1.
「お疲れさま。ミョウジさんこのあと飲みにいかない?」
一時間の残業を終えてやっと手を休めると隣の席の先輩に声をかけられる。今日はなんといっても華の金曜日。明日は土曜日で仕事は休み。是非、と返事をしようとするとあっという声に遮れてしまった。
「ああ。でもミョウジさん金曜日はお迎えきてるよね」
「へ?いえ、あれは」
「ナマエの彼氏さん、華金はいっつも迎えにきてるよね〜」
「あ、やっぱり彼氏なんだ」
「ちがいますよ!あの人はただの!」
「照れるな照れるな」
ひょっこり現れた同僚に茶々を入れられて、先輩と二人揃ってにやにやと口元に手をあててこちらを見る。ガード堅いんだね、なんて。言われたってちっとも嬉しくない。挙句に「じゃあ早く行ってあげなきゃね。片付けはわたしに任せなさい」と気を遣ってくれた先輩に背中を押されて、渋々会社をあとにした。
なんだってわたしがこんな目に遭わなきゃいけないんだ。せっかくのお誘いを受けたことは同僚に比べてかなり少ない。かといって人間関係が拗れたりしないのが不幸中の幸いといったところだけど。
「おかえりナマエ」
ああもう。全部この男のせいだ。
「…おそ松兄さん」
「ええ。なに?なんで怒ってんの?」
「別に怒ってません」
「どう見たって怒ってんじゃん。なんか嫌なことでもあった?」
嫌なことなら現在進行形で起きている。今日も今日とて会社の先で待っていたおそ松兄さんを睨みつけると、疑問符を浮かべていた兄さんは何かを思いついたようにハッとした顔になった。かと思いきや一瞬で口を尖らせる。
「また飲みに誘われたんだろ。断われって言ってるじゃん」
「飲みに行くのもお付き合いなの!」
「彼氏が待ってますぅ、っていえば良くない?」
「そんな言い方しません!っていうか彼氏じゃないし!」
「可愛い妹の貞操を守るのもお兄ちゃんの役目なんですぅ」
「てっ…」
人の会社の前で何言ってんだこの人は。突然発せられた言葉に身体を強張らせる。するとそれにすばやく気づいたおそ松兄さんはニタリと微笑んで、わたしの頭に手を置いた。
「あれ〜?ナマエってばエロいこと考えちゃった?」
「……っ馬鹿!」
「いってぇ!!」
バチン!!と鈍い音が周囲に響く。両頬をさすっているおそ松兄さんを置いてスタスタと歩きはじめる。「叩くことなくない!?」とかなんとか聞こえるけど無視だ無視。昔っから本当に馬鹿。デリカシー無い。心中で兄さんの愚痴を並べていると腕を突然ぐっと後ろに引かれた。
「一人で帰んなって。危ないだろ」
きょとん、としていると真横を酔っ払った男の人数名通り過ぎる。もしあのまま歩いていたらぶつかっていたかもしれない距離だ。
「…ごめんなさい」
「お兄ちゃん超痛かった!罰として今日は俺の分の晩飯もよろしく」
「は?」
「一人分増えたって変わんないって」
「…しょうがないなぁ」
「よっしゃ。俺ナマエの手料理すっげー好き」
もういつもの呑気なおそ松兄さんに戻ってて「はやく帰ろうぜ」と手を引かれて急かされる始末。さっきはあんなに真剣な顔だったのに。鬱陶しい。けど憎めない、それがおそ松兄さん。
2.
