10.

興奮が冷め止まないうちに再び会場内を彷徨う。郁ちゃんのバタフライ、バック、専門にしてたブレ、それからまるで遙を連想させるようなフリー。思い返すだけで郁ちゃんに会いたいという気持ちが加速していく。この会場内のどこかにいるんだ。気づけば駆け足になっていて、そのせいか周りがよく見えていなかった。

「うわっ!ご、ごめんなさいっ!」

角を曲がった途端にどんっと身体に衝撃が走り、反射的に謝罪の言葉がすぐに口から出ていく。相手の方が身体が大きかったみたいで、よろけたのは私のほう。特に気に止めず通り過ぎていくその人から「すみません」静かな謝罪が聞こえた。


「郁ちゃん?」

記憶の中にある声よりもほんの少し低いその声を、なんとなくそうなんじゃないかと思った。問いかけに足を止めた彼が振り向きざまに揺れた髪を、とても綺麗だと思った。

「……………茅?」

同じくらいの高さにあったはずの瞳が見下ろしてくる。綺麗な瞳にサラサラのしなやかな髪。やっぱり間違いなく、郁ちゃんだ。

「い、」
「郁弥。お待たせ」

呼ぼうとした名前を口にしたのは私ではなかった。郁ちゃんの後ろからぬらりとゆっくり現れた、郁ちゃんより少し背の高い眼鏡の男の子。この人もうちの水泳部の人なのかな。

「その子、知り合い?」
「……………うん。中学のときの、同級生」
「………へえ」

穏やかに微笑む彼の瞳がヒヤリと冷たくなったように感じた。郁ちゃんの返答にすごく間があったのも気になったけれど、嫌悪を含んで刺さってくる視線が痛くて、突っ込むことが出来ない。

「あの、郁ちゃん」
「ごめんね。郁弥は試合後で疲れてるからさ。思い出話ならまた今度にしてくれる?」
「えっ、あの、ええと」
「行こう郁弥」
「あ、ちょっと、日和」

日和、と呼ばれる人に促されながら郁ちゃんは歩き始めてしまう。待って、と口に出す前に手だけが伸びる。それに気づいたのか、隣の彼がまたゆるりと微笑んだ。

「君もオトモダチと一緒に来てるんなら合流した方がいいんじゃない?」

吐き捨てるようにそう言われる。お友達の言い方がやけに何か含みを持っていたように聞こえた。ちょっと、一理ある。けど何故だか今言わなきゃいけないような、そんな焦燥感にかられた。

「郁ちゃん!」

去っていく背中に大きめの声で呼びかけると、二人の足が止まった。

「個人メドレー見た!かっこよかったよ郁ちゃんっ!」

もう一度目が合った郁ちゃんに笑いかけると、大きく目を見張っていた。隣の彼も一瞬驚いたような顔をしていたけど、すぐに先ほどのような冷ややかな視線に変わる。そういえばあの彼、どこかで見たことあるような気がする。学校ですれ違っていたのかもしれない。記憶を辿っている間に二人はもういなくなっていた。

郁ちゃん、一度も笑ってくれなかった。


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みんなと起きた出来事を話し合い、今度きちんと話をしに行くことにするそうだ。遙も忘れ物を取りに行った際、郁ちゃんに遭遇したらしい。そのときに言われた言葉は鋭いと言わざるを得なかった。同じ学校の生徒として、もし分かったことがあったら教えてほしいと言われたものの、授業はひとつも被っていないらしい。郁ちゃんのことを教えてくれた先輩に訪ねてみたけど、あれ以上の情報は持っていなかった。水泳部の人と顔見知りにでもなれればいいのに、こう学校が広く人数も多いとそれもスムーズいかず、郁ちゃんの情報がどうしたって入って来なかった。同じ学校なのに、同じ校舎の中にいるのに。大きな校舎にはしゃいだ四月の自分がすごく恨めしい。

強いて言うならば、出来るのはバイトのない日に水泳部を外から眺めることくらい。何度か待ち伏せても試みたが、何故か待っていた水泳部集団に郁ちゃんがいたことは一度もない。あと、あの眼鏡くんも。桐嶋くんはいませんか、と尋ねてみたこともあるけれど「気づいたらいなかった。多分もう帰った」と曖昧に言われるだけ。本当に何故。どうしたもんかなぁ。


「ごめんね、同じ学校なのに全然役に立たなくて……!!」

椎名くんのお姉さんがやっている喫茶店の机に突っ伏して三人に謝罪をする。遙たちに協力したいのはもちろんだけど、私はただ郁ちゃんに会ってあの頃みたいに話がしたいだけなのに。それすら叶わないなんて。

「あの眼鏡のやつに阻止されてる、とか?」
「んん、どうかなぁ」
「……大丈夫だ。茅は悪くない」

腕を枕にしたまま隣に座る椎名くんと話していると頭に重みを感じる。顔をあげて見ると正面に座ってる遙の手が私に向かってまっすぐ伸びていた。遙だって気にしているはずなのに、励まされてしまった。すると椎名くんが訝しげな表情で見下ろしてくる。

「なぁ、やっぱさぁ、お前らって付き合ってる?」

おまえらとは。私と遙のことだろうか。高校時代に何度か言われた質問をまさか椎名くんにまで言われるなんて。もしかして再会したときに何か考え込んでいたのはこのことだったのだろうか。ぽかん、としている私を差し置いて遙が少しめんどくさそうに口を開けた。

「付き合ってないって言っただろ」
「いや言われてはねぇよ。中一のときはそんなに距離近くなかっただろ。名前でも呼び合ってなかったし」
「茅とハルは中一から高三までの六年間、ずっと同じクラスだったからね」
「マジかよ!?すげぇな」
「へへ、すごいでしょー?」

真琴くんの発言に対して大きくリアクションをしてくれる椎名くんに自慢げに微笑む。呼び方に関しては真琴くんとも名前呼び同士になっているんだけれど、そこに対する突っ込みはないのかな。そして私としては何度転校を繰り返しても、その時の友達をずっとずっと大事に出来る椎名くんの長所を褒めたいところだけど。

「名前で呼ぶようになったのは中三のときだよ。遙がね、落ち込んでたときに励ましてくれてね」
「瀬戸って、落ち込むのか……!?」
「あー、そっちかぁ」
「お前がそれ言うのか」
「なぁっ!?は、ハル、それはもういいだろ!………あっ、今度岩鳶の卒アル見せてくれよ!」

遙の言った言葉の意味は分からなかった。椎名くんがわざとらしく話題の方向転換をさせているところを見ると、きっと中学時代の水泳部でのことなんだろう。ちょうどタイミング良く貴澄くんが来て、真相が分からないまま話が終わってしまった。
話し始める四人の姿が、中学一年のときに教室の隅でよく見た光景に重なる。いつか、ううん、出来たらすぐにでも郁ちゃんがまたここで笑ってくれるといいなぁ。



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