『今日夏也と飲みに行くんだけど、ナマエも行かない?』

   中学からの友人である尚からそんなメッセージが来ていたのは午後の三時頃。そこからもう五時間が経過している今は、既に居酒屋に到着しているけれど、私の相手は尚と夏也ではない。この予定がなくても尚には悪いが正直断っていた。

『友達に誘われて人数合わせの合コンに参加中!ごめんまた今度!』

   わざわざ文の冒頭にそんなことを書いてしまうあたり、まだまだ未練があるのかもしれない。そんなことを思いながらもお手洗いをあとにして、みんなのいる席へと戻った。

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   飲み会としては普通に楽しかったけれど、合コンとしての収穫は特になかった。またこのメンバーで集まろうと誰かが言い出して、グループメッセージが結成されたくらいで、誰とも個人的な連絡先を交換してはいない。
   終電まで余裕のある時間に帰宅をし、床に鞄を置いてぼふんっとベッドに沈む。お酒が入ってることもあり、楽しさの余韻に浸りながら微睡んでいると、スマホが震えてることに気づき、なんとか意識を覚醒させた。床に置いた鞄からスマホを取り出す。着信相手は尚だった。

「もしもし〜尚?どうしたの?」
『ナマエ?もう帰ってたりする?』
「うん、もう家だよ。尚と夏也はまだ飲んでるの?あー、ええと、夏也は元気?」
『ああ、なら良かった』

   何故か質問を全部無視されてしまう。良かったとは?立て続けに芽生えた疑問を頭に浮かべていると、ピンポーンとインターホンが静かな部屋に鳴り響く。

「あ、ごめん尚。誰か来たみたい」
『うん。それ俺だから、開けてくれる?』
「……へ?え?なんて?」
『開けてくれる?』

   俺だから???念のためインターホンのカメラで確認をする。そこには尚の言葉どおりに尚が映っていた。それだけではない。スマホの通話を繋げたまま、慌てて鍵を開けてドアを開くと、困ったように笑った尚が目の前で通話を切った。

「ごめんね、こんな時間に」
「えっ、いや、あの、別に大丈夫だけど、いや大丈夫じゃないんだけど」

   いきなりのことに目を白黒させる。酔いが一気に覚めたような気がした。なんて言っていいのか分からなくて、何度もええと、ええと、と言い淀んでいると、尚は肩に腕を回している人物を連れながら「お邪魔します」と言って部屋へ上がり込んできた。尚がうちに来るのは初めてのことではないけれど、こんなことは初めてだ。

「ちょ、ちょっと尚!」
「夏也がナマエの家行くって聞かなくてさ。悪いけど一晩頼むよ」
「頼むよって!夏也って今尚の家に居候中なんでしょ?やだよ、困るよ、持って帰ってよ!」
「持って帰れっておまえなぁ、人を物みたいに言うなよな」
「ぎゃあ!!」

   なんの躊躇いもなく夏也をソファに下ろす尚に反論していると、問題となっている夏也に声をかけられて心臓と肩で飛び跳ねる。ばっと声のしたほうを見れば、さっきまで閉ざされていたはずの瞳はぎらりと私を見ていて、目が合うとさらに心臓がばくばくと跳ね続けた。なんで、こんなことに。さっきまで飲み会の楽しさに浸っていたのに。

「っ、尚!ってあれ!?」
「じゃあよろしくね」
「ああ!ちょっと待っ」

   目覚めた夏也に気を取られていると、いつの間にか玄関で靴まで履き終えていた尚は、無慈悲にドアをバタンと閉めて出て行ってしまった。しん、と静まり返った部屋。もしかしてこれは夢なのでは、と現実逃避をしながら向き直ってみても、夏也は変わらずそこにいて「ここがナマエの部屋か」なんて関心しながら、きょろきょろと部屋を見渡している。
   何故だ。何故こうなった。とりあえず、ひとまず、落ち着こう。数回深呼吸をしながらキッチンへ向かい、持っていたスマホは避けておき、コップのふたつ用意して水を注ぐ。節約したい大学生の家にミネラルウォーターなんてものは無く、都会の恵みである水道水だ。ソファのそばに置いてあるサイドテーブルにそれを置く。

