※半魚人遙
※なんでも許せる方向け
1.
本日最後の講義を終え、さあ帰ろうかと身支度していると、斜め前の席に座っていた同じ学科の友達がスマホを見て難しそうな顔をしていた。いつも温厚で穏やかな雰囲気の彼から漂う焦燥感に思わず声をかける。
「橘くん、どうかしたの?難しそうな顔して」
「あ、ミョウジさん。……いや、ちょっと、困ってて」
「私で良かったら聞くよ?話しづらいことなら無理にとは言わないけど」
自分で言っておいて、なんだか下心があるみたいな台詞になってしまったと羞恥心が芽生える。決してそんなつもりはない。
どちらかというと橘くんみたいな優しい雰囲気の男の子ではなく、クールな雰囲気の子のほうが好きなんだ。だから下心は無い、断じて!そんなことを考えていると、橘くんは少し遠慮がちに口を開いた。
「実は、友達と連絡がつかないんだ。お風呂の水が出ないって連絡は来てたんだけど講義中で気づかなくて、今日は区民プールも休館日だし」
「……うん?」
橘くん的には簡潔的に話してくれたのかもしれないけれど、どうしよう、正直全然意味が汲み取れなかった。お風呂の水が出ないことと、何がどうイコールになるのか。分からなかったけれど、とにかく友達と連絡が取れなくて困っているということだけは分かった。
「ええと、共通の友達に連絡は来てないの?」
「それも来てないみたいなんだよね。家に行ってくれた子もいたんだけど、留守みたいで」
「そっかぁ…。うーん、あまりにも急なこととか心配ならSNSで探すことも出来るけど」
「えっ!?あ、いや!それはちょっと困るというか!」
「???」
あまりの慌てぶりに頭の中が疑問符でいっぱいになる。なら警察?と新たに提案してみるも、それすらも渋られてしまう。
「はっ、まさか……そのご友人はカタギではない……!?」
「そうゆうのじゃないから!」
とりあえずもう一度自分で家に行ってみることにしたそう。なんとなく友達の名前だけ聞いておいた。
2.
「ただいまーん」
誰もいない部屋に挨拶をする。靴箱上の定位置にキーケースを置いて部屋へと足を踏み入れると、違和感を覚えた。誰もいないはず、なのに妙な人気を感じる。え?なに?と部屋中を見渡してみても特に変わった様子が見当たらない。
なのに何故か、強烈な違和感が拭えない。どっどっどっ、と心臓の音だけがやけに鮮明に聞こえる。やだ、怖い。バタバタとクローゼットやトイレの扉を開いて異常がないことを確認していき、最後にお風呂場にやってきた。ドアに手をかけたタイミングで、ぴちゃんっ、と水の跳ねる音がした。
……おかしい。だってお湯を張ってから登校したわけでも、朝シャワーをしたわけでもないのに、どうして水と水の触れる音がしたんだろう。ここだ、と頭の中で警報が鳴っている。
怖い、開けたくない、けど開けないと分からない。とにかく身を防衛出来るものを、と洗濯洗剤を片手に持つ。どうして洗濯洗剤かって?今朝詰め替えたばかりでそこそこの重量だからに決まっている。恐怖に震えながら、ぶるぶると小刻みに上下する手で、浴室のドアを思い切り開いた。
「……−−っえ、わ、き、れい」
口から出たのは悲鳴ではなく感想だった。光に反射してきらきらと輝く鱗。浴槽から飛び出しているそれを辿っていくと、鍛え上げられた身体が目に入り、そしてばちりと目が、合った。
「っひ、ぎゃああああ!!!!!」
やっぱり悲鳴も出た。
「なに!誰!?不法侵入!!!け、警察!警察って何番!?119か!」
「それだと消防に繋がるぞ」
「うわ喋ったぁぁぁぁ!!!」
「普通に喋れる。俺は半魚人だからな」
「半魚人!?」
「あと警察を呼ばれるのは困る」
何言ってんだこいつぅ!!!
気づけば頼みの洗濯洗剤は足元に転がっていたし、お尻をぱったり床につけて座り込んでいた。がたがたと震える足が言うことをきかなくて、逃げることもままならない。身体から上半分が人間の、身体から下半分には立派な尾ビレ。
一体なんなんだ。コスプレか?クオリティ高すぎだ。だとしても何故私の家に?不法侵入で?え?やっぱり警察?けど困るって言ってたし、って、普通に不法侵入者が警察呼んでください嬉しいです!なんてあるわけがない。
考えれば考えるほどに混乱していく頭でどうするべきかを考える。とりあえず、ひとまず、初対面の人に会ったときにすることはただひとつ。
「お、お名前は………?」
自分はアホさをこんなに呪ったことない。
「七瀬遙。燈鷹大学一年」
「は……?」
答えるんかい。
それは数十分前に記憶した名前だった。
3.
