「え、凪くんって前に彼女いたの?」

   告げられたことに目をぱちくりとさせる。嫉妬、とかよりも驚きのほうが上回っていて、凪くんの家で見せてもらっていた恋愛バラエティのテレビの音が耳から完全に遮断された。

「まー、一応。でも向こうはなんか罰ゲームとかで告白してきたらしいし、断ったのにしつこいから適当に頷いただけ」

   好きで付き合ったのはナマエが初めて。とゲームに目を向けたまま淡々と告げるものだから、さりげない告白に心を持っていかれる。「そ、そう、なんだ」嫉妬を上回った驚きをさらに上回って照れちゃって、どもりながら頷くと凪くんはゲームから目を離して「あ、照れた?かわいー」と擦り寄ってきた。恥ずかしくて「照れてない!」とついむきになったのはほんの数日前のことだった。


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「うそ?!誠士郎じゃん!」

   久しぶりに凪くんが「外でデートする?」と言ってくれたある日。並んで街を歩いていると驚いた声が隣を歩く凪くんの名前を呼んだ。振り返った先にいた綺麗な女の子に誰だろう?ときょとんとする私と、対して凪くんはどこか気まずそうな、めんどくさいと言いたげな顔を浮かべて「あー…」とこぼしている。

「なに?こんなとこでなにしてんの?」
「なにって、デート。見たら分かるでしょ」

   見知らぬ女の子の登場に不安になる間もなくデートだとはっきり答えてくれる凪くんに、不安を通り越して先に嬉しいがやってきて顔がちょっとだけにやけた。
   そうです。デートなんです。お気に入りのワンピースもちょっとだけ早く起きてセットしてきた髪型もお化粧も、凪くんは待ち合わせ場所で会うなり「かわいー」と褒めてくれたんです。そんなことまでさすがに口に出して言いはしないけど、勝手に思い出して自慢げになる。
   ほわほわと火照る頬を隠すように俯いていたら反応がないことに時間差で気がついて、顔を上げて、びっくりした。その女の子は綺麗な目を丸くさせながら、じっと射抜くように私を見ていた。

「……へえ、デート。あんたがデートねえ」

   視線が次第にじろじろと観察するような、品を定めるようなものへと変わっていく。なんだか嫌な頷き方だ。そう感じると同時になんとなく察してしまう。この人たぶん、凪くんの前の彼女だ。神奈川から東京に遊びに来るなんて珍しくないし、いてもおかしくはないけど、まさか遭遇するなんて。

「彼女さんさ、誠士郎って顔は良いし高身長だし勉強もなんでか出来るけど、基本ゲームばっかりでつまんなくない?授業中も寝てばっかりで、一緒にいてもこっちまで周りから変な目で見られるし」
「………えっ、と」
「まあ私は罰ゲームで付き合ってただけだからいいんだけど。あ、でも身体の相性は良かったよね?」
「は?」

   次々と繰り出される言葉の応酬に戸惑っていると、がつんと頭に強い衝撃を受けた。凪くんが冷たい声で反応していたけど、頭からは抜け落ちる。挑発的な笑顔を私から凪くんへ向けるその態度と言葉が、何を意味しているのか指し示していた。彼氏彼女という関係性を持っていたらそんなことが起きても不思議じゃないことくらい分かる。冷静さをどんどん欠いていく内心とは裏腹に、頭のてっぺんまで登った血がどんどん冷めていって、気がつけば、息をすうっと吸っていた。

「そうですか。よかったです、あなたみたいな人に凪くんの魅力が一ミリも伝わらなくて」

   静かな声でそう言うと女の子は彩られた口をぽかんと開いてさっきよりも目を丸くした。あ、かたまってる。もういいかな。もう話すことないよね。

「凪くん行こっか」
「はあ?!」

   我に返ったように声を張り上げてくる女の子を無視して凪くんの腕を引いて歩き出す。「ちょっと!待ちなさいよ!!」と叫んでヒールをコツコツ鳴らしている音がするけどそんなの知らんぷりだ。羨ましいでしょ、かっこいいでしょ。私の彼氏。だからそんな嫌なこと言いたくなるんでしょ。言葉にしないイライラは、ちらりと顔だけで後ろを確認して目で訴える。最後に見えた女の子の顔はもう綺麗な子には見えなくて、上手いこと人の間を潜っていけばむかつくヒールの音なんかすぐに聞こえなくなった。
   言葉もなくしばらく歩いて、気がつけば駅のほうまで来てしまっていた。さすがにここまで追いかけてくることはないだろう。人通りの邪魔にならないよう駅ビルの陰で足を止めて、ずっとつかんだままだった腕を離してようやく振り向くと、瞬く間にさっきまで引いていた腕の中に閉じ込められていた。

「ナマエ。ナマエ」
「な、凪くん?」
「ナマエ、好き。超好き」
「どっ、どうしたの、こんな道端で…は、はずかしいよ…!」
「うわー、ギャップすご」
「??」
「それも反則」

