昨日、ハルと喧嘩した。

   喧嘩の理由は、最近ハルがモテるから。水泳部が出来て地方大会に出場して以来、今まで見向きもしなかった女の子たちが何人も「七瀬くんってかっこよくない?」と言い始めた。優しく人当たりの良い真琴が男女共に人気なのは今に始まったことではないけれど。ちくしょう、今まで誰がかっこいいか聞かれて私がハル一択と主張しても聞く耳を持たなかったくせに。それがむかついてつい八つ当たりしてしまったんだ。どうゆう訳か本人に。理由も言わず。我ながらかっこわるいと思う。
   ホームルームが終わり、のろのろと帰り支度をしていると、さっさと準備を終えたらしいハルが荷物を下げて前を通る。

「あっ……ハル!」

   すぐに声をかけたけれど、聞こえてなかったのか聞こえてないフリだったのか、ハルはスタスタと早足で教室を出て行ってしまう。分かってる、百パーセント私が悪いって。改めてきちんと謝りたいのにな、と肩を落とすと真琴が心配そうに顔を覗いてきた。

「ナマエは傘持ってきた?」
「あー……置き傘あるはずだから大丈夫だよ。真琴はハルと一緒に先に帰って」
「いいの?」
「うん。明日ちゃんと謝るから」

   外は土砂降りとギリギリ呼べないくらいの雨がザーザーと降っている。水泳部の練習は休みになったと昼休みに真琴から聞いた。ハルと私が喧嘩をするのは全然初めてではない。その度に真琴に心配をかけていることは本当に申し訳ないと思う。教室を出るまで心配そうにこちらを見ていた真琴を、ひらひらと手を振って見送った。
   適当に携帯を触って十分ほど時間を潰してから昇降口へと向かう。きっとこれだけ時間を置けばハルも真琴も帰ったはずだ。真琴にはああ言ったけど、実は置き傘はこの前の急な雨で持って帰ってしまっていたのだ。さて、どうしようかとローファーに履き替えてからぼうっと雨空を見上げる。

「ナマエ先輩?」
「ん?あ、怜くん、お疲れ様」

   呼ばれて振り返ると、そこにはハルと真琴の後輩である怜くんがいた。お疲れ様です、と丁寧に返されたかと思えば、じいっと観察されるような目で見られる。

「傘持ってないんですか?」
「濡れて帰りたい気分なんだよ」
「持ってないんですね」
「だから違うって」
「変な意地張らないでください」
「うぐう!!」
「えっ!?ど、どうしたんですか!」
「良心が痛んだ……」
「い、意味が分かりません」

   喧嘩について言われてるわけでもないのに、その言葉がぐっさりと胸に刺さって悶えていると、隣に並んだ怜くんが目の前でばっと傘を広げた。羨ましくなんかない、決して。濡れて帰りたい気分というのは嘘ではないからだ。半分は、だけれども。

「じゃあ帰りましょうか」
「へ?」
「ナマエ先輩の家まで送りますよ。風邪を引かれたら困りますから」
「れ、れ、怜くんは本当にいい子だな…!!」

   遠慮なくお邪魔します、と怜くんが空けてくれたスペースに入りこむ。いつもは傘を忘れたらハルか真琴が入れてくれるから、怜くんの隣というのはなんだか変な感じだ。ハルの隣よりは緊張はしないけど。

「そういえば、遙先輩たちとは一緒ではないんですね」
「今それ良心が痛みます」
「またそれですか………もしかして、遙先輩と喧嘩してます?」
「してません」
「すごい勢いで目逸らすじゃないですか。嘘つかないでくださいよ」

   見破るのか早すぎるぞ怜くん。少しは先輩をたてて、虚勢くらい張らせてほしいものだ。

「……周りの女の子たちがハルにちやほやすることに八つ当たりして怒らせただけだから、喧嘩じゃないよ」
「ああ、それでさっき、」
「やめて!言わないで!反省してるのすごく!」
「なら余計にですよ。変な意地張らないで、好きなら好きってはっきり言ったらどうですか?」
「言えたら苦労してないよ」
「言えなくて苦労してるじゃないですか」

