現在、心臓がはち切れるんじゃないかというくらいバクバクしている。渚くんがうちに来るのは初めてじゃないけどお泊まりするのは今日が初めてだ。しかもうちの両親は町内会の旅行でいない、というなんとも、まあなんともなシチュエーションだ。
   心霊やおばけの類が得意ではない私はお母さんたちだけが旅行に行ってしまうことに駄々をこねた。うん、確かにこねたけれども。だからって普通、彼氏である渚くんに泊まりにきてもらったらどうかなんて提案するだろうか。親になったことがないから分からないけど、お母さんたちは渚くんが人懐っこくて可愛いから、きっとそんなこと思っていないんだろうなぁ、と思う。私はこんなに緊張しているというのに!
   おかげで腕をふるって作った晩御飯の味は分からなくなっちゃったし、見ていたバラエティ番組もいつもはお腹を抱えて笑うのにちっとも笑えなかった。
   付き合って半年。ちゅーはした。もう数え切れないくらい。もっとすごいちゅーは、まだ、数えられるくらい。何かがあっても、おかしくはない。こんなにそわそわするのなら先にお風呂もらうんじゃなかったなぁ。

「ナマエちゃん」

   ソファの上でぼんやりと全く耳に入ってこないテレビを見つめているとふいに名前を呼ばれる。お風呂を終えたらしい渚くんが、いつの間にかリビングに戻ってきていた。その身には星柄の半袖パーカーと黄緑色のハーフパンツを纏っており、普段中学のジャージで寝ている私なんかよりもよっぽど女子力を感じられた。今日は私も可愛いルームウェアを新調したけれども。

「お風呂ありがとう。どうかしたの?」
「あ、う、うん。なんでもない」
「そう?」

   二人の間に沈黙が流れ、部屋ではテレビの声だけが響いている。それを破るように渚くんがわたしの隣に腰かけた。ただそれだけで私の心臓はびっくんと跳ね上がる。

「お、お湯加減、大丈夫だった?」
「うん!ちょうどよかったよ!」
「そっ、か」

   勝手に声が震えちゃって、これじゃあ意識しているのがばれてしまう。なんとか話題をそらそうとチャンネルに手を伸ばすと、隣からふんわりと優しい香りがした。まぎれもなく渚くんからする匂いは可愛い女の子を連想させる匂いで、私なんかからはしたことのない匂いだ。貸したバスタオルからもこんな香りはしたことがないので、渚くんのにおいで間違いないだろう。

「あれ?渚くん、髪乾かさなかったの?」
「あっ!そうそう、ドライヤーの場所聞こうと思ったんだよね」
「あ、そ、そっか、ごめんね言い忘れてて。持ってくるから座って待ってて」

   そう言って足早に脱衣所へ向かい、ドライヤーを戸棚から取り出したところで、気がついてしまった。渚くんが使ったばかりのぬくい脱衣場にはまだにおいが残っている。
   って、ばかだ。これじゃあまるで変態みたいだ。ぶんぶんと首を振って余計な気持ちを脱衣場に置いていく。リビングではソファに座っていたはずの渚くんが、ソファを背もたれにして床に座っていた。

「渚くん、ドライヤー持ってきたよ」
「わーい!ありがとう!そうだ、せっかくのお泊まりなんだし、ナマエちゃん乾かしてくれる?」
「ええっ!?」
「だめ?」
「あ、やっ、だ、だめじゃ、全然、ないけど」
「ふふ、やったぁ!」

   どもりまくりの私とは裏腹に、いつもどおりの渚くん。なのにちっとも力は抜けやしない。ひとまず渚くんの髪の毛を乾かすという任務はこなさなければ。風邪をひいては大変だ。

「し、失礼します!」
「お願いしまぁーす!」

   ドライヤーのコンセントを挿してから、正面に渚くんの頭がくるようにソファに座り直す。スイッチを入れれば、すぐにドライヤーがけたたましく音を鳴らす。ドライヤーが大きな音をたててくれることを、こんなに有難いと思う日はほかにない。
   相変わらずドキドキしながら、遠慮がちに渚くんの髪の毛に触れた。ふわふわで、やわらかくて、金色のきらきらの髪の毛。女の子の私よりも可愛い。うんと可愛い。ドライヤーをしている間、渚くんはテレビを見て笑ったり、何か言ってくれても私が上手く答えられずに大きな独り言みたいになったりしている。
   ……なんて呑気なんだ。さすが心臓に毛が生えてるだけのことはある。感心するのも束の間で、渚くんの短い髪の毛はあっという間に乾いてしまった。渋々、ドライヤーを止めれば、またテレビの音だけ響く空間になる。す、と渚くんが息を吸う音が沈黙を破った。

「ナマエちゃん、あのね」
「……わあああやっぱり無理!」
「え?」
「だ、だって渚くん、可愛いんだもん!優しいにおい、すごいするし、私よりずっと女子力高くて、なのに、幻滅されたりしたら、あ、わ、わたし」

   沸き起こった不安を正直に吐露すると、渚くんは自分のにおいをくんくんと嗅いで、それからふふっと笑った。ひどい、私は真剣なのに。

「これナマエちゃんのにおいだよ?」
「え?そんなはずない…」
「でも僕、ナマエちゃんちのシャンプーとボディソープしか使ってないし、自分のにおいって自分じゃあ分からないからじゃない?」

   一理あるかもしれない。自分の髪を一束掬って鼻に寄せると渚くんと同じにおいがほのかに香っている気がした。そんなことをしていると、渚くんの手が頬に添えられる。伸びてきている腕は水泳でしっかりと鍛えられた、たくましくて、どうしようもなく男の子の腕だった。

「ナマエちゃん」

   渚くんに名前を呼ばれて顔を上げる。あ、テレビ、消されちゃった。

「僕、ちゃんと男だよ。いつもナマエちゃんの女の子のにおいでドキドキしてる。本当はナマエちゃんがあんまり怖がってるから、今日はやめようかなとも思ったんだけど、そんなこと言われたらね。幻滅しないって証拠、いっぱいあげるから、ね?」



- ナノ -