夕方近くになっても気温が高い。ジリジリと日差しに照りつけられること三十分、汗が頬を伝う。毎日のように炎天下で泳いでいた友人たちを心から尊敬する。


「…何やってんだ、お前」
「おー!凛!やっと来た!」

   呆れたような声が聞こえてきて声のしたほうを見ると、約束をしている人物が声と同じように呆れたような顔をして、ワインレッドのTシャツを着て立っていた。

「暑い中なに草むしりなんかしてんだよ」
「なんか気になっちゃって?やり始めたら止まらなくなっちゃって?」
「なんで疑問系なんだよ。日焼けしても知らねえぞ。ちゃんと水分取ってんのか?」
「あ」
「あ、じゃねえだろ。ったく、ほら、一回家ん中入れよ」

   いや我が家か。うちの子か。心の中のそんなツッコミも虚しく、凛に促されるまま家の中へと戻される。せっかくいい感じに山盛りになってきたのに。まあいいか、片付けるのはあとでも明日でも。先ほど付けておいたクーラーのおかげでリビングに入ればたちまち涼しい空間に包まれる。

「おばさんは?買い物か?」
「ううん、今日はパートなの」
「パート?」
「そっか、凛には言ってなかったっけ。私が大学入ってからパート始めたんだよね。あ、麦茶でいい?」
「おー」

   何度も来ていることもあり、凛は慣れたようにソファに腰掛けた。肩から下げていたタオルで顔を一拭きしたのち、それをダイニングテーブルに置き、冷蔵庫から麦茶を取り出す。ふたつのグラスに麦茶を注いで凛の元へと戻ると、何故かぎょっとした顔をされた。そしてその顔はみるみるうちに赤く染まっていく。

「おおおおおまえ!服!前!」
「服?」
「っ、っ、透けてんだよ!!」

   服。前。透けている。言われた言葉を頭のなかで反復させてから、ようやく自分の状態に気づく。汗で張り付いた白いTシャツからは、お気に入りの下着ランキング第二位にランクインしている霞んだピンク色のブラがうっすらと浮かんでいる。ピンクだからキャミソールを着なくても透けないかと油断していた。凛は見ないように顔を逸らしてくれている。その横顔は耳まで真っ赤になっていた。

「あらあら凛ったらスケベ「いいからシャワー浴びてこい!!」

   怒られてしまった。

↑↓


   シャワーを浴びてから、今度は透けないようにワインレッドのTシャツに着替える。凛がオーストラリアに行く前にショッピングモールで二人でお揃いで買ったもの。メンズサイズなので多少だぼっとはしているけれど、どことなく凛を連想出来る色合いなので気に入っている。同じ日に一緒に着るのは恥ずかしいから嫌だと言われているけど、今日はどこかへ行く予定も無いしいいだろう。
   そして中にはお気に入りの下着ランキング第一位のものを纏っている。……別に深い意味はない。決して。あわよくばとか思ってない。デニムのショートパンツも履き終えてリビングへ戻ると、さっきまでいたはずの凛が姿を消していた。あれ?

「おーい凛ー?凛ちゃんやーい」

   大きめの声で名前を呼びながら家の中を歩き回る。トイレにはいない。玄関には靴があるから外へ行ったわけでもなさそう。となるとあと残されている心当たりは二階の部屋くらい。
   「凛ー出ておいでー、出ないと目玉をほじくるぞー」どこぞの架空の黒い妖怪を呼ぶかのように声をかけながら階段を登る。開いたままになっている私の部屋のドア。中を覗けば架空の黒い妖怪ではなく、ワインレッドの凛がベッドの上ですやすやと寝息をたてている。

「凛ー?」

   ゆさゆさと逞しい身体を揺さぶってみるも、その閉じた瞳が開くことはない。せっかく久しぶりに会えたのになぁという落胆の気持ちと、昨日帰国してから実家に行く前に鮫柄にも寄って、今日の昼間は江ちゃんと出かけたらしいし、そりゃ疲れるよなぁという労いの気持ちがせめぎ合う。

「私なんて、早く会いたくて草むしりでもしてないと落ち着かなったのになぁ」

   そんな呟きに返事はない。
   はずだった。数回まばたきをする間に掴まれた腕、流れるようにベッドへ引きずりこまれて反転させられた身体、閉じていたはずの瞳がぎらぎらと好戦的に光っている。

