どうしてこうなった。今私がいる場所はここから徒歩十分かからないくらいの居酒屋だ。連休も終盤に差し掛かってきて『暇してるなら飲みに行こう』と同僚の女の子二人に誘われ、何の疑いもせずについて行った先で待ち受けていたのは、自分を含んだ男女各三人ずつが囲うひとつのテーブル。男性側にはコミュ力が高いと評判がいい取引先の伊藤さん。隣の二人の男性は口ぶりからして伊藤さんの同僚のようだった。
   飲み会の正体に気がついたときにはテーブルに料理もお酒も並んでいて、はめられたんだとようやく気がついた。

「帰る!合コンじゃん!」
「まあまあそう言わずに」
「いやいやいや無理無理無理」
「すごい拒否るじゃん。彼氏大好きか」
「そうだよ大好きだよ!!」
「でもその彼氏と喧嘩になって今日暇になったって連絡してきたのもナマエでしょ?」
「そ、それは、言ったけど…合コンなんて聞いてないいい…」
「伊藤さんに頼んでセッティングしてもらったんだけど、どうしても一人足りなかったの!お願い!」
「いるだけ!いるだけでいいから!」

   必死か。男性陣が煙草やらお手洗いやらで席を外したタイミングで慌てて席を立つも同僚二人に懇願される始末。確かに彼氏欲しいという話は聞いていたし紹介してほしいと言われてもいたけど、まさかこうなるなんて。
   けど帰ったところで何も用がないことも、普段から彼女たちに仕事で助けてもらったりプライベートな相談に乗ってもらっていることも紛れもない事実だった。それから、スマホに何の連絡が入ってないことも。総合して考えて仕方なく座り直すと彼女たちは両サイドから「ありがとうナマエ!ほんとにごめんねー!」と抱きついてくる。可愛くてうっかり許した。
   二人のことは好き。こんなふうにされても憎んだり怒ったり出来ないくらい好き。でも本当なら誠士郎と二人で、誠士郎の誕生日をお祝いしてるはずだったのに。この思いだけはどうしても拭いきれないでいた。
   一応連絡だけでもしたほうがいいかな、と取り出したスマホのトーク画面にはやっぱり何の音沙汰もない。先週会ったときに待ち合わせたときのやりとりだけが残されていて、胸のあたりがすごくモヤモヤした。

『いちいちそうゆうこと言って喧嘩になるのがめんどくさいんじゃん』

   溜め息を混ぜた声が、頭に染みついて離れない。喧嘩の理由ははっきりと覚えてる。誠士郎が女性のいる飲み会に黙って参加をしたから。いつもは言ってくれるのに何故かその日は教えてくれなくて、後から共通の知人である玲王くんに偶然聞く機会があってびっくりした。驚いた以上に、ショックだった。
   玲王くんは同じ飲み会の場にも参加していて、女性が来ることは知っていたけど誠士郎は知らなかったらしい。心配するようなことは何もなかったと教えてくれたけど、納得はできなかった。結局誠士郎と会った先週末に責めるような形で問い詰めて、さっきの言葉を吐き捨てられた。納得するどころか、誠士郎が毎回事前に伝えてくれるのは私を安心させたいからじゃないと知ってしまった。

『…じゃあ、いつもは、めんどくさい喧嘩を回避するために言ってくれてたんだね』
『だったらなに?』
『ううん、分かった。これからは言わなくていいよ』

   それだけ言って誠士郎の家を出た。喧嘩は多いほうじゃないから、誠士郎の気だるげな眼差しが冷たくなっていくことに耐えられなかった。あのめんどくさがりが追いかけるなんてしてくるはずはなく、そして今日まで連絡のひとつもない。私から連絡をするのは、負けた気持ちになる。
   ……っていうか、黙ってたらバレないかも。そしたら誠士郎を怒らせることも嫌な気持ちにさせることもない。トーク画面を見つめていたらよこしまな考えが浮かんできて、ふと気がつく。
   きっと、誠士郎も同じ気持ちだったんだ。私に嫌な気持ちさせるのが嫌で、言わなかったら一緒に楽しい時間を過ごせると思ったのかな。ただ同じ空間にいたってだけで、何もなかったんだよね。けどやっぱり、後から知るほうが絶対にしんどいから。

