17.

「体調はもう大丈夫なの?」

たくさん話したいことがあるはずなのにいざ二人きりになると、駅までの道のりだとか大学の授業のこととか、当たり障りのない会話しか出てこなかった。そんな歯がゆい雰囲気の中、ホームで電車を待っていると郁ちゃんが質問を投げてきた。その内容にゆるゆると頬を綻ばせてしまう。

「………なに?別に笑うとこじゃないでしょ」
「だって、ふふ、やっぱり郁ちゃんだったんだなって」
「茅だって確信持ってただろ」
「そうだけど、改めて聞くと嬉しくてさぁ」

気に入らないのか照れているのか、おそらく後者であろう郁ちゃんがむっと口を結んでいる。そんな姿さえも可愛いんだから私の笑いが収まるわけないのに。そうこうしているうちに電車が来て、滞りなく乗り込んだ。帰宅ラッシュが過ぎた時間帯だからか、電車内は座る席が余るほどには人が疎らになっている。空いている席が並んでいるところに腰掛ければ当然のように郁ちゃんが隣に座ってくれる。ただそれだけのことなのに、今はそれが嬉しくて嬉しくてしょうがないんだ。

「………こっちは結構焦ったんだけど。部活まで学食で時間潰そうとしてたら顔面蒼白の茅がふらふら歩いてるし、気絶したみたいに寝てるし、しばらく隣にいたけど全然起きないし」

ずっとニヤニヤしたせいか先ほどと変わらずむっとしたままの郁ちゃんが饒舌になる。本人は怒っているつもりだろうけど、しばらく隣にいてくれたという新たに明かされた事実に、むしろ私が喜ぶという考えはないんだろうか。

「心配してくれたんだね」
「………するに決まってんじゃん、馬鹿茅」
「相変わらず郁ちゃんは可愛いなぁ」
「それ久しぶりに聞いたけど、全然嬉しくない」

ふい、とそっぽを向かれると郁ちゃんの髪がさらりと揺れ動く。綺麗なその髪に中学生の私は何回目を奪われたんだろう。郁ちゃんがこちらに向き直らないのをいいことにじっとその髪を見つめていると「ごめん」ぽつりとした呟きがあちらから聞こえてきた。

「手紙、ずっと出せなくて」

なんのごめん?そう尋ねようとしたときには既に郁ちゃんが口を開いていた。

「強くなるために心を捨てなきゃって思ったんだ。兄貴にも仲間にも茅にも、頼ってるから弱いままなんだって、だから誰にも頼らないって決めた」
「………うん」
「けど、本当はそんな自分がどこかで後ろめたくて茅に見られたくなかったのかも」
「そ、っか」
「ごめん」

少し気まずそうな表情をしながら、二回目の謝罪はきちんと目を見て言われた。郁ちゃんが辛いのにちっとも気づかなかったし、気づけなかった。酸欠事故のことだって全然知らなかった。悔しくて寂しくて、悲しかった。本当は教えてほしかった。手紙の返事が欲しかった。郁ちゃんが辛いと感じているその瞬間、励ましの言葉を送りたかった。会いに行きたかった。叶わなくて当たり前だ。郁ちゃんはそれを隠したかったのだから。

「無理して返事書かなくてもいいよって、言ったのは私だから、しょうがないから、けど、次は許してあげない」

感情的になっていく頭の中から丁寧に言葉を探していく。押し寄せてくるものを我慢しながら口にしているものだから、一言一言がとても拙いものになってしまう。すると隣から、ふっと小さな笑いが溢れ落ちるのが聞こえた。