血の繋がりがないのに兄さん、なんて呼ぶのは他人からしたらおかしな話かもしれない。けど長いこと呼んでいたのに今更変えるのもなんだか不自然な気がして、二つ年上の幼馴染をわたしは兄さんと呼んでいる。
その中の一人がおそ松兄さんだ。おそ松兄さん以外にもわたしにとって兄と呼べる人があと五人いて、小さい頃から可愛がってもらってるけど思春期やらなにやらあって少しだけ距離が出来た。仲が悪くなったなんてことは全然ないけど、こうして執拗に構ってくるのはおそ松兄さんだけ。
金曜日に迎えに来るのは本人曰く酔っ払いが多くて危ないから、らしい。やめてほしいと何度言っても聞く耳を持ってくれなくて、毎週飽きずに会社の前までやってくる。
「ねぇ片付けまだ終わんないの〜?」
そんなおそ松兄さんは現在、わたしの自宅の居間でテレビを見ながら転がっている。
「あとちょっと。おそ松兄さんテーブル拭いといて」
「ええ。めんどくさ」
「働かざるもの食うべからず、です」
「もう食ったあとだし」
「いいから拭いて」
「へーい」
渋々といった様子でテーブルを拭き始める。普段ニートなんだからこのくらいの労力使ったって損はしないでしょ。洗い物を一通り終えて冷蔵庫からビールを取り出す。おそ松兄さんにねだられて帰りに買ったものだ。それを居間に持っていくと待ってましたと言わんばかりのおそ松兄さんがいる。と思っていたんだけど。
「おそ松兄さんどうしたの?」
ビールには目もくれず、おそ松兄さんはスマホに目が釘付けだった。珍しいっていうか兄さんスマホ持ってないし。
「あ、ちょっと!人のスマホ勝手に」
「誰これ?先輩って〜?」
ずいっと先輩とのライン画面を目の前に差し出される。誰と言われても登録されてある名前の通りとしか言いようがない。返してもらおうと手を伸ばすと兄さんは意地の悪い顔をしてふいっとそっぽを向く。
「先輩って会社のひと?」
「そうだけど…」
「今度二人でご飯ってなに。お兄ちゃん聞いてないんだけど!」
「わざわざ言わないよ、そんなこと」
「ふうん…青い春でもきちゃったってわけ?」
「はあ?」
さっきからなんのことを言ってるんだろう兄さんは。次々と疑問が浮かぶ。
「…ご飯行く予定はいつ?」
「来週の金曜日。だから来週は迎え来ないでね。先輩が車で送ってくれるから帰りは大丈夫だよ」
相変わらずビールに目もくれないおそ松兄さんは、どこで覚えてきたのやら慣れた手つきでスマホを操作している。そろそろ返してほしいというか何してるんだろう。スマホにちらりと覗き込むと先輩とのラインの画面を未だに見ているようで、それからおそ松兄さんは迷わず削除をタップした。え。
「えええ!おそ松兄さん何してんの!」
慌ててひったくってトークを確認する。あまりに突然すぎる出来事が信じられなくて上へ下へとスライドさせても先ほどの先輩の名前はない。わなわなと。身体を震わせながらおそ松兄さんを見ると口をむっとさせながらビールに手をかけていた。
「何って消したんだけど」
「消したんだけどじゃないよ!なんで消しちゃうの!」
「だってナマエが俺の迎えいらないって言うからさぁ。お兄ちゃん寂しくて」
「だからって…」
いやいやおかしいでしょ。普通消さないでしょ。迎えに来ることもそうだけど過保護にも限度があるだろう。それよりさ、とへらへらししながら話題を変えようとするおそ松兄さんにカッと頭が熱くなる。
「おそ松兄さんの馬鹿!なんでそんなひどいことするの!もう来ないで!」
「は?」
こみ上げるものをヒステリーにぶつけると、間髪を入れずに非難の声が聞こえる。非難、というには大袈裟かもしれないけど、あの六つ子を束ねている長男がたった一文字を真顔でぶつけてくることはこちらを否定している以外の何者でもない。しかしおそ松兄さんのしたことが許せるわけでもなく、負けじと瞼の中から滲んでゆく視界で懸命に睨みつける。
「馬鹿はお前のほうじゃん」
深い溜め息が聞こえた。おそ松兄さんはビールを片手に立ち上がって、じゃあなともまたなとも言わずにわたしの部屋を静かに出て行く。ガチャン、とドアの音が聞こえるとタイミングよくラインの通知が鳴る。…先輩からだ。内容は現在行われているであろう飲み会の写メと「来週大丈夫?」の文字。謝らないといけないな、とスマホを手にとる。
3.
約束の金曜日。ごめんね、と謝ったのは先輩のほうだった。単身赴任の旦那さんが連休を利用して帰ってくるらしい。せっかくの機会を邪魔してはいけないので、それじゃあまた日を改めてということになった。あれからおそ松兄さんとは会っていない。かといって今までも週一でしか会っていないのに、今週はやけに長く感じた。忙しかったからかな、と自己完結しているとピコンとスマホに通知が表示される。
『ナマエの彼氏また迎えにきてるよ〜』
同僚からの茶化しのライン。またか、と肩を落とした反面でどこか安堵している自分がいる。理由なんて分かりきってる。のんびり進めていた手を早めて急ぎ足で外へ駆け出れば、そこにはいつもの影がわたしを見つけるなりそっと片手をあげた。あれ?