   ぐうの音も出ないとはまさにこのことか!と明るく考えてみる。考えたみたけれど、どうしたって通り過ぎていくハルが頭には浮かんできてしまう。そうだ、言えたら苦労してない。ずっと言わなきゃ、言いたいって思ってるのに、ハルの前だとちっとも素直になれやしない。それどころか変な意地を張ってばかり。本当に怜くんの言うとおりだ。

「………本当に好きだから、大好きだから、簡単に言えないんだよ」

   あ、やばい、泣きそう。
   そう思って俯いたとき、気づけば腕を攫われて、怜くんの傘から飛び出していた。そこを出ればすぐに冷たい雨を頭から被って、目から溢れ出たあたたかい水とすぐに一体化する。

「うわっ!えっ、ちょ、ハル!?なにっ、!」

   自分の腕を引いているのがハルだなんて、後ろ姿だけですぐに分かる。呼びかけても返事はなく、バシャバシャと水に濡れた地面を蹴って、ひたすらハルの足が止まるのを待つことしか出来ない。せめてと思って一度振り返った先、置いてきてしまった怜くんの隣には真琴がいて何やら話をしていたけど、もちろんここまで声が聞こえてくるはずはなかった。



「……え…っと、」
「…………」
「………ハル…?どうしたの?」
「…………」

   海沿いの道まで来たところで水を弾く音が止み、私たちの周りは雨がコンクリートの地面を叩く音だけが包んでいる。足が止まっても、腕はハルにつかまったまま。声をかけてみても返事はなく、振り返ってくれる気配もない。

「風邪引いちゃうから、帰ろう?体調管理はちゃんとしなきゃダメだよ。部活もあるんだし」
「…………」
「……ねえ、ハルってば」
「…………なのか、」
「え?なに?」
「ナマエは怜が好きなのかって聞いたんだ」

   ようやく口を開いたかと思えば脈絡があるのかないのか分からない質問を投げかけられた。振り向いてくれないので表情は窺えないけれど、声の調子的に機嫌は良くないように感じられる。

「好きか嫌いかだったら、もちろん好きだよ。ハルと真琴の大事な後輩でしょ」
「そうゆうのじゃない」
「そうゆうの?」
「さっき言ってただろ。本当に好きだって」

   ようやく振り向いたハルと本当に好きだというワード、それからさっきの話を聞かれていたことへの焦りやら何やらのトリプルパンチで心臓が飛び跳ねた。さっきの質問はそうゆうことだったのかと合点がいく。

「……あ、あれは、ち、違くて」
「何が違うんだ」
「ええ、と……ハルは、なんで怒ってるの?」
「怒ってない。話を逸らすな」
「いや怒ってるよ……」
「………」
「………」

   しばしの沈黙が私たちを包む。重たい沈黙、重たい制服、重たい空気。ただでさえ居た堪れないのに、重たい重たい溜め息を聞こえてきてさらに悲しくなった。やだなぁ、帰りたいなぁ、駄々をこねる子どもみたいな我儘で頭の中がいっぱいになる。

「怜にナマエの彼氏は無理だ」
「はあ」
「理由も言わずに八つ当たりしてくるようなヤツ、無理だろ」

   スパンッ。心臓をナイフで真っ二つに切られたみたいな気分だ。そんなこといちいち言われなくても分かってる。ああもう、もっと素直になっておけば、ハルのことを好きにならなかったら、こんな気持ちにならなくて良かったのかな。無理だなんて、ハルの口から聞きたくなかった。今さらそんなタラレバを頭のなかで並べたところでどうにもなりはしない。本当にもう、帰りたい。逃げ出したい。

