13.

昨晩、真琴くんから電話があり、遠野くんとの例の勝負には負けてしまったと報告があった。勝負を持ちかけたのは遙だったけど、遠野くんの専門がバックということで真琴くんが自分が勝負すると申し出たのだ。私はバイトがあったのでその勝敗を見守ることは出来ず、気になっていたものの自分から聞いていいのか少し迷っていたので、電話をくれた真琴くんの気遣いがすごく有難かった。
けれど負けたこと以上に、遠野くんから教えてもらったアメリカで起きた酸欠による事故のこと。それから遙に向けられた厳しい一言が電話の本題だった。きっと遙が水泳部を辞めた原因について指しているのだと予想出来た。アメリカでそんなことがあったのなら、遠野くんの行動にも納得がいく。会わないよう説得するために遙や私に厳しい言葉を浴びせてきたのにも。

(あれは、遠野くんなりに郁ちゃんのことを守ろうとしているんだろうなぁ)

中学生の私が出来なかったことを遠野くんは成し遂げようとしている。すごいなぁ、と素直に思う。理解してしまえば、水泳部を覗きに行っていた足が重くなることはとても簡単だった。

忘れるわけない。心の奥のほうに深く刻まれている、郁ちゃんが救急車で運ばれたと聞かされたときの焦りと恐怖、不安。きっと、遠野くんも同じだ。


本日最後の講義を終えて、はぁぁ、と深い溜め息をひとつ。大学選手権の日に土日休みをもらうべくバイトを多めに入れているため寝不足が続いている。空いている日があるといろいろ悪いほうに考えてしまいそうだから、という理由がゼロパーセントかといえば嘘になるけど。無意識に溢したそれを拾ったエミちゃんが、隣の席から心配そうに顔を覗き込んできた。

「茅、顔色悪いよ?バイト入れすぎなんじゃない?」
「うう……だって!大学選手権の日どうしても休みたい!」
「まったくもう。そんなんじゃ選手に示しがつかないでしょ」
「おっしゃるとおりです……」
「送ってこうか?今日もバイト?」
「ううん。今日は休みだし大丈夫だよ。ありがとうエミちゃん!」
「…………」

痛いところを突かれてしまった。エミちゃんはまだ講義が残っているのに、私のせいで抜けることになるのはさすがに困る。さっさと荷物をまとめて席を立つと、一瞬何か言いたげな顔をしたエミちゃんから「ほーら帰った帰った」と催促されて教室をあとにした。
熱はないと思うんだけど貧血かなぁ。ちょうど二日前にきた女の子の日のことを思い出した。ちょっとクラクラする。学食で少し休んでから帰ろうかな。しばらく歩いてから腕時計を見ると既に講義が始まる時間を過ぎており、廊下ですれ違う生徒は少なくなっていた。もう帰るということに気が抜けたせいか、具合がどんどん悪くなっているような。

学食に着くなり倒れ込むように端の席に腰掛ける。鞄から鎮痛剤を取り出して水で流し込む。空になったペットボトルを机に置いてそのまま突っ伏すと、寝不足だった身体はすぐに睡魔を受け入れた。


↑↓



「………うーん…」

ピコピコ、ピコピコ、ピコピコと連続で鳴ったスマホに起こされる。夕日が差し込んできて眩しい。クリアにならない視界の中から手探りでスマホを見つけ出す。一件はお母さんから調子伺いのメール。一件はエミちゃんから生存確認のメッセージ。さすがに死んではいない。そしてもう一件は。

「わぁ珍しい、遙からだ。………なんだこれ」

" 夕方、区民プールで泳ぐ "

つまりは見に来てもいいよってことかな。分かりにくい優しさに思わず頬が緩む。のそりと身体を起こすと、先ほどのだるさはすっかり消えていた。薬が効いたのかな。ばさり。

「ん?」

ばさり?
肩が少し軽くなったと思えば、何かが背もたれと腰の間に落ちている。今日は羽織るものを持ってきていないので、私の服ではない。確認してみると、背中面に" SHIMOGAMI "と書かれた見覚えしかないジャージ。水泳部のやつだ。けどさすがに誰の物かまでは判別出来ない。きょろきょろと辺りを見渡しても持ち主らしき人はおらず、別のことに気がついた。空にしたはずの水のペットボトルが中身の入ったスポーツドリンクに変わっている。忘れ物かも、と考えることも出来るけど、それにしては不自然なくらいに私の近くに置いてあった。もしかして具合が悪いのを見て、心優しい誰かが気を遣ってくれたのだろうか。


(どうしたらいいのかなぁ、これ)

とりあえずプールが見えるところに来たはいいものの、出来れば心優しい持ち主にお返ししたいのに手がかりがない。お礼にと思って買ったプロテインバーと一緒にジャージを持って佇んでいると声をかけられた。

「あれ?瀬戸さん?」
「! あっ、この間の!」
「ミナセでーす」
「ミナセさん!」

ミナセさん、はこの間食堂で話しかけてくれた水泳部の、正面に座っていた女の子。ジャージ姿ということはこれから部活か、もしくは部活中なんだろうと予想出来る。

「ミナセさんはこれから部活?」
「うん。ちょっと用があって遅れちゃって。瀬戸さんはもしかして桐嶋くんに用事〜?」

ニヤニヤとミナセさんが可愛い顔を意地の悪い表情に変える。けれど今回も期待を外れて申し訳ないが、郁ちゃんに用があるわけではない。否定しながらちらり、と横目で泳いでいる郁ちゃんを見て、ひどい違和感を感じた。

「桐嶋くん、今調子崩してるらしいよ。男子の星川キャプテンたちが話してた」
「そうなんだ……」
「あ、そうだ。この前の噂は違うってバッチリ上書きして流しておいたよ!桐嶋くんもいるときに言ったから、あれは絶対聞こえてたね!」

どこか辛そうに泳ぐ郁ちゃんの姿に胸が痛くなりながらも、続くミナセさんの言葉に耳を傾ける。任せてってこういうことだったのか。あまりにもドヤ顔で誇らしげにミナセさんが言うものだから、思わず笑ってしまった。

「ふふ、そっかぁ。気を遣ってくれてありがとうミナセさん」
「いやいや、この前遠慮もせず色々聞いちゃったしね。って、あれ?それうちのジャージ?」

かくんと首を傾げるミナセさんにはっとした。うっかり忘れていた。食堂での出来事とジャージをお返ししたいけど誰のものか分からない旨を伝えるとミナセさんは少し考えてから、あっと声を出す。

「タグに名前書いてないかな?背中か腰のとこ。書いてる人は書いてるんだけど」
「おお、なるほど……!」

そこまで見ていなかった。持っていたジャージを広げて背中のタグを確認する。何も書いていない。次に腰のタグを確認して、目を疑った。何も言わない私を不思議に思ったであろうミナセさんが覗き込んで、またにやりと笑う。

「呼んでこようか?」

そう言われて首を横に振る。ミナセさんに少し待ってもらうように伝えて鞄からペンケースを取り出し、プロテインバーの袋に油性ペンで" ありがとう "と文字を書きなぐる。そしてジャージとセットにしてミナセさんに託し、その場を立ち去った。こんな泣きそうな顔で会えるわけないじゃないか。

どうして見えないところで優しくするの。私のこと嫌いになったわけじゃないって思っちゃうよ。ねえ、郁ちゃん。



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