『同僚に誘われて◯◯駅近くで飲んでます。来るまで知らなかったんだけど合コンだったみたいで、ごめんなさい。一応報告』

   なんて送ったらいいのか分からなくてつい敬語が混じる。絵文字もない可愛げのないラインだけど、何もないよりはマシだと送信ボタンを押した。どうせすぐに返ってこないでしょ。捻くれた気持ちでしまおうとしたスマホは、意外なことにすぐに震えた。

『わかった』

   返ってきたのは、たった一言。今まで何度も送られてきた短い返事なのに、やけに胸がギリギリと痛む。誠士郎は全然平気なのかな。それとも、私が報告してくれなかったって怒ったばかりだったから当てつけだと思った?余計に怒った?それとも、もう好きじゃなくなっちゃった?言葉の裏側を一人でぐるぐると考えて、ちょっとだけ泣きそうになる。
   大好きなハイボールが全然美味しくない。元々好きになれなかったビールはさらに美味しくない。こんな気持ちでいたら、何にも美味しくない。どうしたらこれが解消されるのか。答えはたったのひとつで、お会計が済むなり挨拶もそこそこに居酒屋をあとにした。

「ミョウジさん」

   時刻は二十時過ぎ。集合が早かったのもあって早めに帰路を辿れた。ヒールをコツコツと鳴らしながら早足で駅を目指していると、駅が見えてきたところで聞き慣れた声に呼び止められる。

「あ、伊藤さん」
「お疲れ。駅まで一緒に帰っていい?」
「お疲れ様です。伊藤さんももう帰るんですか?」
「うん。役目終わったしね」

   伊藤さんが肩をすくめながらへらりと笑う。そういえば同僚の二人は伊藤さんに合コン頼んだって言ってたっけ。伊藤さんの紹介ってだけあって、あとの二人もとても気さくで話しやすくて同僚たちとはすっかり意気投合していた。おそらく四人で二軒目に行くのだろう。
   もう一度伊藤さんに「お疲れ様です」と伝えると、今度は「ありがとう」と優しく微笑んでくれた。

「早速、不躾で申し訳ないんだけど」
「はい?なんですか?」
「ミョウジさんって彼氏いなかったっけ?」
「………そういえば言いましたね」

   忘れていた。伊藤さんには前回の飲み会のときにもこうして二人で駅まで歩いたから、そのときにぽろっと話したんだった。さすがに誰かとは言わなかったけど、すっかり忘れていた。

「もしかして別れちゃった?」
「いえ。別れては、ないんですけど」
「……ってことは、少なからず上手くいってなかったりする?」

   ギクッと身体が強張って、目をそろりと逸らす。我ながら分かりやすい。そう思っていると「分かりやすいなあ」と伊藤さんがちょっと困ったように笑って、つられて苦笑いを浮かべた。

「はは…単に喧嘩中なだけなんですけどね…」
「ふーん…。その喧嘩ってさ、俺の入る隙があったりするやつ?」
「え」

   駅に着いて足を止めたのと同時に、へらへらしていた苦笑いが顔からぱっと消え去った。私の顔からも消える。足を止めた伊藤さんがアルコールを感じさせないくらいに真剣な顔をしている。
   それってつまりは、そうゆうことでいいんだろうか。遊びとしての話をされてる可能性もゼロじゃないとは思うけど、異性としての話をされていることには間違いない。それが分からないほど鈍い子どもではなかった。

