※遙の双子
※恋愛要素なし
「やっぱりここにいたんだ」
ザリ、と近くで地面が音を立てる。すっかり暗くなって星を貼り付けている空から降る月の灯りだけで照らされている人物は、振り向かなくても声だけで分かる。予想をせずとも無意識に彼だと思い込んだ頭で振り返れば、やっぱりそこには幼馴染がいた。
「……真琴」
「ナマエが帰ってないって、ハルが言ってたから、ここじゃないかと、思って」
途切れ途切れになっている台詞からは走ってきたということが読み取れる。頼んでもないのに、と捻くれた自分が顔を出したけれど、口に出すこともせずに真琴から目を逸らして目の前に広がるフェンスに目を向けた。
フェンスの向こうには岩鳶中学校のプールがある。私の片割れが競泳を辞めると言って去った場所。私が劣等感に苛まれ続けた場所。あの子はすごいのにね、あの子が残ってくれたら良かったのにね、と囁かれ続けた場所。
「帰ろう。ハルが心配してる」
「心配しないよ、ハルちゃんは」
「じゃあ俺が心配だから、帰ろう?」
「……もう少ししたらちゃんと帰るから」
今はまだ帰れない。だってぐずぐずになった鼻は赤くなって熱を持ってるし、十分すぎるくらいに潤ってしまった目だってきっと充血したままだ。こんな顔をあの子に見られるわけにはいかない。
「分かったよ」
そう言った真琴がまた地面の音を立てる。その音は遠くなって離れていく、はずだったのに、予想に反してその音は近づいてきた。かと思えば私の隣で止まる。
反射的にばっとそちらを向くと、いつもどおり、真琴が穏やかな顔で立っていた。ようやく目を合わせればふわりと微笑まれて、それからも逃げるようにまた目を逸らした。ゆっくりとした風にプールの水面が揺らめいているのが見える。
「真琴は帰りなよ」
「別にナマエのこと待ってるなんて言ってないだろ?俺も懐かしいなって思ってるだけ」
「じゃあ私がどっか行く」
「じゃあ俺もどっか行こうかな」
この幼馴染は本当にずるい。私たち双子を思い通りにするのが上手いというか、答えを引き出させるのが上手いというか。真琴相手に躱そうとしても意味が無いというのは長年の付き合いで分かっているのに、何か口にすれば先回りされて囲い込まれてしまうのだから、本当にどうしようもない。
「ナマエ、おじさんとおばさんのとこ行くの?」
ここに逃げ出してきた理由を直球で聞いてくる。なんて、デリカシーがなくて、優しい幼馴染だろうと思う。
「分からない。分からないけど、行こうかな、とは言った」
「ハルはなんて?」
「学校はどうするんだって。編入するって言った」
「うん」
「そうかって」
「うん」
「そうしたら、俺がまた競泳始めたからかって」
「うん」
「違うって言いたかったのに、言えなくて」
「うん」
「そうしたら、好きにしろって、言っ、たの、はる、ちゃ、」
私の片割れは天才だった。
水を愛し、水に愛されて生まれ、そして生きてきた。その才能はスイミングクラブに入れば留まることを知らず、ひたすら開花を続けた。けどその花弁を閉ざしてしまったのは中一の終わり。目の前で見ていたから、理由はもちろん知っている。あの子は競泳を辞めてしまった。
一緒にスイミングクラブに入ってからの私は、水を愛さず、水に愛されて生まれなかった私は、とにかく必死だった。あの子と同じ場所にいたくて。あの子と同じスタートラインに常にいたくて。あの子と同じ色の瞳を好きになりたくて。だけどあの子は私のことなんてどうでもよくて、いつも、勝手に、好きなところへ行ってしまう。
小学六年のあのメドレーリレーにだって、当然ながら私は出ていない。どれだけの距離や時間を費やしても、あの子は平気な顔で私の倍を泳ぐ。単純な努力を積み重ねたところで、タイムでも姿勢でも何もかもあの子に追いつきはしない。追いつきたくて、追い越してみたくて、一生懸命泳ぎ続けていた。