「夏也、水飲む?」
「お、サンキュー。有り難くもらうぜ」
「………それ飲んだら帰ってよね。まだ終電あるから」
「なんだよ、つれねえな」

   いつもどおり、いや、久しぶりに会うのでいつもどおりと言っていいのかは分からないが、私が知っているままの夏也がそこにはいる。緊張を誤魔化すように水を飲むけれど、夏也はもらうと言っておきながら口にする気配が無い。

「ねえ、早く飲んでよ」
「飲んだら帰れっつうなら飲まねえよ」
「じゃあ飲まずに帰って」
「そんなに嫌なのかよ。俺がいるの」
「…っそ、そんなこと、」

   真っ直ぐ目を見てそう聞かれるので、思わず目を逸らして言葉を詰まらせた。と同時にキッチンに置きっぱなしのスマホが再び震えた。もしかして尚かもしれない。パタパタとキッチンへ向かってスマホの画面を確認すると、尚では無く、さっきの合コンで幹事をしていた男の子からだった。
   がくりと肩を落としつつも電話を取る。きっとグループメッセージを伝って電話をかけてきたのだろう。通話中の画面が切り替わるとすぐに『もしもーし!』と明るい声が音割れしながら聞こえてきた。酔っているからか、ボリュームが大きい。びっくりしつつ音量を下げて「はい」と返事をした。

『ナマエちゃん?起きてた?さっきはありがとね〜!』
「ううん、こちらこそ。今日は楽しかったよ」
『それは良かった!次に集まるときなんだけどさ、』

   スマホ越しに聞こえてた声がそこで急にぷつりと途絶える。それもそのはずだ。手にしていたはずのスマホは、いつの間にか隣に来ていた夏也の手に渡っていたんだから。えっ、と言葉を溢す暇もなく切られ、スマホには通話終了の画面が表示される。

「ちょっと!なに勝手に!」
「合コンの相手か?連絡先交換したんだな」
「ち、違っ、」
「何が違うんだよ」
「だから、個人的に交換したんじゃなくて、」
「お前が合コンなんて行かなきゃ、わざわざ来たりしねえよ」

   怒りを含んだ声色にびくりと肩に力が入る。強張って動けなくなった身体は、夏也に腕を力強く引かれて強制的に動かされる。されるがままになっていると、もう片方の腕も取られて少し乱暴にベッドに身体を押し付けられた。視界には見慣れた天井。それから見慣れない夏也の顔だけが映る。

「そんなに彼氏が欲しかったのか?」
「ちょ、っと、待って夏也、ねえ酔ってるでしょ」
「酔ってねえ」
「うそ!やだ、ねえ、夏也!」

   熱が籠ったような瞳がぎらぎらと、ゆっくりと近づいてくる。怖い気持ちと、残っていた未練が一緒に胸のなかで膨らんでいくのが分かる。距離が縮まるたびに増していくお酒のにおいは、どちらのものなのか分からない。吐息がかかる距離まで来たところで、はっとした。

「っ、夏也とこんな関係になりたいんじゃない!」

   掴まれている腕に力を込めながら、言葉を投げた。ぴたり、と夏也の動きが止まる。少しの安心を覚えたのも束の間。

「…………俺の彼女になれないって言ったのはナマエだろ」

   怒りを含んでいたはずの声から弱々しく、ぽつりと呟かれた。
   実は夏也と友達以上の雰囲気になったのは、これで二度目だった。半年前、春休みに地元である岩鳶に帰ったとき。ちょうど夏也も帰国していて、母校の水泳部合宿にOBとして参加したあと、一度実家に戻ると言うのでそのときに二人で飲みに行った。
   お酒の力と誰もいない夜の静かな雰囲気もあってか、居酒屋からの帰り道、私と夏也はどちらからともなくキスをして、人の通らない路地裏で深く深く口付けを続けた。お酒の力、なんて言ったけれど、もちろん相手が夏也じゃなきゃそんなことしない。夏也が同じだったかは分からない。分からないけど、次第に酔いが覚めていった私は夏也の肩を押して「夏也の彼女にはなれない」と言い残して、走って帰った。お酒の入った身体で全力疾走なんてするものだから、帰宅後はかなり具合が悪くなり、夏也からの電話は取らなかった。我ながらひどい女だと思う。
   きっと夏也は怒っているだろうと思って、そのあとの連絡もほとんど返さなかった。さすがにずっと無視することは出来なかったので、今日の尚みたいな誘いの文には「行けない」とだけ返事をする。友達以上のことをしてしまえば、友達ですらいられなくなってしまった。
   ずっとずっと大好きだったから、ずっとずっと友達でいたかったのに。そうしたらずっと、何があっても切れない関係でいられたのに。