「あ、りません。彼が私のこと今も好きかどうかは、正直もう分かんないですけど、でも私が彼を好きなうちは私が彼に誠実でいたいので」

   伊藤さんからしてみれば都合の悪い、可愛げの欠片もない返答だろう。でも答えにも答え方にも迷わなくて、目を逸らすこともしなかった。

「いいね。ますます好きだな」
「す……はいっ?!」
「うん、そうゆう反応も可愛い。じゃあまた隙が出来そうな頃に伺うことにするよ」

   思ってもみなかった言葉に驚きを露わにしているうちに、伊藤さんはひらひらと手を振って駅の喧騒の中へと消えていった。口説き方も立ち去り方もスマートだ。しかも、なんか、遊びじゃなくて本気のほうっぽかったな。今度伊藤さんがうちの会社に来たとき一体どんな顔すればいいんだ。
   急展開に動揺を隠しきれない反面で、口にしたことで硬くなった気持ちもある。今からでも誠士郎に会いに行こう。誕生日おめでとうって直接伝えたいし、ちゃんと話をしよう。意を決して足を踏み出した、刹那。
   突然腕を掴まれた。「?!」声にならない叫びと共に反射的に振り返ろうとしたけど、いつの間にか顎に添えられた手で強制的に上を向かされる。

「せっ、ん…!」

   一瞬目が合った人物が誰なのか分かったけど、名前を呼ぼうとした唇が上から塞がれる。フードを被っているのか視界が暗い。

「ちょ…!ま…んん…」

   制止をかけるために開いた口には舌が差し込まれてビクッと身体が跳ねる。においも体格も、目が合ったときに想定した人物で間違いはないはずだけど、人前で突然こんなことをされたらさすがに抵抗する。空いているほうの腕で顎を固定してくる手をパシパシと叩くけどびくともしない。
   フードで閉ざされた視界の中で、口の間から漏れる水音と吐息だけが聴覚を刺激する。めまいがしそうになってきた。

「っ……ふは…!っも、もう、誠士郎!なにしてんの…!」

   やっと唇が解放されてすぐに抗議の声を上げた。身体を反転させて睨みつけた先にはやっぱり誠士郎がいて、深めに被ったフードと長い前髪の隙間から控えめにこっちを見ている。
   知り合いに見られたらどうするの。人前で何考えてるの。言いたいことはたくさんあったのに、言葉に詰まる。その目がすごく、すごく寂しそうで、ぎゅうっと心臓を切なくさせられていると、距離を詰めた誠士郎に力いっぱい抱きしめられた。

「俺が間違ってた」
「せい、しろ」
「いくらでも謝るし、これからちゃんと報連相する」
「ちょっと、く、くるし…」
「隙なんて作んないで。ずっと俺のナマエでいて」

   ただでさえ強い力に気持ちが乗ってどんどん力が強くなる。いたい、痛い痛いさすがに痛い。「誠士郎、いたいよ」言葉が止んでから改めて名前を呼ぶと少しだけ腕が緩んだ。けど離してくれる気はないらしい。

「もしかして、さっきの聞いてたの…?なんでここにいるの?」
「……ライン見たあと、居ても立っても居らんなくて。駅で待ってたらすれ違わないと思って、迎えにきたら、見えた」
「そう、だったんだ…」
「それとも、もうあいつのほうが良くなった?」

   予想だにしていなかった行動の数々に呆気にとられたままでいたら、誠士郎の声がいっそう悲しげに細くなる。その声だけで、全部許したくなっちゃいそうだ。縋るみたいにまた力が強くなったから、今度は背中に腕を回して応えた。

「隙、作ってないよ。誠士郎が好きだから、誠士郎に誠実でいたいって言ったのも聞こえたでしょ」
「好きって言われて照れてたくせに」
「えっ、あー…いや、ええと」
「ほらやっぱそうじゃん」
「………」

   そんな細部まで見て、見抜かれているとは。狼狽えたことで指摘されたことを肯定してしまった。でも私が嬉しいって思ったのは、職場で評判のいい伊藤さんが私に好意を示してくれたからってだけじゃない。

