16.

すっかり辺りがオレンジ色に染まっている。燈鷹大学の水泳部の皆さんが解散の合図で散らばったところで声をかけた。

「遙、椎名くんお疲れ様!二人とも全日本選抜出場おめでとう!」
「ああ」
「サンキュー瀬戸!ま、俺はまだ試合残ってるけどな」
「次も応援にくるから!ねっ、真琴くん!」
「もちろん。頑張ってね旭」
「おう!」
「遙の個人メドレーもすっごく良かったよ!初めての種目で二位なんてすごいね!今日で終わりなんてもったいないなぁ」
「これでいい。目的はもう果たした」
「………へへへ、そうだね」

目的、という言葉に頬がゆるりと緩んでしまう。それは遙も同じようで、ぴんと張り詰めていた緊張の糸が解けたような、そんな表情をしている。個人メドレーの試合後に遙たちは少し郁ちゃんとも話が出来たそう。その後のフリーリレーでも郁ちゃんの泳ぎにもう迷いは見られなかった。やっぱり遙はすごいなぁ。

「よぉ、お前らお疲れ!」

そんなことを考えていると、背後から明るい声がした。釣られて振り返ると誰かが「夏也先輩!」と名前を呼ぶ。記憶からその名前を手繰り寄せて、思い出した。確か夏也先輩って。

「ん?…………まさか、遙の彼女か?」
「なんかこの光景にデジャヴを感じる」
「旭がこの前自分で言ったんでしょー?」

椎名くんの言葉に貴澄くんがくすくすと笑っている。椎名くんといい、遙のコーチといい、夏也先輩といい、何故ほかにも男性がいるにも関わらず遙の彼女疑惑をかけるのだろう。

「茅です、瀬戸茅!お久しぶりです夏也先輩!」
「茅って………ああ!郁弥と一番仲が良かった女の子か!久しぶりだな」

どうやら夏也先輩も私を覚えてくれていたらしい。当時、郁ちゃんと仲の良い女の子ナンバーワンの自信はあったけれど、お兄さん公認だと改めて実感すると嬉しさが込み上げてくる。記憶の中の夏也先輩は、郁ちゃんのことをとても大切にしていて明るく力強い人物像だが、今もその快活さは健在らしい。そのたくましい腕が伸びてきた、と感知したときには頭をぽんぽんとされていた。

「美人になったなぁ茅!」
「………ちょっと兄貴。茅にセクハラするのやめてよ」

背後からの声、再び。今度は声と呼び方で相手が誰なのか振り向かなくてもすぐに分かった。

「セクハラじゃねえって。嫌だったか?」
「あっ、いえ!全然大丈夫でした!」
「はは!そっかそっか!じゃあ俺帰るわ。またなみんな。茅も」

去り際さえも明るい夏也先輩が輪を外れていき、みんなが口々に挨拶をしていく。私も「お気をつけて!」と声を投げていると、夏也先輩と代わりばんこのように郁ちゃんが少しだけむすりとした顔をして輪の中に入ってきた。どうやら遠野くんは一緒じゃないみたいだ。椎名くんと真琴くん、遙、それから郁ちゃんの岩鳶中時代の水泳部四人組が久しぶりに肩を並べたのを見て、目の前がきらめいたような、そんな気分になった。

「茅、一緒に飲み物買いにいかない?」

ぱちんと綺麗にウィンクをしている貴澄くんに誘われる。一瞬考えて、すぐに貴澄くんの思惑に気がついた。分かってからは迷わずに「うん。行こっか!」と返事をする。四人はきっと積もる話も、話したいこともきっと一日じゃ足りないくらいあるに違いない。貴澄くんは立ち回りの巧さは争い事を上手に避けるだけに留まらないということは昔からよく知っている。会場外の自動販売機で飲み物を調達していると、本日二度目、知っているその顔に遭遇した。

「つまんないって顔してるね」

その顔、遠野くんに声をかけたのは私ではなくて貴澄くんのほう。私たちの登場に特に驚ける様子を見せない遠野くんは優しい声を紡いだ。

「いや………僕は郁弥の一面しか見てなかったんだなぁって」

どこか清々しそうに、それでもどこか寂しさを残すように。ソーダ越しに夕焼けを覗きながらぽつりと呟く遠野くんにつられて茜色の空を見上げた。

「そうかな。私は郁ちゃんを守ろうとする遠野くんのこと、すごいなぁって思ったよ」

遠野くんの呟きに対する素直な感想を口にすると、眼鏡越しの瞳がまあるく開かれる。

「それにずるいよ遠野くんは。私が知らない郁ちゃんのことたくさん知ってるんだもん」

驚いている彼に構うことなくそのまま続けた。だって本当にずるいんだ、遠野くんは。中学一年のときの郁ちゃんは、私の前では遙たちとのことをそこまで気にしてないっていう顔しかしなかったのに。本当はどこかで気にして、引っかかって、辛いと感じて、最終的には忘れたいとさえ思って。今の郁ちゃんになるまでの葛藤も努力も、遠野くんは全部知っている。私が一番隣で応援していたのに。

「それはこれから知っていけばいいんじゃない?郁弥も茅も、お互いに。もちろん遠野くんも。あ、僕もね?」

もんもんとしながら口を尖らせていると貴澄くんがにこやかにそう言った。これから、という言葉に嫉妬まみれの心がふわりと軽くなる。そうだ、これからの郁ちゃんを応援すると言ったのは私だった。