「え?あ…カラ松兄さん?」
シルエットはまったく一緒だけどそこにいたのは松野家の二番目の兄だった。確かに、同僚からしたらカラ松兄さんとおそ松兄さんは見分けがつかないんだろう。
「待ってたぜ……マイリトルシスターナマエ」
「…人違いです」
「オゥ、何故!?」
バチンとウィンクを決める兄さんの隣をわざと通り過ぎると「ウェ〜イト!」なんて情けない声が聞こえて足を止める。カラ松兄さんのこういうところはおそ松兄さんより厄介だと思う。会社の前で大きな声を出さないでほしい。渋々振り返るとカラ松兄さんは飾らない表情でへらりと笑った。
「久々に飲みに行こう。チビ太のとこでいいか?」
「うん。いいけど、あの、カラ松兄さん」
「ナマエはいつもこんな時間まで仕事なのか。結構暗くなるまで働いてるんだな」
「これくらい別に普通だよ」
「普通か。おそ松が心配するわけだ」
…なにそれ、とぼそりと呟いても返事はない。それっきりカラ松兄さんはチビ太さんの屋台着くまで、おそ松兄さんのことには一切触れなかった。
4.
「おそ松が迎えに行けってうるさくてな」
お酒が随分進んでから、麦茶を片手にしたカラ松兄さんはようやっと口を開いた。「ゆっくりしてけよぉ!」と快活に笑って出迎えてくれたチビ太さんは座ったまま首をカクカクと上下させて、すっかり夢の中だ。
「それで来てくれたの?」
「まあそれもあるが。ナマエとしばらく会ってなかったからな」
「そうだね。最後に会ったの、兄さんたちの誕生日のお祝いのときだっけ」
「もうそんなになるか」
今年の兄さんたちの誕生日はどうしても仕事が抜けられなくて、毎年当日にお祝いしていたから別の日にお祝いしたのは初めてのことだった。そういえばおそ松兄さんだけ、金曜日でもないのにわざわざ会社まで来て「プレゼントくれよぉ」って言いにきたっけ。良くいえば素直だけど、どちらかというとがめつい。
ひとりで思い出して呆れていると、パチンッとカラ松兄さんの指が鳴る。
「ここでナマエにいいニュースを教えてやろう」
「…どうしよう。嫌な予感しかしない」
「そう言わずに聞いてくれ」
「ええ」
「俺はナマエのオフィスの場所を初めて知った」
ぽかんと口が開く。入社してもう数年経っているのにまさか。そう思ったけどカラ松兄さんの顔を見たところ本当らしい。
「おそ松が俺たちには知られたくなかったんだろう」
「なんでおそ松兄さん?」
「ナマエを虜にしたいからに決まってるさ」
フフン、と鼻を鳴らすカラ松兄さんに何も言えなくなる。おそ松兄さんがわたしを虜にしたいなんて、そんなくすぐったいことあるわけがないのに。おかしなカラ松兄さん。呆れて溜め息を吐くと「やはりここはこの俺が、二人の赤い糸を結ぶキューピッドにならなければいけないな」なんてことを言い始める。キューピッドってまるでそれじゃあ、わたしとおそ松兄さんが恋をするみたいじゃないの。え。
「カ〜ラ〜ま〜つぅ」
いつの間にかおそ松兄さんがカラ松兄さんの背後から顔を出した。いきなり登場したおそ松兄さんに目を白黒させていると、しれっとした様子でカラ松兄さんは「遅かったな兄貴」と返す。遅かったなとは。まるでおそ松兄さんが来るのを待ってたみたいな言い方だ。
「遅かったな、じゃねえし!何してんのお前!?」
「お前に言われた通りにナマエを迎えに行ったんだが」
「迎えに行けとは言ったけど飲みに誘っていいとは言ってない!」
「ン〜?誘っちゃいけないとも言われてないぜぇ?」
「てンめっ…この野郎表出ろ!」
「もうここは表だぞおそまぁ〜つ」
今にもカラ松兄さんに掴みかかりそうなほど怒りに満ちているおそ松兄さん。状況が全く読み込めない。オロオロと二人を交互に見ると、目が合ったのはカラ松兄さんのほう。すると何故だかフッと微笑まれた。訳が分からない。
「…帰るぞナマエ」
「ええ?でも、カラ松兄さんは」
「いいから帰んの!俺と!」
「ナマエまた今度、俺が迎えに行った時にな」
「誰が行かせるかよぶわぁーーーか!!」
5.