なのに少しだけ、安心してしまったんだ。あの子が、やっと、競泳を辞めてくれたって。もう無理して並ばなくていいって。そんな私の嫌な部分を刺すように、ひとつ上の先輩たちは囁いた。あの子はすごいのにね、あの子が残ってくれたら良かったのにね、と。気がついてしまった。あの子が競泳を辞めたくらいじゃ、この劣等感は消えてくれない。その劣等感は次第に罪悪感へと変わり、中学三年間泳ぎきったところで、水泳部の無い岩鳶高校へ進学した。
またあの子と同じスタートライン。あの子と同じ場所。もう誰の囁きも聞こえない。居心地がいいと思っていた。今年になるまでは。水泳部を作るまでは。あの子たちが地方大会に出るまでは。あの子がすごい、と持て囃されればその脇役に立たされるのは必然的に私しかいない。
ああ、まただ、と。仕舞い込んでいた劣等感と罪悪感が表に出てきたことを自覚して、気づけば二人きりの食卓を囲みながら口にしていた。お父さんとお母さんのところに行こうかなって。それからハルちゃんの作ってくれたご飯を食べて食器洗いをしてから、コンビニに行ってくるって言って家を出てきた。あれからもう二時間くらいが経っている。
「……がっ、嫌い、ハルちゃんの、こ、」
「ナマエ、」
「自分が嫌い、ハルちゃんのこと、素直に見られない私が、嫌い」
ぼろぼろ溢れる、何年もかけて隠してきた本音と涙。もっと自分が単純な人間だったらって心の底から思う。本当に、心の底から。そうしたら、きっとハルちゃんのことをもっと応援することが出来て、周りがハルちゃんのことを褒めれば鼻が高かっただろう。自慢の片割れだと胸を張って言えただろう。ハルちゃんだってきっと江ちゃんみたいな、素直で可愛い、純粋に兄を慕ってくれる妹が良かったはずだ。
「ナマエはきっと、まだ知らないところがたくさんあると思うんだ。ハルのことも、ほかのことも」
「そんなの、」
「じゃあさ、ハルがナマエのことなんてどうでもいいって思ってる?」
「……うん、だって、そうでしょ」
こんな捻くれだらけの片割れ、きっと好きでもなんでもない。だからいつも冷めた目で、どうでもよさそうな顔をしているんだ。涙も拭わずに嗚咽を混ぜながら告げていく。真琴は相変わらず穏やかなままだった。
「ハルはどうでもいい相手を探すのに、必死に走り回ったり、血相変えて俺のところに来たりしないと思うよ」
「え……?」
「地方大会で凛を探してたときより、何倍も焦ってるように見えたけどな」
ほら、と。真琴がプールの反対側へと視線を移す。
「ナマエ」
は、は、と短い呼吸を刻んだ片割れが、そこには立っていた。ハルちゃん、と名前を呼ぶ声が震える。距離を詰める足音は真琴が来たときよりも大きく感じた。
「っ、こんな時間まで何してたんだ!!!」
息を吸い込む音が聞こえた、と思ったときには日常生活では絶対に発さない音量で怒鳴りつけられ、肩がびくうっと大袈裟に跳ねた。こんなに大声で怒られたのは、初めてだ。真琴がどんな顔をしているかなんて、見る余裕はとてもない。ゆっくりと伸びてくる両腕に、思わず身構える。先ほど跳ねた肩がふるふると震えていた。
「…心配、させるな」
頼むから、と続いた弱々しい言葉ごと閉じ込めるようにして、ぎゅっと私より大きくなった身体に包まれた。心配なんて、言われたことは今までに無い。少なくともハルちゃんの口からは。
「心配して…くれたの……?」
「当たり前だ。そんなの、当たり前だろ」
念を押すように、ゆったりと言われる。
「わ、私のこと、どうでも、い、いいんじゃ、ないの」
「……どうでもいいことなんて今まで一回も無かった」
力強く包まれていた身体がふっと解放される。眉間に皺をいっぱい寄せたハルちゃんは、"冷めた目でどうでもよさそうな顔"とは遠くかけ離れているように見えた。ここでようやく確認できた真琴の表情は、やっぱり穏やかなまま。だけど瞳の奥は何かを決意したように、強く月明かりを写しているように見える。
「ハルね、ずっと言ってたんだよ。ハルはすごいのにねって言う人に、ナマエは俺よりずっと努力家で、ロングだったら俺より速いんだって。何も知らないくせに、知ったようなこと言うな、勝手なこと言うなって」
