※ 影山が高校二年生


おや?
とっぷりと辺りは暗くなっている。入社したての頃はこんなに帰りが遅くなるだなんて思っても見なかった。はあ。溜め息しか出ない。新人研修の三ヶ月を終えて俄然増えた残業による疲労に肩を落として歩いていると、数本先の街灯の下に数ヶ月前までほぼ毎日眺めていた、夜道に溶け込む真っ黒なジャージを見つけた。それにあのシルエットは。

「影山くんだー!」
「うおっ!?」

卒業するときに記憶に何度も刻んだ、ふたつ年下の後ろ姿。もちろん答えは大正解で、振り向くと同時に驚いた声が聞こえた。声も記憶と同じ影山くんのもの。最初は声をかけられて驚いた顔をしていた影山くんは、声をかけたのがわたしだと気づいてさらに驚いたようで、何度も何度も瞬きを繰り返している。

「は……?ナマエさん?」
「わぁ、久しぶりー!おっきくなったねー!」
「いや、そんな伸びてねぇッスけど……お久しぶりです」
「元気?学校?部活?帰り?自主練してた?日向くんは?一緒じゃないの?」

さっきまで肩にずしんと乗っかっていた疲労なんて、影山くんとの再会で吹っ飛んでいった。それどころかテンションがひたすら上がってしまって思わず頭に浮かんだ質問を全て並べると、圧倒されたらしい影山くんが困った顔をしている。おっと、いけないいけない。落ち着かなければ、と口元を抑えれば影山くんがきょとんとしたまま口を開いた。

「なんつーか、相変わらずですね」
「ご、ごめん。影山くんに会えたから嬉しくって、つい」
「えっ、あ、あざッス」

ストレートな言葉に弱いのは未だ健在のようで、影山くんから動揺が見えた。様々な箇所から怖いと言われる影山くんだが、先輩のわたしからしてみれば素直で可愛い後輩なのだ。狼狽える彼の可愛さに耐えきれずニヤけてしまう。
烏野高校を卒業したのは約三ヶ月前、男子バレー部のマネージャーを引退したのはもう少し前。卒業ギリギリまで部活にはお手伝いに行ってはいたけれど、卒業してからは本当にどの部員にも会っていなかった。潔子ちゃんや澤村くんたちとも連絡は取っていたが、お互い新生活がスタートしたため会いたいね、と話題には出るもののなかなか叶えられずにいたのだ。しかしそれを、まさか影山くんに叶えてもらえるとは。嬉しいかって?嬉しいに決まってる!抑えきれない歓喜を顔いっぱいに包み隠さずに出す。そんなわたしにつられているのか、どことなく影山くんの表情も思い出の中より優しい気がした。

「みんな元気?日向くん元気?」
「はい。日向は元気っつーか、うるさいですけど」
「そっちも相変わらずだね。あ、一緒に帰ってもいい?」
「うス。ナマエさんの家ってこっちでしたっけ?」
「今ね、一人暮らししてるの。公園の近くのアパートだよ」
「えっ、大丈夫なんすか?飯とか」
「ちょっとそれどういう意味?合宿のときに美味しいカレー作ってあげたのはわたしだよ?」

正確に言うと潔子ちゃんとわたしと武ちゃん先生だけど。わたしだってみんなが美味しい美味しいと言って食べたカレーに少なからず貢献しているのだから、そこは疑わないでほしい。

「ナマエさんのカレー美味かったです」
「でしょ?今度良かったら食べに来なよ!腕によりをかけて作るよ!」
「えっ、いいんすか!」
「うん。日向くんとかも誘っておいで」
「お、おッス!」
「わぁ楽しみ!……あ、けど最近忙しいから、またこっちから連絡するよ」

せっかく褒めてもらったところ申し訳ないのだが、ここ最近の連なる残業のせいでまともにご飯を作っていない。それどころか夕飯はパンひとつとかおにぎり一個とか、不摂生な夕食が続いている。研修が空けたら一人暮らししても良し、とお母さんからやっとの思いで許諾を得たのになぁ。そんな愚痴を漏らすと影山くんは少し不満そうな顔をする。

「ちゃんと食ったほうがいいッスよ。そんなに忙しいんですか」
「ね、わたしもびっくりしたよ。今の時期だけ、って先輩は言ってたけど」
「……あんま無理しないでください」
「うん、ありがとう影山くん」

