ぺたぺたと裸足でプールサイドを歩けば、コンクリートに集まった熱がじわりと皮膚を焼くような感覚に襲われる。校庭のそこら中から蝉の音がジリジリと鼓膜を揺らしてくるものだから、より一層暑さを感じさせた。

「気持ちよさそうだね」

   スタート台のそばにしゃがみ込んでプールの中を優雅に揺らめく人影に声をかけると、私が来たことに気が付いたらしい影はそのまま水の中を移動してこちらへ向かってくる。
   そしてようやく近くまで来たところで、きらきらの水飛沫を上げて顔を出した。競泳目的で水の中にいたわけではないらしく、その頭にはスイミングキャップもゴーグルも装着されてはいない。

「熱中症になっちゃうよ」
「陸の上より平気だろ」
「プールでも熱中症になるってテレビでやってたよ」
「そんなにヤワじゃない」
「ふふ、それもそうだね」

   出会ったのは幼稚園に入るよりも前の頃。あのときは体格にも声にも差は無かったのに、ハルの身体つきは男の人そのものになって、水の中を自由に泳ぎ回るだけの筋肉を蓄えている。対照的に私の身長は中学一年のときから伸びていない上に、筋肉なんてほとんど付いていない。

「真琴たちは?」
「まだ来てない」
「そうなんだ」
「ナマエはなんで学校にいるんだ」
「先生に進路の相談しに来たの」
「そうか」

   ハルと真琴が東京の大学に行くことを決めたと聞いたのは、つい先日の全国大会が終わってすぐのこと。つまりまだ夏休み中なわけで、私がここにいることを不思議に思ったんだろう。理由を聞いても特に気に止めた様子の無いハルは、コースロープに頭を預けて身体を水面に浮かせた。

「やっぱりハルは泳いでるときが一番かっこいいね」
「……なんだそれ」
「ふふ、照れない照れない」
「別に照れてない」
「寂しいなぁ。来年からはハルが泳ぐところ、近くで見れなくなっちゃうの」
「応援に来ればいいだろ」
「東京は遠いなぁ」
「東京はそんなに遠くない」
「凛くんのオーストラリアに比べられても、遠いものは遠いよ」
「………」
「私もちゃんと水泳やってたら、ハルの世界が見えたのかなぁ。泳ぐのが気持ちいいって、今でもよく分かんないんだよね」

   小学校の間は一緒にスイミングクラブに通っていたけれど、センスがかなり乏しかったようで、私はちっとも上手に泳げるようにはならず、中学に上がったタイミングで辞めてしまった。高校で水泳部を作ってからは江ちゃんと一緒にマネージャーとしてみんなを支えてきたけれど、今でもたまに考える。
   もしも水泳を辞めなかったら。ハルと真琴と一緒に選手として水泳部に入っていたら。何か違う景色が私にも見えていたのかもしれない。ハルに少しでも近づけたのかもしれない。

「ナマエ」

   身体を起こしたハルが、床面に足をつけて立ち上がる。水面に浸かったままだった逞しい腕が声と一緒に伸びてきた。頭に疑問符を浮かべつつ、いつも真琴がするみたいにハルへ向かって手を伸ばすと。

「わっ!!」

   瞬間、ざぶんっ!と荒々しい水音と共に音のない場所へと飲み込まれた。突然の出来事に酸素が口からごぽごぽと逃げていく。理解が追いつかないまま、無意識に閉じていた瞼をゆっくりと開くと、そこには床面と壁面と空を映す水色の世界が広がっていた。

   息をするのを、忘れた。

   もちろん物理的に呼吸出来る状況ではないのだけれど。それ以上に、ハルが握ったままの私の手をを引いてゆっくりと、しなやかに水中を漕いで見せてくれる景色と、時折振り返ってくれるハルの青い瞳がとても綺麗だったから。
   数年前まで泳いでいたプールの中と何も変わらないはずなのに、どうしてハルが泳いでいるというだけで、ハルが前にいるというだけで、こんな風に水が変わるんだろう。冷たい水の中にいるはずなのに、繋がれた手からじんわりと熱が伝わってきていた。

「ぷはぁっ!!」

   潜る準備のない私の息はそう長くは持たず、足をついて水面に顔を出せば、再び差してくる夏の日差しによって現実へと引き戻される。相変わらず繋がれた手の先にいるハルも一緒に顔を出した。
   はっはっと短い呼吸で酸素を求める私とは真逆に、息ひとつ乱さずに視界を開くように前髪を掻き上げる。別に初めて見る仕草ではないはずなのに、目の前で、しかも手を繋いだままのせいか、やけに色っぽいと感じてどきりと心臓が跳ね上がる。

「どうだった、俺の世界は」

   私の短い呼吸と身体から水滴が落ちる音が響く、蝉の音を背景にした沈黙の中に、ハルの凛とした声が通る。

「綺麗、だった」

   考えるよりも先に言葉が出ていった。

「これくらい、いつでも見せてやる」
「ハル、」
「…だから、遠いとか言うな」

   ハルが言葉を紡ぎ終わると同時に、ゆらりと水面のように揺らめく視界。鼻の奥がつんと痛みを訴えていた。頬を伝うのは頭から流れてきた水滴なのか、それとも、どちらなのかは分からない。

「こんなのされたら、余計に寂しくなっちゃうね」

   ぽた、ぽた、と頬を伝って顎の先から落ちる水滴が速いテンポで水面を揺らす。

「応援、来てくれ。ナマエにとって遠い場所でも、来てほしい。ほかの誰でもない、ナマエに」

   その言葉を受け入れた途端に、自分の中でぐるぐると絡み合っていた糸がぴんとまっすぐになるように、迷いが消えた。
   進路の相談というのは、実は私も東京の大学を目指したいという内容だった。元々行こうとしていた大学と同じ学科を目指すとなると東京だとランクがひとつ上になるので、今より勉強を頑張る必要があると言われた。もちろん迷っていた理由はそれだけじゃない。親にも心配をかけるし、実家から通える大学に行くよりも負担もかける。
   私の気持ちに気がついていたらしいお母さんには「本当に地元の大学でいいの?」と何度も言われていたけれど。その度に、全部隠して首を縦に振っていたけれど。

「わたし、もう、ハルのこと諦めるなんて出来ないよ」

   もう、だめだ。いろんなものを天秤にかけたって、どれだけ理由をくっつけたって、ハルにかなうものなんてないと、知らないふりさえもう出来ない。こんなこと言ったら、ハルはなんて言うかな。

「……諦めなくていい。俺もお前を、諦められそうにない」

   未だに握り合ったままの手は、差し込む太陽の日差しよりも、何より私を熱くした。



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