「せっかく人がムードとか、大事にしようと思ってんのによ」
「ひゃっ、わ、わ!」
「覚悟出来てんだろうな」

   いつの間に上にあった凛の顔が首元に埋まり、耳のすぐそばで囁くような声がする。さっきまで腕を掴んでいた手は腰のあたりと太ももをするすると滑り、身体のどこかでぞわぞわと甘い電気が走った。このまま流されてしまいたい気持ちもあるけれど、目に入った壁の掛け時計が十六時半を指していることにはっとした。

「ま、待って、凛!」
「待たねえ」
「ひっ、だめ、もう、お母さんが!帰っ、!」

「ナマエーー!凛くん来てるのー?」

   ぴたり。開けたままの扉より先、階段の下からお母さんの呼び声が聞こえた途端、凛の動きが止まる。数秒置いて勢いよくバッと顔を上げた凛の瞳はどことなく潤んでいて、顔はやっぱり真っ赤っかだった。

「凛、泣かないで「泣かねえよ!!」

   怒られてしまった。

↑↓


   うちで夕飯を食べてしばらくまったりしたあと、そろそろ帰ると言うので近くまで送ることにした。泊まっていけばいいのにとお母さんは言っていたけれど、きっと凛のお母さんと江ちゃんのほうが何倍も凛の帰りを待っている。そしてもちろん、続きはしていない。

「そういや、全日本は応援に来るんだよな?」
「うん、バイト頑張ってお金貯めたから!シドニー大会はさすがに厳しいけどね」

   大学生になってから始めたバイトのおかげで東京に行ってホテルに泊まってお土産を買うくらいの余裕くらいはある。

「凛が泳ぐの見るの久しぶりだなぁ。すっごく楽しみ!」

   凛が泳いでいるのを見たのは江ちゃんが招待してくれたサプライズパーティーが最後だ。あれからはもう半年近くが経っているし、きっと高校のときときよりもうんと成長した姿が見られるに違いない。想像するだけで顔が綻んでしまう。
   ゆるゆるに緩むほっぺたを抑えながら歩いていると、無反応だった凛に手を取られて、ん?と漏らした声ごとぱくりと食べられた。ちゅ、と軽い音を立ててすぐに唇が離れる。初めてではないし、さっきキスよりもすごいことを確かにしようとはしていたけれど、さすがに半年ぶりのキスとなると胸の奥がきゅうんと切なくなってしまう。
   凛も同じなのか、暗闇で顔の色までは判別出来ないけど何ともいえない顔をしていて、それを誤魔化すみたいにもう一度唇が重なった。

「……積極的だね?」
「いいだろ別に。誰もいねえんだから」
「東京じゃあこうはいかないもんね」
「茶化すんじゃねえ」
「ふふ、ごめんごめん」
「なんだよ、足りねえと思ってんの俺だけかよ」

   拗ねるみたいにそう言われる。なんだ可愛いやつめ。足りないとは、触れ合いについてなのか気持ちの上の話なのか。どちらかなのか、どちらもなのか。何にせよ。

「足りないよ、いつも」

   へらりと笑いながら胸の奥にしまっているものを伝える。だけどそれで終わりではない。

「でもね凛、そのままでいてね。今の凛が大好きだよ」

   足枷になりたくはない。けど自分を足枷だなんて呼んでしまうのはきっと凛にすごく失礼だから。私は私でやりたいようにやるし、自分でこれからの人生を選ぶ。バイトもサークルも大学で新しく出来た友達と遊ぶことも、ちゃんと全部楽しんでいる。オーストラリアに行ってからは凛が気を遣ってマメに連絡をくれている。いや単に凛も少なからず寂しいと思ってくれているのかもしれないけれど。心配だけはしなくていいよ。
   思うことを全部伝えるのには単純すぎる言葉でも凛にはちゃんと伝わったのか、赤い瞳の中で光がきらきらと瞬いている。その瞳はゆったりと細められて、伸びてきた手にするりと首元を撫でられた。

「いつかここに金のメダル持って帰ってきてやる。それまで余所見するんじゃねえぞ」
「それからだって余所見するつもりないよ?」
「っな、……っ、お前なぁ」
「あ、照れた?凛いま照れ「うるせえ空気読め!」

   怒られてしまった。
   そのあとすぐに照れ隠しでされた三回目の口付けには、やっぱりときめいてしまった。寂しいという気持ちがゼロになる日なんて来ないだろう。それでもどうか前だけを、世界を見ていて。夢を追いかけるままの凛でいて。



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