大変だけど頑張らないとね、と明るく振舞ってみせる。影山くんの表情は、不満というより心配といった感じだ。後輩にこんな顔をさせるなんて情けない。今日影山くんに会えた喜びを糧に頑張らなければ!そう心の中で自分を叱咤していると、頭にぽふんと重たいものが乗せられた。

「えっ?影山くん?」
「そんな気張んなくても、ナマエさんなら大丈夫だと思いますけど」
「…ま、待って、影山くんストップ」
「いつも頑張ってるの知ってますから」

頭に乗っかった影山くんの手のひらと一緒に降りかかる温かい言葉たち。あの影山くんの優しさのオンパレードに締め切っていたはずの涙腺がぐらぐらと緩みかける。嘘も迷いもない言葉というのはこんなに心に刺さるものだっただろうか。いかん、これはだめになるやつだ。目元に溜まる涙をギリギリのところで塞き止める。

「や、やめてよぉ、今弱ってるんだから、そんなこと言われたら」
「俺の前でくらい弱音吐いてもいいんじゃないッスか。先輩とか、年下とか、もう関係ないと思います……多分」

誰だろう、彼をこんなにかっこよく育て上げたのは。しかし多分と言っちゃうところがまた影山くんらしい。鼻を襲った切ない痛みに逆らうことなく、目に滲んだものをぼたぼたと溢した。影山くんの前どころか、後輩の前で泣くのなんて嬉し涙か悔し涙だけだったのに。ビクッと揺れた頭の上の手のひらが驚きを露わにしていたけど構ってなんていられない。情けなく涙を流して、嗚咽を漏らしている間、影山くんは何も言わずにずっと頭を撫で続けてくれた。ありがとう。あたたかいよ、全部。
ひとしきり泣いて落ち着いてから「もう大丈夫、ありがとう」と言ってまた並んで歩き出す。まだ心配そうな表情は抜けていなかったようにも見えるけど、納得はしてくれたようだ。それにしても、影山くんはあんまり伸びてないって言ってたけど、改めて見上げるとやっぱり大きくなったと思う。何度も見上げたその姿に改めて懐かしい気持ちになった。

「残業出来てちょっとラッキーだったかも」
「泣いてたのにッスか」
「なんで突然デリカシー無くなるかな」

今度はさっきと正反対の意味で胸にぐっさりと刺さった。なんて恐ろしい子。どうせ無自覚なんだろう、影山くんは頭の上に疑問符を浮かべており、さっきまでのギャップがなんだかおかしくて笑ってしまいそうになる。けど今なら、今だけなら去年秘め続けていたものも一緒に吐き出しちゃってもいいだろうか。

「わたしね、高校のとき影山くんのこと好きだったんだよ。結局卒業するまで言えなかったんだけどね」

えへへ、なんて誤魔化してみる。だっていくら過去形とはいえ、告白をして平常心でいられるほど肝は座っていない。すっかりご無沙汰していた気持ちにふわふわと足が浮くような気分になる。………しまった、恥ずかしくなってきた。何も言われないのをいいことに、このまま話題を変えようと顔を上げると、影山くんが口を開けた。えっ、なに、その顔。

「俺は、今でも好きです」

部活の練習中でもバレーの試合でも廊下ですれ違ったときでも、見たことのない顔をした影山くんがいた。

「会えて嬉しかったのは、俺の方、ッス」

思考はストップするのに、歩く足は止まらない。真っ白になった頭の中をわたしとヒールと影山くんの足音だけが鳴り響いている。考えて考えて考えて「えっ、あの、嘘?」やっと出た言葉はこれだった。我ながらひどいと思う。影山くんは案の定睨んできたけれど、顔には赤みが差している。

「……こんな嘘ついてどうすんですか」
「確かに、うん、そうだよね」
「好きでもない女の頭なんて撫でません!」
「ごもっとも!」

なんて頷いている場合ではない。嘘じゃないことくらいもうとっくに分かっているのだから。けどどうしよう何か、と言葉を探していると。

「明日も、今日会ったとこらへんで待ってるんで、その時に返事お願いします。あと、出来れば俺一人で、ナマエさんちお邪魔したいです」

そう言って背を向けた影山くん。ハッとして辺りを見ると、もうアパート近くの公園まで来ていたことに気づく。ねえ、それって明日も一緒に帰ってくれるってこと?待って、ごめんね、明日までこの気持ち我慢できそうにないや。逃げるように駆け出しかけた影山くんのスポーツバッグを思いっきり引っ張って、思い出の中にしまい込んだ気持ちをそのまま吐き出した。だってわたし、明日も君に会いたいよ。



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