりそうだ。茜さんのもうちょっとという言葉を糧に準備の手を進めると、郁ちゃんに抱っこされている月紫くんがひときわ可愛い声をあげていた。

「可愛い……僕末っ子だから、弟欲しかったな」
「それならうちの弟!持ってっていいわよ」

穏やかに月紫くんを見ていた郁ちゃんが途端に冷めた表情をする。すかざす椎名くんが「んだよその顔は!」と声を張り上げていたが、郁ちゃんは目を逸らしながら「別に」とさらに冷たい返答をしていた。中学のときを彷彿とさせるその光景をケラケラ笑いながら見守っていたのだが、はっとあることに気づく。

「あー、なるほど!」
「今の会話のどこが"なるほど!"なんだよ」
「ほら、椎名くんが部長やってたって聞いてすごいしっくりくるなーって思ってたけど、仲の良いお手本のお姉さんがいるからなんだなぁって、思いまして!」

親指をグッとたてて同意を求める視線を椎名くんへ送る。肝心の椎名くんはさっき郁ちゃんに向けたような困惑顔をしているだけで、代わりに茜さんが私を呼んだ。

「茅ちゃん………旭の嫁に来ない?」
「へ?よめ?」
「なっ、ば、ちょ、姉ちゃん!瀬戸が困ること言ってんじゃねーよっ!」
「あはははっ、椎名くん顔真っ赤だー」
「なんっでお前は呑気に笑ってんだよ!」

顔を赤くして焦る椎名くんの反応が可愛くてさらに笑ってしまう。郁ちゃんみたいだなぁ、と思ってふと目をやると、郁ちゃん本人はなんだかむっとした顔をしていた。なんだかご機嫌斜めのよう。合った目をふいっと逸らされたのをぽかん、と眺めていると今度は遠野くんがくすくすと笑っていた。ますますよく分からない。頭の中を疑問符で埋め尽くしているうちに、テーブルの上に置いていたスマホがぶるりと震える。メッセージの差出人と内容をすぐに確認して、あは、とまた笑ってしまった。

「見て見て真琴くん」
「ん?ははっ、ハルらしいね」

"合宿は、ふつうだ。鯖はうまい。"

合宿どう?というメッセージに対する返事が来ていた。変換の拙さを漂わせるひらがな表記と、SNS映えとはかけ離れた鯖味噌定食の写真。グラスの準備をしていた真琴くんにも見せると嬉しそうに笑ってくれた。

「七瀬くんがいないと寂しい?」

不意に投げかけられた質問、声のしたほうを見ると質問主は遠野くんのようだ。真琴くんともう一度目を合わせる。「私?」と言いながら自分を指差して首を傾げると、遠野くんはこくりと頷いた。

「? そんなことないよ」
「そう?ならいいんだけど」
「うん……?」

遠野くんはどこか満足げな様子で拭き終えた台拭きを持って行ってしまった。私は質問の意図が分からず、会話を終えても頭の中は疑問符で埋め尽くされたまま。真琴くんのほうを見上げてみるが、真琴くんもよく分からないという顔をしていた。


乾杯を終えてしばらくすると貴澄くんが遅れてやって来たので、そのタイミングで席を立ち、カウンター席に置いたままにしてあった荷物に手をかけた。「何持ってきたの?」と月紫くんを抱いた茜さんに顔を覗きこまれる。

「卒アルです。この前椎名くんが見たいって言ってたので、見るかなぁと思って」
「卒アルとか懐かしいなぁ。あ、私にも見せてもらっていい?」
「全然いいですよー!どうぞどうぞ!」

男の子たちは今日の大会報告で盛り上がってるみたいだし、あとで構わないだろう。茜さんが座ったカウンター席の隣に座り、二人だけでアルバムを開いた。

「茅ちゃんと遙くんはずっと同じクラスなんだっけ?」
「そうなんですよ!なのでクラスでグループ作るときも遙と同じなことが多くて。修学旅行とか野外活動とか」
「本当だ。一緒に写ってるやつたくさんあるねー」

