ふあ、と欠伸をこぼしながら枕元に置いたはずのスマホを手探りで探す。すぐに見つかったスマホに表示されているのは午前十時三十分。ナマエと約束した時間からは既に三十分が経過していた。
   時刻の下に並んでいる通知の箱の中にはナマエの名前がみっつも重なっていた。『また寝坊したんでしょ』『記念日だから今日は遅れないって言ったくせに』『誠士郎のばか』どれもこれも不機嫌な様子だ。

『ごめん。今起きた』

   同じ内容を何度も送りすぎて、ごめんと打った時点で予測変換に今起きたが表示される。シュポシュポと音を鳴らしながらナマエに届いたラインはすぐに既読になり、ちょっと時間を置いてから『もう帰る』と相変わらずご機嫌斜めな返事が来た。

『ほんとごめん。すぐ行くから』

   でも俺は知ってる。だってナマエの彼氏だから。ナマエはこう言いながら帰ったことは一度もない。健気に純粋に、待ち合わせ場所で俺を待っている。今日もいるであろう彼女に甘えて、ようやく身体をベッドから下ろした。どんなに遅れても俺が来るってナマエも知ってる。
   歯磨いて顔洗って、以前ナマエが褒めてくれた服に袖を通して、紙袋を持って家を出た。お腹すいた。昼はナマエがこの前行きたいって言ってたカフェかな。ナマエと付き合うようになってからカフェとかよく行くようになったけど、いまいち良さは分かんない。お洒落な食べ物って大抵食べにくいし。でもナマエが目きらきらさせながら食べてるとこを見るのは好き。可愛いから。朝は起きらんないし遅刻常習犯だけど、これでも愛はある。だからナマエだって、いつも俺を待っていて「次はないから」って言いながら俺の手を取ってくれるんだ。
   電車に乗って待ち合わせしている駅で降りて、改札を出る。時刻は十一時十五分。約束の時間から一時間半が経過しようとしてることに気づくと同時に、あれ?と思う。
   何の通知も来てない。それどころか、既読すらついてない。いつもなら怒った返事を送ってくるのに。もう知らないとか、今日は本当に帰るとか、そんな感じのこと。えー…今日はいつもより怒ってんのかな。だとしたら、ちょっとだけめんどくさい。
   溜め息を吐きつつ待ち合わせ場所を目指していると救急車とすれ違った。間近で聞こえたサイレンの音にふと顔を上げて、やけに人が多いことに気がついた。うえ、この中からナマエのこと探すの至難の業なんだけど。

「血の量やば…大丈夫かな…」
「飲酒運転か〜…」
「…音かなりすごかったし、近くにいても怖かったよね」
「轢かれた女の子、高校生くらいじゃなかった?」

   野次馬の中から聞こえてきた声に、どくんと心臓が嫌な跳ね方をする。周囲よりも頭ひとつ分高い位置に目線がある俺の視界には、警察が引いたバリケードテープの向こう側が遠目でも映ってしまった。
   コンクリートの地面と近くの建物の外壁にはゲームでしか見たことないくらいの血痕がべったりとついている。それだけじゃない。突き破られたガードレール。フロント部分がくしゃくしゃになった軽自動車。割れたガラス。飛び散る破片と、飛び散る赤。

「…ねえ、本屋行く前も立ってた子だよね」
「うん。誰か待ってたのかな…一時間くらいずっといたよな…」

   近くにいたカップルがそんな話をする。……いや、嘘でしょ。そんなわけないじゃん。だって今日、俺たち付き合って一年の記念日なんだよ。この紙袋に入ってるネックレスだって、玲王に意見もらいながら決めたし、俺だってお揃いのを首から下げてる。アクセサリーとかめんどくさいけど、ナマエが喜ぶと思ったから、何軒も店を回って選んだのに。
   目と耳から入る情報で嫌なほうにばかり想像が膨らむ。動悸がやばい。冷や汗がすごい。無意識に短くなっていく呼吸で必死に酸素を吸いながら、少しでも安心しようと人混みを掻き分けて事故現場に近づいていく。そして目に、入ってしまった。
   警察の人の手にあるスマホ。ナマエが最近、ハンドメイドが趣味だっていう友達に作ってもらったって嬉しそうに自慢してきたケース。関心はなかったけど、見間違うはずない。ちゃんと覚えてたから。だって俺、ナマエのことが好きだから。世界で一番、好きだから。