   ギャップと言われてもぴんと来なくて、何度かぱちぱちと瞬きをしながら凪くんを見上げた。やんわりとした空気をさらに膨らませた凪くんは嬉しそうにまた私の頭部に頬を寄せながら抱きしめてくる。だから、はずかしいんだってば。公然なんだってば!道の端と言えども駅の近くで人がわんさか通っているし、通り過ぎていく人たちもこっちをちらちら見てから過ぎていく。たちまち赤くなる頬を我慢できずに凪くんの胸を押し返すと、名残惜しそうにゆっくり腕が降りていく。改めて見た凪くんの表情は少しだけ緊張を纏い、難しい顔をしているように見える。

「弁解しなきゃとか、あの人が言ったことと同じことナマエにも思わせてんのかなとか、先に言ったり聞いたりしなきゃいけないのかもしんないけど」
「え?う、うん?」
「それ以上に、ああやって言ってくれたナマエがかっこいいのに可愛くて、やばいめちゃくちゃ好きだって、なった」

   直感的な物言いで自身に起きた衝動を説明してくれる凪くんにぎゅうっと心臓を持っていかれる。ただあのとき一番に思ったことをそのまんま口にしただけだったのに、好きなんて言ってくれるなんて、棚ぼたすぎて頭がついていかない。照れくさくってたまらず顔を俯かせると今度は頬にそっと大きな手のひらを添えられて、優しく顔を上げさせられた。

「弁解も、ちゃんとさせて。俺、あの人とそーゆーことしたことないし、したいと思ったこともない。そもそもそんなに付き合ってすらないし」
「……う、うん…」
「ナマエだけだよ。喜ぶ顔が見れるんならデートしてみよって思うのも、それだけじゃ満足出来ないって思うのも、ナマエが全部初めて」
「あ…う…え、ええと…」
「真っ赤。ゆでだこみたい」
「う、うるさいなあ…!」
「さっきはあんなかっこよかったのに」

   今はこんなに可愛い、とまた腕を回してきたのですぐさま迫ってきた身体を押し返す。だから人目があるって何度も言ってるのに。じとっと目で訴えるとややしょんぼりした顔で腕がおろされた。こうゆう素直なところにはとってもときめくけど、困るものは困るんだ。

「……信じてなかったよ。あの人が最後に言ったこと」
「ん。よかった」
「それと、ゲームばっかりでも私は楽しいよ。私も一人の時間は好きなほうだし、むしろないと嫌なほうだし」
「うん。知ってる」
「でもゲームの途中でたまに構ってってきてくれるのも、すごく嬉しくて。私との時間もこうやって大切にしてくれる凪くんが、すごく、だ、だいすき」

   普段から好き好きと言い合ってぺたぺたくっついているわけではなく、どっちかと言うとお互いに好きなことをしてのんびり過ごしていることのほうが断然多いので、こうしてちゃんと口にするのはやっぱり照れる。けど一度素直になった口は緩くなっていたのか「あ、でも」自然と続きがぽろりとこぼれ落ちた。

「あの人が凪くんのこと名前で呼ぶのだけは、ちょっと…ほんのちょっとだけ、もやっとした…」

   尻すぼみになっていく声と共に視線が地面へと下がっていく。コンクリートだらけの視界を割って入るように前屈みになった凪くんがひょこりと顔を覗かせてきて、その近さにどきっと心臓が跳ねた。

「ねー、やっぱ抱きしめちゃだめ?」
「も、もう!だめ!」
「ナマエのケチ」
「ケチでもだめ!」
「んー、でも好き」
「だからだめだってば!」

   何度も口にする『だめ』なんて諸共せずに擦り寄ってくる凪くんと慌てて距離をとる。あんまり変化の見えない表情筋がむすっと歪んだけど私だって折れない。ほんの数秒謎の睨みあいをしてから、二人の間に手のひらを差し出してきたのは凪くんのほうだ。

「じゃあ手、つなご」
「……つなぐ」
「ん。いいこ」

   伸ばされた手に手を重ねた。手を繋いだことなら何度もあるのに、今日はいつもよりどきどきする。そういえば凪くん、初めて手を繋いだ日に『手繋ぐの初めてかも。小学校のフォークダンスとか以外で』とさらっと言ってきたっけ。初めてに特別なこだわりを持っているわけじゃないけど、やっぱり嬉しかったなあ。

「俺、手を繋いだのもナマエがちゃんと初めてだよ」

   記憶のなかの言葉とほぼ同じ内容を改めて口にされて、すこし驚いた。さっきの女の子の存在を不安だとはちょっとも口にしていないし、なんなら不安だとすら思ってもいない。きっとそれは分かっているけど、それでも私に好きを伝えてくれるその姿勢が嬉しくて、優しさが好きで、たまらなくなる。知ってる、と頷いた顔はだらしなく勝手ににやけていたと思う。


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