説明しよう!半魚人こと七瀬遙くんはなんでも人魚の末裔らしく、家系図を辿りに辿ってもしばらく半魚人は産まれて来なかったらしい。なのにどうゆうわけだが、途絶えたと思っていた人魚の血が七瀬遙くんには色濃く受け継がれていているそう。そして定期的に水の中に入らなければ干からびてしまう(かもしれない)らしく、所属している水泳部の練習もない、近くの区民プールは休館日、極めつけにお風呂の蛇口から水が出ない。困りに困った七瀬遙くんは仕方なく、本当ーーーに仕方なく、水の気配を嗅ぎつけて(?)鍵を閉め忘れていた隣の私の家に来たとか来たとか来たとか。親しい友人にしか正体は明かしていないので、警察を呼んだりSNSで発信されるのは困るんだとか。
「って、感じなんだけど………」
「うんごめんね橘くん全く分からない」
連絡をして駆けつけた橘くんから、その説明を三十回くらい聞いたけどマジで意味不明だった。話の筋としては、まあ分かるとしよう。だからといって不法侵入していい理由にはならない。お隣さんがこんな訳の分からない人で、しかも橘くんのお友達だなんて。理解は出来ても納得は出来ない。こっちは危うく、ちびるところだったというのに。
「水道管に不具合があって直るまで二週間くらいかかるそうだ」
業者が来てお風呂の状態を確認してもらっていた七瀬遙くんが戻ってきた。いやむしろなんで私の家で事情説明会が開催されているのかというところから意味が分からない。大学に入ってから初めて自宅で男の子と二人きりだったというのに、これっぽっちもときめきはしない。
「ハル、これからどうする?」
「そうだな……風呂に入らないのは、かなりしんどいかもしれないな」
ずっと置いてきぼりにされている私をさらに放って二人はどんどん話をしていた。ちなみに七瀬遙くんにさっきまで生えていた立派な尾ビレは、どこへ行ったのかは分からないけど、今は立派な筋肉がついた二本足になっている。
お風呂から出た途端、瞬きをする間に足に変わっていたんだ。なんでか競泳水着着用だったし。うん、もう、訳が分からない以外の言葉が浮かばない。
「頼む。しばらく風呂を使わせてくれ」
「は?」
「しばらく風呂を使わせてくれ」
考えるの面倒になってきたなぁ、とパンパンに膨らんだ思考回路を放棄しかけていると、七瀬遙くんはとんでもないことを言い始めた。
「しばらく風呂を使わせてくれ」
「聞こえてるわ!無理ですけどっていうか橘くんのとこ行きなよ」
「真琴は区民プールのバイトがある」
「じゃあその区民プール行けよ」
「人目を気にせずヒレを出したい、あと風呂には入りたい」
「とんでもワガママ野郎じゃん」
「それに、なんだかここの風呂は落ち着く」
「間取りが一緒だからだよ!!」
物語の人魚姫とは程遠いことしか言わない、この男、七瀬遙くん。いやもう、くん付けとかいいや。そんな中で橘くんは「ミョウジさんのキャラが違う…」と呑気にぼやいている。そりゃキャラ崩壊もしたくなるわそんなん。
どうにかしてイエスと言わせたいのか、七瀬遙は無表情のまま顎に手を当てて考え始めた。と思えばすぐに、あっ、という顔をする。考える時間短いな。
「夕飯付きならどうだ」
「えっ……人魚のお肉……?確か不老不死なんだっけ……?カニバリズム……ええ、無理ぃ……」
「物騒な想像をするのはやめろ。普通に夕飯作るって意味だ」
ぴくり、と私の手が動いたのを彼は見逃してくれない。畳み掛けるように口を開いてきた。
「コンビニ弁当の空箱が多いのを、先週のゴミ捨てのときに偶々見た。週に何回もコンビニで済ませてるだろ」
「っく、何故それを…」
「だから偶々見たんだ」
「ハル、すっごく料理上手なんだよ。ほら」
そう言って橘くんが見せてくれたスマホに映し出されているのは、鯖味噌がメインディッシュの和食メニュー。隣には筑前煮、あとは小鉢がひとつ。ほらってまさか、これ全部七瀬遙が作ったのか。どこの嫁だよ。
「ミョウジさん、俺からもお願い!無理を言ってるのは俺もハルも重々承知してるんだけど、ハルに死んでほしくないんだ!」
「真琴……。ミョウジさん、お願いだ。ミョウジさんにしか頼めないことなんだ!」
「いやそんなに信用されても。もしかしたら私がSNSとかに拡散するかもしれないじゃん」
「するならもうとっくにしてるだろ。それでもミョウジさんは、写真も撮らずに真っ先に真琴を呼んでくれた。信じるのには十分だ」
「えええ」
さっきまで呑気だった橘くんが急にシリアスな空気を醸し出してくる。それに釣られてなのかなんなのか、七瀬遙まで急に本気でお願いしてきやがった。しかも私にしか頼めないとか卑怯なワードを使ってくる。我ながらちょろすぎか。
確かに自炊が得意では無い。とゆうよりほとんどしない。大学生活が始まってからは食事の大半をコンビニのお世話になっていることは否定できない。手料理、恋しい。写真、美味しそう。あと最近太った。和食、痩せたい。あとは、しいていうなら、七瀬遙の顔が好みだ。
「……〜〜〜っ、よ、ろしくお願いします」
渋々、小声で言って手を伸ばしてみる。七瀬遙は分かりにくいながらもぱっと顔を少し明るくさせて手を取ってくれた。それから海のように青い瞳をゆっくりと細める。微笑む顔までヒレと同じくらい綺麗なのか、この男は。
「ありがとう。よろしく頼む」
こうして隣の半魚人さん、七瀬遙との謎の生活がスタートしたのだった。
「っていうか水泳部なんだっけ?チートじゃん、っていうか諸バレじゃん」
「そんなことするわけないだろ。競泳のときは正々堂々足で泳いでるし足も鍛えてる」
「へ、へえ……なんかもうなんでもありなのね……」
頭が痛くなってきたから、とりあえず今日のところは帰ってほしい。