茜さんの言うように、私が遙と同じ画角にいるものはかなり多い。今見ているのは高校の卒業アルバムということもあり、三年間同じクラスだった真琴くんとも一緒に写っている。あとは書道部で部長をしていたアヤちゃんと、私がマネージャーを勤めた陸上部の仲間たち。少し前のことなのに随分と昔のことのように感じる。

「この中に好きだった人とかいたりしないの?」
「へあっ」

まずい。あからさまに変な声が出てしまった。咄嗟に口元を押さえるも、察してしまった茜さんは目を細めてにやりと笑う。

「さぁてと、誰かなー?どこかなー?」
「ちょ、あああ、茜さん!」

「瀬戸ー?何してんだ?」

茜さんが食い入るようにアルバムを見始めたのに慌てていると、グラスを手に持った椎名くんが顔を覗かせる。グラスが空になっていることから新しいものを取りに来たのだろう。私も同じ予想をしたらしい茜さんが何も言わずにそのグラスを受け取って立ち上がる。

「俺さっきと同じの。あと貴澄にアイスコーヒーな!」
「はいはい」

間一髪のところでバレずに済んだようだ。ほっと胸を撫で下ろすのも束の間、今度は椎名くんが「お!」と声をあげてアルバムに興味を示す。

「もしかして卒アル持ってきてくれたのか!」
「うん!椎名くん見るかと思って、こっちが高校ので、そっちが中学の」
「サンキュー!向こうで見ていいか?」
「もちろん!一年の野外活動の写真なら椎名くんも郁ちゃんもちょっとだけ載ってるよ」
「マジか!………っと、」

見ていなかった中学のほうのアルバムを渡して、受け取った椎名くんがテーブルに戻ろうとしたときだった。ひらり、とアルバムの間から一枚の紙が空中を揺れて、手前側に座っている郁ちゃんの足元に落ちる。

「何か落ちたよ」

屈んで拾おうとする郁ちゃんの姿がやけにスローモーションに感じる。たった数秒の間で記憶を辿っていく。あれは確か、中学の卒業アルバムにこっそりしまったもの。三年の夏に貴澄くんがこっそりくれたもの。三年の春、修学旅行に行ったときに撮影された写真。記憶を新しい順番に並べて思い出した。そうだ、あれは。

「あああ見ちゃだめ!」

郁ちゃんの手ごと両手で掴んで、どうにか写真を見られるのを阻止することが出来た。あまりの慌てっぷりに郁ちゃんだけではなくて、隣にいる遠野くんもお向かい側の真琴くんもきょとんとした表情を浮かべている。そんな中で一人、呑気に口角を上げている人物が「あっ」と思い付いたように口を開いた。

「それってもしかして僕があげた写真?修学旅行のハ、」
「ぬわあああ!きっ貴澄くん!!」
「あはは!やっぱりそうなんだ、まだ持ってたんだね〜!」

ケラケラと明るく笑いはじめる貴澄くん。その通りなんだから余計なことは言わないでほしい。

「なんだよ瀬戸。貴澄は良くて俺たちはダメなのか?」
「そ、そ、そうゆうわけでは、ありませんが、」
「じゃあ見せてくれよ。修学旅行の写真なんだろ?」
「そうだけど、そうだけどそうじゃないから!」
「な、なんだよそれ」
「隠されると僕たちも気になるなぁ。ねえ郁弥?」
「僕は………うん、まあ」

後ろにいた椎名くんが覗き込んできたかと思えば、遠野くんも面白がるように便乗してくる。郁ちゃんに関しては曖昧な返事だ。おろおろしていると視界の端に苦笑している真琴くんが映る。お願いだから、お願いだから助けてくれ!切実に!

「もしかして、好きだった人の写真だったりするんじゃない?」

ここへ来て名探偵遠野くんが誕生した。本当に本当に勘弁してください。それからそこでお腹を抱えている貴澄くん、いい加減に笑うのをやめほしい。



- ナノ -