/

   ナマエと会うときに一番多く着ていたのは、白宝の制服だと思う。放課後に制服デートだって喜んで手を引いてくれた初めてのデートのことを今でも鮮明に覚えてる。告白したときも、ナマエが「私も好き」って恥ずかしそうに頷いてくれた日も、俺たちはこの制服を着ていた。
   でも、もう、ナマエがこの制服を身に纏って、俺の手を引く日は訪れない。その目を開けることもなければ、その目に俺を映して、ほかのヤツには見せない甘くて柔らかい目で微笑んでくれることもない。

「……凪」

   ナマエが白い着物を纏っているのは初めて見た。出来ることなら褒めてあげたいけど、全然似合ってないし。黒が当然である場でも高校生である俺たちは白い制服を纏わなくてはいけない。悪目立ちして見えるブラザーのポケットから手を出して、首の裏に手を置いた。

「ね、玲王」
「……」
「俺が遅刻しなかったら」

   ナマエはこんなとこにいなかったのかな。そこまでは言葉に出来なくて、口を閉ざした。後ろから声をかけてくれた玲王から鼻をすする音が聞こえてくる。あとはちょっと遠くからナマエの両親や親族の人たちの声が聞こえてくるだけ。

「……先、行ってるぞ」
「うん」

   こうゆうところって足音がよく響くから、近くに人がいるとかいないとか、よく分かる。玲王の足音が遠のいたところで、首に当てていた手をゆっくりとナマエに伸ばした。

「ナマエ、起きてよ」

   するりと白い頬を撫でる。ナマエは白い棺の中で、寝息ひとつ立てることもなく静かに眠りについていて、俺の呼びかけに応じる様子はない。一体どうやってあの日から今日まで過ごしてきたのか、よく覚えてない。そんなこと、どうだってよかった。

「俺、ナマエがいないと寂しいんだけど」

   もう一度、声をかける。冷たい頬を撫でる。やっぱり返事はないし、頬の熱は戻ってこない。

「追っかけたら、ナマエ、めっちゃ怒るよね」
「怒ってよ」
「遅刻したことも、あれから全然ご飯食べてないことも。全部怒って」
「それで」
「ずっと一緒にいようよ」

   手は届くのに、頬に触れてるのに、名前を呼んでいるのに。ナマエはもうこの綺麗な唇で俺の名前を呼ばない。時が来て、なすべき儀式を終えたら、この身体は跡形もなく無くなってしまう。
   ただ高校の同級生で、子どもな俺は、ナマエが灰になるところまではついていけない。今が最後。これが最後。ナマエに触れることも、直接名前を呼ぶのも、最後になる。俺がそうさせた。俺がこんなだから。
   ごめん。甘えてばっかりでごめん。遠いところに、一人で行かせてごめん。痛かったよね。苦しかったよね。ごめん。全部、俺が、そうさせて、ごめん。
   綺麗に身なりを整えられたナマエを汚したくないのに、頬にどんどん水滴が落ちていく。ぼやける視界に身体が馴染んでくように意識が遠のいていく。息が、上手く出来ない。あー…もしかして、俺も死ぬのかな。そしたら俺、ナマエとずっと一緒ってことじゃん。何それ、最高すぎ。ナマエと一緒にいられるなら、もう、なんでもいいよ。だって俺、ナマエのことめっちゃ愛してるから。


:
:


「っ、は…!はっ、は…」

   弾かれたように勢いよく身体を起こす。だらだらと流れる汗がこめかみを汗が伝って顎から落ちて、掛け布団にシミを作った。心臓も、スプリント何本もやったのかってくらいバクバクいってるし、呼吸も短くて荒い。

「せ…誠士郎…?大丈夫?」
「……は…?」

   隣から聞こえてきた声にはっとしてそっちを見る。その声は間違いなく名前を呼んでほしいと心の底から願った声で、驚いたように瞬きを繰り返す瞼は何度も開けと念じたものだった。

「すごい魘されてたし…汗もすごいよ。風邪ひいちゃうから、早く着替えないと」

   え……あれ……?もしかして夢見てる?ってゆーか、俺死んだ?