「……誠士郎がめんどくさいって言ってきた部分だったから、ほかの人なら好きとか可愛いって思ってくれるんだなって…ちょっと嬉しかったのは認める。ごめん」

   素直に気持ちを吐き出すと背中に回っている腕がゆっくりと腰まで落ちていった。私も自然と腕を緩めて顔を上げる。前髪とフードの隙間から見える誠士郎の目は、さっきよりもずっとまっすぐこっちを見下ろしていた。

「めんどくさいって思ってない。俺のほうがナマエのそうゆうとこ好き。俺のほうが、可愛いって思ってる」
「……この前と言ってること違うよ」
「この前は、喧嘩になってイライラしてた。疑ってんのかなって、腹立った」
「あれは……別に疑ってた、わけじゃなくて」
「ん、分かるよ。俺も今そうだし。もしナマエが今日のやつ言ってくれなかったらって考えたら嫌だし」
「そうなの…?」
「うん。信じてくんないかもだけど、言うの忘れてただけ。俺にとってはどうでもよかったから。でもそれもごめん。全部、ごめん」

   誠士郎が背中を丸めて私の肩に頭を置いた。すり、すり、と前髪を擦り付けて甘えてくる。どうでもよかった、という言葉にすごく納得が出来た。
   合コンに参加したことも、ほかの人に好意を向けられたことも全部、誠士郎じゃないとだめなんだって再確認する材料になっただけだった。同僚二人の恋の行方はもちろん気になるけど、それ以上でもそれ以外でもない。

「私、誠士郎といていいの…?」
「いてよ。本当だったら今日一日中ナマエと二人でいたはずだったのに、こんな誕生日やだ」
「……私のほうこそ、ごめんね」
「……ん。いいよ」

   たくさんの『ごめんね』をもらったのに私はたったの一回なんて少なすぎるのかもしれないけど、顔を上げた誠士郎は安心したように口元をちょっとだけ緩めている。
   しかし何を思い出したのか、緩んでいたその口元がだんだんとへの字になっていく。

「……っていうか誰さっきの」
「あ、取引先の人だよ」
「は?またいつか会うってこと?」
「しっ、仕事でだよ仕事で!会社でね!」
「……あ。じゃあ仕事やめる?」
「あ、じゃないし。やめないよ」
「えー…」
「えーじゃありません」
「口説き落とされないでね」
「……落とされるわけないじゃん」
「ん。絶対ね」

   そう言いながら顔を近づけてくる誠士郎にはっとしてその口元を片手で抑えた。じと目になって手が邪魔だと訴えてきているけど、さすがにこれ以上公衆の面前ではいちゃつけない。「帰ったらね」と言いながら手を退けると、渋々といった表情で身体を起こしてくれた。

「コンビニでケーキ買おうよ。本当は作ろうとしてたけど、用意しなかったら何もなくて」
「んーん、大丈夫。今度作って」
「でも…せっかくの誕生日なのに。プレゼントも家に置いたままだし」
「何にもなくていいよ。何にもなくていいから、ナマエをちょーだい」

   何にもなくていい、という突き放された言葉に落ち込んだり怒ったりする暇もなくストレートに伝えられて、ぶわっと身体の体温が上がる。伊藤さんのスマートなふるまいなんて、申し訳ないことに比にならない。

「…わ、わかり、まし、た」
「ん。じゃあ早く帰ろ」

   おどおどした返事に構うことなく私の手を取って歩き出す誠士郎。ずっと背景と化していた駅の風景が再び目に入ってきて、誠士郎が来る前に比べると全然違って見えることに気がついた。

「誠士郎。お誕生日おめでとう」

   前を歩く大きな背中がとても愛おしくなって、今日ずっと言いたかったことを口にする。今日が、最後のおめでとうにならなくてよかった。私がそんなことまで考えてるとは知る由もない誠士郎はちらっとだけこっちを見て「あとでもう一回言って」と薄い唇で呑気に紡いだ。


Happy Birthday Seishiro Nagi !!!



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