「君、なかなかいいこと言うね」
「ふふ、でしょ?」
「………それにむしろ、僕は瀬戸さんが結構羨ましかったけどな」
「え?どうして?」

羨ましがっていたのは私のほうだというのに。理由が分からずに疑問を投げかけると、一度こちらを見た遠野くんと目が合った。眼鏡の向こうの瞳がふわりと優しい色をしている。けどすぐにその目は逸らされてしまった。

「郁弥は入院中に何度も君の手紙を読み返してたからさ。その度に安心した顔をしてたし」
「そうなの?」
「そうだよ。隣にいたのは僕なのに、郁弥を励ましてるのは君なんだから、ずるいと思って当然だろう?」
「そんなこと………それに、途中から返事は来なくなっちゃったし」
「………いつだったか郁弥の部屋に遊びに行ったとき、途中まで書いて捨ててあったエアメールが何通もあった。郁弥は何度も返事を出そうとしてたと思うけど」

これ以上は直接確認してごらんよ、と。そう続けた遠野くんはこの間まであんな冷たいことを言ってきた人とは思えない。遠野くんはさっき郁ちゃんの一面しか見てなかったって言ってたけど、それは私たちもきっと一緒だ。遠野くんの一面しか見ていない。郁ちゃんと二人で遊んでるときなんかは、いつもこんなに優しい顔をしていたのかな。さっき貴澄くんが言ったように、これから遠野くんのことも知っていく機会があるといいなぁ。

「あ、そうだ。僕は鴫野貴澄。遠野くん、一緒にバスケサークル入らない?」

思い出したように貴澄くんが自己紹介がてら、バスケに誘い出す。なんだか懐かしいその台詞にくすりと笑うと、遠野くんも「考えておくよ」と柔らかく口元を上げた。

「じゃあお試しで今度やろうよ!茅も一緒にどう?」
「わぁ、いいね!バイト休みの日なら行けるかなぁ」

「おーい瀬戸ー!写真撮ってくれよー!」

遠くで椎名くんに名前を呼ばれる。呼ばれたほうを向くと話がひと段落らしい四人がこちらを見ていた。駆け寄る途中でふと郁ちゃんと目が合う。何故だかどきりと胸が高鳴ったことに不思議な違和感を覚えたけれど、今は気にしないでおいた。

「写真?」
「ああ。せっかくリレーメンバー四人揃ったんだから、記念にな。ハルはもうすぐ合宿に出ちまうし」
「なるほど!任せて!」

早速スマホのカメラを向けると、椎名くんがたくましくなった腕を、遙を巻き込みながら真琴くんの肩へと回し、もう片方の腕を郁ちゃんに回す。満面の笑みの椎名くんと真琴くんに対して、遙と郁ちゃんは眉を下げて微笑んだ。
かしゃり。スマホからシャッター音が鳴る。特に合図をせずに写したその姿は椎名くんのお姉さんのお店に飾られているものと酷似していた。それがこんなにも嬉しいだなんて。じわりと感動の波が瞼まで押し寄せてくるのをぐっと堪えた。

「あとでみんなに送るね!」
「おう!サンキューな!」
「もう暗くなるし、今日のところは帰ろうか」
「おお、そうだな」
「茅、家まで送ってく」

解散を提案する真琴くんの言葉を聞き、顔を覗かせて聞いてきたのは遙だった。真琴くんがいつも気遣ってくれるのが伝染していたのか、いつからか遙は帰りが遅くなると決まってこうして言ってくれる。無表情からは読み取りづらい優しさに頬を緩めた。

「ありがとう遙。けど大丈夫だよ。貴澄くんが車で送ってくれるって、来るとき言っ」
「そうだ、郁弥に送ってもらいなよ!」
「へ?」
「え?」

遙への言葉を最後まで言い切る前に貴澄くんに遮られてしまう。きょとんとしたのは私だけではないようで、郁ちゃんも短く言葉を落としている。

「借りてきた車五人乗りで二人乗れないんだよね。どうかな郁弥?疲れてるなら無理にとは言わないけど」
「や、僕は、構わないけど」
「いや別に男五人敷き詰めて乗るくらいなら送ってもわらなくても、いって!!」

椎名くんが話の途中で痛みを訴える。こちらからはよく見えないが、確実に貴澄くんの腕が勢いよく椎名くんの背中に直撃したように見えた。

「はぁーい旭行くよー」
「は?ちょ、待て、貴澄、」
「じゃあ二人とも気をつけてね」
「またね郁弥、瀬戸さん」
「郁弥、茅を頼む。またな」

ずるずると引きずられるように連れて行かれる椎名くんに続いて真琴くん、遠野くん、遙が順番に別れを告げて去っていく。まるで取り残されるようにぽつんと立ち尽くす私と郁ちゃん。ちらりと横目で見ると、ぱちりと目が合った。

「………気遣わせちゃったかな」
「ふふ、貴澄くんはそうゆうの上手いなぁ」
「本当にね。そうゆうところは変わらないな、みんな」
「そんなの、郁ちゃんもだよ」

郁ちゃんもどうやら貴澄くんの粋な計らいには気づいていたらしい。みんな昔のままじゃないとは言ったけれど、優しいところ、可愛いところ、根っこにずっとあるものは今も昔も変わらない。わざわざ説明しなくたって伝わっているらしい郁ちゃんはふわりと目を細めた。

「帰ろう、茅」
「…………うんっ!」

中学一年のとき、部活が休みの日や部活の終わる時間が被った日はよく郁ちゃんと帰っていた。足を進めた後ろ姿が記憶の中の郁ちゃんと重なって見える。さっき堪えたものがまた瞼に押し寄せてきたのを、精一杯笑って我慢した。


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