「…おい真琴」
「ダメだよハル。ナマエは言わなきゃ分かんないんだから」
もしかしてそれが、真琴の言う"私が知らないハルちゃんのこと"なんだろうか。ずっと、って、いつから。震える声で尋ねてみると「本当にずっと、子どものときから」と返ってくる。曖昧な答え。つまりは、覚えていないくらい前からということになる。だって、そんな、そんなの知らない。聞いたこともない。
「真琴だって似たようなこと言ってただろ」
「俺は、ハルと同じくらいナマエの泳ぎは綺麗なんだよって渚とかと話してただけだよ」
「わざわざ相手に聞こえる場所で言ってたくせにか」
「まあ、それはそれじゃない?」
穏やかな笑みに黒い影が見えるような気がした。おかしいな、もう夜なのに、月明かりで照らされる以外の影が見えるなんて。ハルちゃんも同じようなことを考えていたのか、なんとも言えない顔で真琴を見ている。そしてもう一度こちらへ向き直り、いつもの無表情より真剣さの帯びた顔で口を開いた。
「ナマエが劣等感を抱く理由が俺にあるなら、向こうに行くことを止めない。でもそうじゃないなら、一緒にあの家にいてほしい。もしナマエのこと、悪く言うやつのせいで辛いと思うなら、俺がその倍、ナマエのすごいところを、ナマエにも教えてやる。ほかのやつの言うことが、どうでもよくなるまで」
一言一言にハルちゃんの想いが深く、濃く、滲んでいると感じた。止まっていたはずの涙がひとつ、またひとつと地面に落ちていく。拭うことは出来なかった。
「ハルちゃん、いつの間に私のこと、認めてくれてたの」
勝手に口から出ていく言葉に気づかされる。ああ、私は、他人に認められたいわけじゃなかった。賞賛を得たいわけじゃなかった。この子と同じくらいすごいと言われたいわけじゃなかった。
競泳をやめたことに安心を覚えたのは、きっと認められない私でもこの子の隣にいることを許されてるのだと安堵したから。それでも劣等感と罪悪感をこっそり仕舞い込んでいたのは、認められたいとゆう欲求が満たされていなかったからだ。
「そんなの、ずっと前からに決まってるだろ」
紡がれた言葉に、今度は私が飛びついた。ハルちゃんごめんなさい、ありがとう。真琴もごめんなさい、ありがとう。私ね、二人が大好きだよ。何年も何年も溜め込んできた涙と想いが落ち着くまで、ハルちゃんは背中に手を回してくれて、真琴は頭を何度も撫でてくれた。落ち着いたら、涙が止まったら、ハルちゃんと二人きりのあの家に帰るから。それでもって、今芽生えたこの気持ちが変わっていなかったから、そのときはまた、ハルちゃんと、真琴と、みんなで。
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★
私の片割れは、水を愛し、水に愛されて生まれ、そして生きてきた。そんなあの子の片割れは、水を愛してはいなかったし、きっと水に愛されて生まれてもこなかったけれど、片割れを愛し、片割れに愛されて、片割れと同じ海のように深い青色の瞳を持って生まれ、そして生きてきた。
十で神童、
十五で天才、
二十歳過ぎれば、ただの人。
亡くなったおばあちゃんがよく言っていたことわざ。ところが昔、アメリカの映画監督が言っていたとお父さんがこっそり教えてくれた言葉がある。『ヒーローとは、どんな障害があっても努力を惜しまず、耐え抜く力を身につけたごく普通の人間である』と。
私はこれからもずっと"ただの人"だ。それ以上にもそれ以外にもなれはしないだろう。だけど、神童で天才なあの子の片割れは私しかいないのだ。それを誇り、慈しみ、尊いものであると忘れずに生きていくことは出来る。ごく普通の人が出来るありったけの全部を持って、あの子の隣に在り続けたい。
「ではこれから、新一年生には自己紹介がてら一人ずつ専門種目を泳いでもらう。準備はいいか?」
「はい!」
「まずは女子。最初は、七瀬から」
「はい!七瀬ナマエ。専門種目は
"フリー"」