あっという間に手をとられてバタバタとチビ太さんの屋台をあとにする。せっかく誘ってくれたカラ松兄さんにもご馳走してくれたチビ太さんにも申し訳ない気持ちになる。多分カラ松兄さんだけじゃお勘定足りないんじゃ、と考えていると突然おそ松兄さんが立ち止まる。
「お前もなんでホイホイついてってんの」
「いやだってカラ松兄さんだし…」
「カラ松じゃなくてもついてくわけ?」
「は、はぁ?」
さすがにおそ松兄さんの気持ちが汲み取れない。そもそもカラ松兄さんに迎えに行くように言いつけたのは兄さんのほうなんじゃないの。なのにどうしてカラ松兄さん相手に焦った顔するの。どうして、あんなに息を切らせて来てくれたの。
「…おそ松兄さん、何考えてんのか分かんない」
「……」
「腕、離して」
「…やだ」
「やだって、ねえ、痛いよ」
「やだっつってんじゃん」
「なんで…」
「じゃあ逆になんで分かんねえの」
いや普通分かんないって、とは言えなかった。そんな雰囲気じゃない。もしさっきカラ松兄さんの言っていたことがそういう意味だったんなら、おそ松兄さんが怒ってる理由も街灯に照らされてる耳がチラチラ赤く見える理由も合点がいく。…ええと。
「お友達からとか、どうですか」なんか言わなきゃ、と思って出てきたのがコレだった。自分でも何言ってんだと思う。それはおそ松兄さんも同じだったみたいで、ぱちぱちと瞬きしてからブハッと吹き出した。
「何年一緒にいたと思ってんだよ。今さら友達とか、ぶくくっ…」
「そんなに笑わなくてもいいでしょ!それじゃあ、ううん…」
「ナマエさぁ分かってる?それって俺のこと好きって言ってんのと変わんないよ?」
コンマ数秒置いて、ハッと気づく。ひえ、と変な声が出た。
「じゃあ、待って。今のなしにする」
「ハーイ無理無理!返品不可だからぁ」
撤回もさせてもらえない。何か言おうにも頭のなかが空っぽになってしまって言葉が出てこず、出来たことといえば俯くくらい。
「期待するよ?俺、今すぐじゃなくてもお兄ちゃん卒業出来ちゃうって思うよ?いいの?」
おそ松兄さんの声がいつもより何倍も近い距離から聞こえる。それだけで身体が熱くなるには十分だった。たまらなくなって俯くけど何も言葉が出てこない。
「…否定しろよ」
「…しないよ」
消えちゃいそうなか細い声だった。聞こえたかどうかすら怪しいけど、手で顔を覆った兄さんを見てすぐに分かる。否定はできなかった。だって今こうなっちゃってるのも恥ずかしいのもおそ松兄さんのこの反応も、全部現実に起こってることだから。今度はおそ松兄さんがだんまりする番だった。
「おそ松兄さん…?」
「ちょっとタンマ。やばいから」
おそるおそる名前を呼ぶと兄さんはお馴染みの癖で鼻の下を擦る。距離感はいつもと一緒。ぽっぽっと火照っていた身体が夜風に静かに冷めていくが分かって、歩き始めたおそ松兄さんのあとをついていく。この道はわたしがおそ松兄さんといつも帰る道だ。
「てか腹減った!なんか作って!」
「ええ。もうおでん食べたよ」
「俺は食ってないし。てか先輩は?飯は?」
「旦那さんが帰ってくるんだって」
「ふうん…は?旦那?」
「単身赴任してたらしいよ」
「いやそこじゃねぇし!」
家になにか残ってたかな。ぼんやりと考えていると大人しくなったはずの兄さんがまた声を荒げる。今度は一体なんだと言うんだ。
「旦那ってどゆこと!?先輩って、は?女の人?」
「そうだよ?」
「もっと早く言いなさい!」
なんで怒ってるんだろう。ぽかん、と口を開けていると指と指の間におそ松兄さんの指が絡んできゅっと握られる。びっくりして思わず手を引こうとするとダメ、と制止をかけられる。
「お前がそんなんだから俺が苦労すんだよぉ…」
「苦労してんのはわたしのほうだと思うんだけど」
「とにかくこれ、罰だから。着くまでぜーったい離しちゃダメだかんね」
「訳わかんない!恥ずかしいし、離しておそ松兄さん…」
「今繋いでるのはお兄ちゃんじゃありませーん!」