5.

「ど、ど、どどどうしよう貴澄くん!震えが止まらない……!!」
「あはは、茅が緊張してどうすんのさ」

クラスメイトの貴澄くんと橘くんのクラスメイト望月くんと今日は一緒に水泳部の大会の応援に来ている。貴澄くんには名前で呼ぶから呼んでほしいと言われて、そうすることにしたのだけど、何故かこの話をしたときに貴澄くんは郁ちゃんにも「茅って呼んでもいい〜?」と許可を取っていた。私が感じた疑問は郁ちゃんも思ったようで「僕に許可取る必要ある?」と言っていた。貴澄くんはその言葉に笑っていたため、結局理由は分からなかった。謎だ。

「あ、みんな準備に行くね」

回想に浸っていると貴澄くんがそう言った。貴澄くんの視線の先に目をやると、言葉の通り、さっきまで先輩方と話していた郁ちゃんたちが観客席をあとにしている。郁ちゃんに頑張れって言い損ねちゃった。

「声かけなくていいの?郁弥に」
「へ?でも試合前だし、お邪魔じゃないかな」
「少しくらい大丈夫なんじゃない?茅が応援してくれたほうが喜ぶと思うけどなぁ」

歩いていくみんなの背中を目で追いかける。一瞬、本当に一瞬だけちらりとこちらを見た郁ちゃんと目があった。その瞬間、声をかけたいという願望が声をかけなければという義務感に変わる。席を立って貴澄くんに「行ってくる!」と告げて、郁ちゃんたちを追いかけた。



「郁ちゃん!」

四人で歩いている一番後ろにいる郁ちゃんを呼び止めると、四人全員が振り返ったので、少し困惑してしまう。やっぱりお邪魔だったかな。

「ごめん、先行ってて。すぐ行くから」
「分かった。じゃあ行ってるね」
「瀬戸!俺らの応援頼むぜ!」
「あ、う、うんっ!」

郁ちゃんのおかげで橘くんと椎名くんは嫌な顔ひとつせずに先を行ってくれて、そんな心配はすぐにどこかへ飛んでいく。ちなみにハルちゃんはいつもどおりの表情だった。

「ごめんね。試合前に呼び止めて」
「いいよ。招集まで少し時間あるし」
「よかった!ちゃんと郁ちゃんに頑張れって言ってないなって思って、だから、ええと、あのね」

勢いで来たせいで言葉がまとまらない。昨日の夜くらいから予習しておけば良かった。言葉を見つけられずにいると、郁ちゃんがくすくすと笑いはじめる。

「茅のほうが緊張してどうするの」
「うう……!それ、貴澄くんにも言われた……!」
「大丈夫だよ。お願いしてくれたんでしょ?水神様に」

郁ちゃんがジャージのポケットから私があげたお守りを出した。ここまで持ってきてくれたんだ。そのことが嬉しくて嬉しくて、ぱぁっと心に花が咲いたような気持ちになる。嬉しい気持ちそのままに、お守りを持っている郁ちゃんの手をぎゅうっと両手で包み込む。

「ちょ、っな、な、何してんの」
「水神様にお願いしてる!念には念を!」

その手を胸の近くまで持ってきて、名前も顔も知らない水の神様にお祈りする。郁ちゃんが怪我をしませんように。郁ちゃんが無理をしませんように。郁ちゃんたちが勝てますように。それからなにより一番は。

「郁ちゃんが楽しく泳げますように」

本当はこんなことお願いしなくてもハルちゃんたちが同じチームなら大丈夫だと、心の中では思っているけれど。

「頑張ってね!一番大きい声で郁ちゃんに届くように応援するから!」

握っている手に力を込めると、郁ちゃんが空いてるほうの手を上から重ねてくれた。びっくりして、手のひらに集中していた視線をあげて郁ちゃんを見る。大きな瞳をゆるりと細めた郁ちゃんはただ一言発して、こくりと頷いた。

「うん」


↑↓



観客席で郁ちゃんたちのリレー開始を待ちわびる。既に入場は済んでいて、橘くんが入水する。どくどくどく、と自分の心臓の音がこんなに聞こえるのは人生で初めてだ。よーい、という合図が会場に響き、開始を告げる電子音が鳴った。