「だから、ナマエの彼氏は俺じゃないと無理だ」

   一瞬、雨がやんだかと思った。

「俺なら八つ当たりされても、喧嘩しても、絶対嫌いにならない。ずっと好きでいられる。もし怜がナマエを好きだとしても、俺のほうが好きな自信がある」
「………え…あ…」
「だから、俺にしろ」

   雨は全然やんでなくて、ほんの数秒聞こえなくなった雨音が耳に戻ってくる。ハルの爆弾発言を引き連れて。

「……ナマエ。話聞いてたか」
「えっ、あ、き、聞いてた!きいてた、聞いてる、けど、」
「………やっぱり怜が好きなのか?」

   状況が飲み込めずに大人しく雨に打たれたままになっていると、ハルがさっきまでの強気な態度を一変させて細い声を出す。繰り返される二度目の質問、今度はさっきと違う受け取り方をして首を横に振った。じゃあ、と口を開くハルの言葉を遮る。

「ハル、私のこと、好きなの…?」

   一番気になっていることを率直に口にした。身体のどこにも力が入らない。たぶん顔はぽかんとだらしなくなっているんだと思う。そんな私とは対照的に、普段表情のレパートリーが少ないハルの口元はむすりとしている。

「そうじゃなかったら、今こうなってないだろ」

   鈍感なのも大概にしろ、なんて。ハルにだけは言われなくないのに。さすがに耐えきれずにふふっと笑えば「笑いごとじゃない」と凄まれて、ぽつぽつと文句をこぼすように言われる。仲直りしろって真琴に言われるのは俺のほうなんだとか。その話をしていたら部活のことで天方先生に職員室に呼ばれてたとか。帰ろうとしたら私と怜くんが二人でひとつの傘に入って帰ろうとしてたとか。それだけでも嫌だったのに声をかけようとしたら話し声が聞こえてきて、いてもたってもいられなくなったとか。
   珍しく口数の多いハルの話をうん、うんとひとつずつ相槌を打ちながら大人しく聞いていた。というよりは飲み込むのに精一杯でそれくらいしか出来なかった、が正しいかもしれない。言いたいことを出し尽くしたらしいハルが静かになったのを見て今度こそ自分から口を開いた。

「ハル、八つ当たりしてごめんね」
「………それは、もういい。なにかあったなら、ちゃんと口で言え」
「うん。言うね。ハルが女の子にモテるようになったから、やきもち妬いてたの」

   なにか、の部分を簡潔的に伝えた。私の言葉を聞いたハルがひとつふたつと瞬きをする。なんのことだか分からないと言いたいような顔だ。

「身に覚えがない」
「ハルになくても私にはあるよ!ありまくりだよ!ハルが水泳部作って地方大会出てから、クラスの女の子とかみんな言うんだもん。ハルのことかっこいいって」

   私のほうがずっと、ずっと前から、ハルがかっこいいこと知ってるのに。今まで素直になれなかった数年が嘘みたいに、口からは正直な気持ちがこぼれ落ちる。言ってから恥ずかしくなって視線を地面に落としたけど、もう逃げ出したい気持ちが無くなっていることに気がついてもう一度ハルを見上げた。逃げたいどころか、このままじゃ帰れないとまで思っている。

「ナマエ、俺のこと、好きなのか」

   信じられないようなものを見る目でこちらを見るハルにまた少し笑ってしまった。今度は凄まれたり睨まれたりせず、青い瞳はむしろ期待を孕んでキラキラしているようにも見える。

「そうじゃなかったら、今こうなってないんでしょ?」

   二人してびしょ濡れになって、何やってるんだろうね。そう言ってへらへらと笑えば、ずっと腕をつかまえていた手がそっと降りて私の手を握る。ようやく口元を緩めたハルが優しく微笑んで「そうだな」と言った。いつの間にか弱まっていた雨はまだまだやみそうにないけど、濡れた服はどうにかしなければいけないけど、暗い気持ちはもうどこにもいない。



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