「え、ナマエ…なんでいんの…?」
「なんでって…もう!誠士郎が言ったんでしょ!『絶対遅刻するから迎え来て』って!」

   俺が返事をするとナマエは風船がぱちんと割れたみたいに怒り始めた。なんのこと?と一瞬考えたけど、ナマエが口にしたやりとりに身に覚えしかない。現状把握が出来ずにぽかんとしていると「もう十一時十五分だし!私、十時からここにいるんですけど!」と続けてぷんぷんと怒っている。
   もしかしてという期待を胸に、ありきたりだけど頬を抓る。確かな痛覚が、ちゃんと俺の身体には存在していた。

「え、何してんの誠士郎。……ねえ、聞こえてる?」

   耳障りのいい声が引き続き奏でられてやっと呼吸が整ってきた。それとだんだん頭も覚めてきて理解が追いついてきた。さっきのが、夢だったんだ。そもそも俺たち、もうとっくに高校とか卒業してんじゃん。
   同じ制服を着なくなったのはナマエも俺も同じタイミングで、ネックレスだってちゃんと渡したし、卒業式だってして、写真も撮って、ナマエはそのあと進学したし、なんなら大学も卒業して就職もしたし、俺も海外に行く準備を整えて、シーズンオフには日本に戻ってきて、今日はナマエとデートの約束してて、それで、準備してたことがあって。

「え、な、なんで泣くのっ、そんなに怒ってないよ!ごめんね怒りすぎた?!怖かった?!」

   無くなったことになった思い出が走馬灯のように頭の中にとめどなく流れてきて、気づいたら涙が目からぼたぼた落ちていた。
   ナマエは突然泣き出した俺を見て、見当違いなことを言っておろおろと慌てている。まあ、びっくりするだろうね。俺もびっくりしてる。怖い夢見て起きて安心して泣くとか、幼稚園児かよって。
   でも、そんなんどうでもいい。たまらずナマエの腕を引き、柔らかな胸元に顔を寄せて抱きしめた。とくんとくんって、心臓の音が聞こえてくる。落ち着く。安心する。ナマエが生きてる音だ。

「ナマエが死んじゃった夢見た…」
「お、おお…それは辛かったね…」
「辛すぎて俺も死のうと思った」
「えっ?!やだ、やめてよバカ!」
「いてっ」

   ばしりと結構強めに頭をはたかれる。うん、やっぱ痛いし、やっぱ怒られた。夢の話じゃん、って言い返す言葉が浮かんだけど、俺が言ったところでなんの説得力ももたない。そして、予想どおりの反応をされることが、こんなにも嬉しい。もう絶対に離してやんね。

「ナマエ、今日お家デートにしよ」
「えー…ランチで行きたいカフェ目星つけてるのにー…」
「危ないじゃん。今度こそほんとに死ぬかも」
「危なくないよ。縁起でもないこと言わないでよ」
「んー…でも今日はナマエが生きてるって実感したいから、ずっとくっついてたい…」
「うわ〜…甘えたこと言って〜……あ、恋人が死ぬ夢って吉夢なんだって。二人の愛情が深まる暗示らしいよ」

   見せてきたネットの情報にナマエが嬉しそうににこにこと笑って俺の頭を撫でる。しかもそれ俺のスマホだし。いつの間に。
   大人しく撫でられつつ、そのページの上から下まで目を通す。彼女が亡くなる夢は恋人から次のステップに進むという暗示でもあり、という文面も一緒に並べられている。……ああ、そうゆうこと。じゃあ、しょうがないね。

「へー…なるほどね」
「だから安心してね。生きてるからね。すっごく元気だからね」
「ん、分かった。結婚しよ、ナマエ」

   ナマエの目が丸くなる。多分だけど、このあとちょっと怒られると思う。この流れでそんなこと言わないでって。
   でも俺、思いつきで言ってないよ。ベッドサイドに置いた棚にしまってある指輪は玲王に意見もらわずに一人で決めたし、ナマエに一番似合うものを見つけたくて、何軒も店を回って選んだ。
   これからは約束の時間に間に合うように絶対起きるし、待ち合わせするなら絶対遅刻しないし、そのときは外で待たせないし、家事だってちゃんと一緒にやる。だから今度は、じーちゃんばーちゃんになるまで一緒にいようよ。だって俺、ナマエのことめっちゃ愛してるから。


- ナノ -