「ありがとう、茅」

眉を下げて目をゆるりと細めて、綺麗に微笑む郁ちゃん。その優しい表情を目の当たりにして、もやもやを募らせていた思考回路がぱちんと弾ける。

「やっぱりもういいかなぁ」
「え?」
「郁ちゃんが笑ってくれるんなら、なんだっていいや」

きっと今自分はふにゃふにゃでだらしない笑顔を向けているんだろうと自覚しながら素直に伝える。案の定郁ちゃんは少し慌てだして、中学生のときみたいに言葉にならない言葉を発してはいないが、目がきょろきょろと泳いでることから恥ずかしがっているのだと伺える。

「っ、茅のそうゆうとこも全っ然変わってない」
「やだなぁ、そんなに褒めなくても」
「いや褒めてないから。………そんなんじゃ、またハルと変な噂されるよ」
「え、遙?あ、ええと、付き合ってるってやつ?」

ぴしり、と郁ちゃんの身体が強張ったように感じる。おそらく図星なんだろうけど、なんだかそれだけではないような。それに以前ミナセさんから郁ちゃんのいる場所で噂は撤回してくれたと聞いたのだけど、郁ちゃんは聞いていなかったのだろうか。

「付き合ってないって弁解したんだけどなぁ」
「それも、女子が話してたのは聞いたけど」

そんな疑問はすぐに解消された。ミナセさんの言う通り、郁ちゃんの耳にもばっちり届いていたらしい。

「前は名前で呼び合ったりしてなかったでしょ」
「それ椎名くんにも言われた」
「うわぁ、旭と同じとか不本意すぎ」
「あははっ、やっぱり仲良しだね」
「別にそんなんじゃないし」
「遙とは中一から高三までずっとクラスが一緒でね、名前で呼びはじめたのは中三のとき。私がもっと仲良くなりたくて呼びはじめて、最終的には遙も名前で呼んでくれるようになって、今では真琴くんも呼んでくれてるんだよ。最初は散々名前で呼ぶなって睨まれたけど」
「……そうなんだ」

安心して色々と語ってしまったけれど、なんとなく"遙のことが好きだったから"という言葉は付け加えることが出来なかった。郁ちゃんとはそうゆう話をしたことが無かったし、恥ずかしかったのかもしれないと他人事のように考えていると、郁ちゃんはまだ何か言いたげに俯いていた。急かさずに言葉を待っていると。

「僕はただ………嫌だった、から」

小さく小さく、それは聞こえた。聞き間違えかとも思えるくらいに小さく聞こえた言葉に、気持ちがぱぁっと明るくなる。

「わ、私も!郁ちゃんに、遙と付き合ってるって誤解されてるかもって知って嫌だったよ!」
「……は、それって、どういう、」

『 次は○○駅〜、○○駅〜 』

「あ、降りるとこだ」

郁ちゃんが途中まで何か言いかけたところで、ほとんど毎日利用している駅名のアナウンスが車内に響く。「さっきなんて言おうとしたの?」と聞けば郁ちゃんは「……なんでもない」と少し間を置いてから返事をくれた。なんの為の間だったのかは分からないけれど。

「あっ、駅までで大丈夫だよ!家までそんな遠くないし」

そう言いながらぱっと立ち上がると、郁ちゃんは私の言葉を無視してすぐに立ち上がり、ドア付近へと向かう。釣られるようにして私も隣へと並ぶ。

「家まで送るよ、ちゃんと」
「けど郁ちゃん試合後で疲れてるだろうし、あっ、むしろ私が送っていくよ!」
「ハルにはいつも家まで送ってもらうんでしょ」
「へ?う、うん、そうだね?」
「じゃあ僕だっていいよね」

再び会話に登場した遙の名前と疑問系かどうか分からない質問に対して咄嗟に返事をする。一人で納得した様子の郁ちゃんは停止した電車をスタスタと降りていってしまう。慌てて追いかけて郁ちゃんの顔を覗き込んでみると、口元を抑えてなんだか複雑そうな顔をしている。我ながら珍しく声をかけることに戸惑いを感じたので大人しく隣を歩くことにした。改札をくぐって駅を出ていく。