「だって、夏也、すぐにどっか行っちゃうじゃん」

   ぼろり、と本音と涙がこぼれ落ちると、夏也が目を見開いた。

「すぐ手の届かないところに行っちゃうじゃん」

   もうあんな思いはしたくない。夏也はきっと知らない。中学三年生のとき、来年からアメリカに留学すると知らされた私の気持ちなんて。一年のときから夏也のことを好きだった私の気持ちなんて。
   進学した地元の高校で彼氏が出来ても、東京の大学で彼氏が出来ても、時折帰ってきては変わらず笑って力強く私のことを呼んでくれる夏也のことを忘れられなかった気持ちなんて。帰ってくるたびに、会うたびに今度はどこへ行くのか知らされて、何度も寂しいと思った私のことなんて。夏也はずっときっと知らない。分かるわけない。

「ごめんな」

   一度溢れた本音を止めることはもう出来ない。話の途中で夏也は腕を解放して、私の頭に回した手のひらごと自分の胸に押し付けるような形でやんわりと抱きしめてくれていた。言葉が止まり、嗚咽だけを漏らしていると、謝罪の言葉が降ってくる。

「けどな、ナマエだって分かんねえだろ。好きなやつと久しぶりに会うたびに彼氏がいて、酒が飲める歳になってやっとフリーになったって聞いたのに、彼女になれないって言われた気持ち分かるか?そいつが合コン行って目の前でその男と電話された俺の気持ち、分かんのかよ」

   触れている夏也の手のひらに力が籠るのが伝わってくる。お互いにアルコールは入っているけれど、お互いに嘘じゃないと、嫌でも分かってしまう。夏也は確かに抜けているところもあるけれど、お酒が入ったからといってその場の勢いでキスをしたりなんかしないと、私はよく知っている。

「ごめん、なさい」

   夏也の気持ちに、ちゃんと向き合おうとしなくて。
   続けてそう言えばゆっくりと夏也の身体が離れていく。床にしゃがみこんだ夏也はベッドに腰掛けたままの私の目をまっすぐに捕らえた。大事な話をするときの、夏也の顔。アメリカ留学を告げられたときも私が逃げ出す直前にもこの顔をしていた。

「俺は世界を目指すことに決めた。もしかしたら、その夢のためにまた寂しい思いをさせるかもしれない」
「………うん」
「けどその寂しさは、ナマエが他の男に取られることに比べたら、全然大したことねえ。距離が離れたとしても、気持ちはそう簡単に離れたりしねえよ」
「そんなの、私もそうだよ」
「ならいい加減言わせろ。ナマエが好きだ」

   力強い夏也の言葉。その声に何度惹かれてきたんだろう。こくこくと何度も頷きながら言葉を受け取っていると「悪い」と言う短い謝罪のあとで、視界いっぱいに夏也が広がった。ああ、あとで合コンと連絡先についての誤解を解かなければ。きっともう唇が離れても、罪悪感に苛まれる日は来ないだろう。

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   もうね、焦れったかったんだよね。ナマエはあからさまに夏也のこと避けるくせに、俺と会うと絶対夏也の話題出すし、絶対自分からは連絡取ろうとしないし、夏也はナマエのことになると弱気になるし、それなのに誘わないと嫌そうにするし、合コン行ったって知ったらもう、ねえ、本当、いい加減にして欲しかったよね。
   翌日、尚には直接二人で報告しようということでカフェに来てもらったのだが、何かが溜まりに溜まっていたのか、尚は捲し立てるように言葉を並べた。思い当たる節があったのは私だけではないのか、隣の夏也も申し訳なさそうに目を逸らしていた。

「けど良かったよ。末永く、お幸せに」

   そんな私たちを見て困ったように呆れたように優しく微笑んだ尚の言葉に、二人で顔を見合わせて笑ってから頷いた。



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