「橘ぁーーー!!」
「頑張れーー!!」
「橘くんファイトーーっ!!!」

隣にいる貴澄くんたちに続いて声援を送った。背の高い橘くんの背泳ぎはすごく迫力がある。関心している間にも郁ちゃんがスタート台に上がり、会話の内容まではさすがに聞こえないが、後ろの椎名くんと何やら話をしていた。リラックス出来てるようだ。視線をあちこちにやっている間に橘くんが戻ってきて、郁ちゃんがスタート台を飛ぶ。水の中にいる郁ちゃんを初めて見た。目の前がキラキラと輝いて見えた。いつも可愛いはずの郁ちゃんが、今日はすごくすごくかっこいい。

「わ、私、前で応援する!」
「あっ、ちょっと茅、気をつけてよ!」

後ろの貴澄くんから気遣ってくれる声が聞こえてきたけど、それに答えている余裕はない。一番先頭に出て手すりを強く握る。隣の水泳部のみなさんよりも、郁ちゃんのお兄さんよりも、この会場にいる誰よりも。

「郁ちゃん!!頑張れーーーっ!!!」

大きな声で応援しなければ。それから何度も何度も声援を送り、郁ちゃんがターンをして戻ってくる。視界の端で椎名くんがスタンバイしているのが映ったけど、今度はそちらに目をやることは出来なかった。タッチと入れ替わりで椎名くんが飛び込み、プールから上がった郁ちゃんがすぐに応援に回る。後ろから貴澄くんが「旭ーーーっ!!」と叫んでいる声が聞こえた。私も負けじと「椎名くんファイトーー!!」と声をあげた。次はアンカーのハルちゃんの番。椎名くんの泳ぎがラストスパートに入る。飛び込み体制に入るハルちゃんから何故だか目を離せなくなった。

「遙ぁーーー!!!」

椎名くんの声がやけに目立って聞こえた気がした。綺麗な姿勢でプールに入るハルちゃん。そこからしなやかに進んでいく姿に息を呑む。応援しなければいけないはずなのに、しばらく声が出せなかった。

初めて泳いでる人を美しいと思った瞬間だった。




「郁ちゃん!おめでとう!みんなも!」
「いい試合だったねぇ」
「ありがとう瀬戸さん」
「おう!応援サンキューな!」

表彰式や、顧問の先生と部長さんからの講評諸々が終わり、会場出口に向かう郁ちゃんたちに貴澄くんと一緒にやっと声をかける。前を歩く橘くんと椎名くんが振り返ってお礼を述べてくれた。

「ありがと。茅の声、ちゃんと聞こえたよ」
「十二年の人生の中でも渾身の大声だったからね!」
「ふっ、なにそれ」

すっきりした顔で微笑む郁ちゃんはいつもの可愛い郁ちゃんに戻っている。釣られて私もふふ、と笑う。

「郁ちゃんの言う通り、ハルちゃんの泳ぎはすごい綺麗だったね。びっくりしちゃった!」
「うん。ハルは本当にすごいと思う。……いつか絶対に、追いつきたいから」

大きな瞳の奥で闘志を燃やす郁ちゃんは、プールの中にいる郁ちゃんを思い起こさせる面持ちだった。きっとこれから郁ちゃんは今よりずっと、もっと速く、強くなっていくんだろう。自分の大会もあるから限度はあるけれど、あわよくば、成長していく郁ちゃんを隣で見ていたいなぁ、なんてそんな願望が芽生える。

「けどね、一番かっこよかったよ、郁ちゃん」

顔を覗き込んで試合を見て一番思っていたことを伝えた。郁ちゃんは「はっ、なん、」と言葉にならない声を発して動揺しており、その顔はじわじわと赤くなっていく。やっぱり可愛いやつめ。ニヤニヤしていると肘でこつんと小突かれた。そんな話をしていれば会場の出口へ到着した。「出発前にトイレ行きたいやつは行っとけよー」郁ちゃんのお兄さんの掛け声で数人がパタパタと駆けていく。

「ハルちゃんが泳ぐところもまた見たいなぁ」

ちょうど近くにいたハルちゃんにも声をかけてみる。さっきおめでとうと言ったときには無反応だったから、あまり返事には期待していなかった。

「また応援に来ればいいだろ。地区大会も来年も、大会はまだこの先もあるんだから」
「う、うんっ!!」

だから驚いた。まさかこんな風に言ってくれるだなんて。意外すぎたその返答に思わず大きく反応してしまった。目を合わせていたハルちゃんがお手洗いから戻ってくる橘くんに視線を移す。その横顔を見て、なんだかふわふわとした不思議な感覚に包まれた。



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