「郁ちゃんっ!」

ふと暗くなった空を見上げて、きらり、光っているものを見つける。しばらく黙っていたのに急に腕を引いて名前を呼んだものだから、郁ちゃんは驚いた顔をして、それから私が指差している北の空を見上げた。

「北斗七星?」
「うん!東京からでも意外に見えるんだね」
「………この前は、見つけられなかったのに」

この前とは一体いつのことだろう。郁ちゃんが溢れ落とすように言った小さな呟きが気になりつつ、いつものように思ったことを口にした。

「こっちに来てから初めてちゃんと見た!」
「そうなの?」
「うん!郁ちゃんと一緒にいるときで嬉しい!」

こんなことを言ったらまた郁ちゃんは照れて、馬鹿じゃないのって怒るかもしれない。けどいいんだ。本気で怒られているわけじゃないから。

「僕も」

予想に反して郁ちゃんは優しく微笑む。都心付近の駅じゃないとはいえ、人がそれなりにいるのに、郁ちゃんのその声がやけにはっきりと鼓膜を揺らす。揺れたのは鼓膜だけじゃなかった。

視界、声、それから決意。
あれ、という呟きと共にぽろりと何かが目から零れ落ちて頬に触れる。感情的になってはいけないとずっとストッパーをかけて、何度も何度も壊れそうになったそれを、何度も何度も立て直した。だってもう大学生だから。みんなが頑張っていたから。一番辛かったのは私ではないから。

「あ、わっ、わ、ご、ごめん、なんか気が、緩んじゃって」

へらり、と。上手く笑えているだろうか。口角は上がるのに視界のぼやけは無くならない。きっと困っているに違いない。こんな外で、道端で、かっこわるいところなんて見せたくないのに。笑って話したいことがたくさんあるのに。郁ちゃんが笑ってくれることが、目の前にいてくれることが嬉しくて嬉しくてたまらなくて止まらない。顔を隠すために俯けば、逆効果と言わんばかりにアスファルトがぽたぽたと染みを作っていく。こんなんじゃあダメだと一度ぎゅっと強く目を瞑り、指先で涙を払う。顔をあげると拭いきれなかった涙がまた、少しだけぽろりと零れ落ちた。

「いてくれて、うれしい、ずっと、あ、会いたかっ、た、から」

会えて嬉しい、郁ちゃん。
出来る限りの笑顔でそう伝えて、どちらから繋いだのかも、いつから繋いでいたのかも分からない手に力を込める。知らない間に私と同じくらいじゃなくなった郁ちゃんの手にも力が入るのが伝わってきた。

「……っ、茅は本当、恥ずかしげもなく言うよね」
「郁ちゃんが言わないからだよ」
「そんなの僕だって………嬉しいに決まってるの、言わなくても分かるでしょ」

分かるよ、だって私も郁ちゃんの親友だったから。それでも私は、郁ちゃんが不器用に素直な言葉を時折くれるのが何よりも嬉しいんだ。

「次は、今度は、郁ちゃんに辛いことがあったら、いつでもどこにいても、嫌われてでも、助けにいくから」
「………嫌いになるわけないよ」

嫌いになるわけない。
その言葉にふわりと心が軽くなって、また緩んだ涙腺が「それでも、ぜったい、いくよ」と続けた言葉をふにゃふにゃにしてしまう。こぼれそうになった最後の涙は郁ちゃんが親指で優しく掬ってくれた。

「おかえりなさい、郁ちゃん」
「………ただいま、茅」

ゆるやかに微笑む郁ちゃんに、とくりと優しく何かが溶けるような感覚がやんわり走る。なんだろう、これ。郁ちゃんってこんなに綺麗に笑うんだっけ。

忘れられない男の子がいた。
今、目の前にいるその男の子に対して、ふわふわと浮かぶような不思議な胸のざわつきを感じている。それはいつかどこかで感じたことがあるような、そんな気がした。



- ナノ -