武蔵と小次郎

こんなはずじゃなかった。

俺は茹だる思考の中で、必死にそう言い訳をしていた。






「今日は斬り合いに来た訳じゃないんだ」

茶屋の前で遅い昼飯を食べている時分に、唐突に目の前に表れた小次郎はそう切り出して俺の目の前の椅子に腰かけた。
人形みたいに白い顔はいつも通りの表情をしていて、真っ赤な唇は相変わらず緩やかに弧を描いていた。

普段から考えの読めない男だ。今日みたいな気まぐれは度々経験している。気まぐれで斬りかかられている身にもなってほしいとは思うが。
突拍子もない出現や言動に動揺しない程度には、俺も奴に慣れてきたと言う事だろう。

「で?何しに来たんだよ」

最後の一口を頬張って、茶屋の娘に勘定をする。
そのまま立ち上がると小次郎もゆっくりと腰を上げた。

「別に、何って用があるわけでもないんだけどね」

はっきりとしない物言いに何かしこりを感じながら、変な奴だなとため息のように呟く。


今日は天気が良い。街道を川沿いにぶらぶらと歩くと小次郎も後ろからそれに続いた。
柔らかい風が頬を撫でる感覚が気持ち良い。本当に心地良い天気だ。

「いい天気だね」

同じ事を思ったのか、いつの間にか真横を歩く長身の男も長い髪を揺らしながら微笑んだ。
濡羽根色の髪が風に揺られてなびいている。普段は不気味な印象に傾く黒糸も、今はただ和やかだ。

「今日は鍛練日和だな」

思った事をそのまま口にすると、小次郎は君らしいねと言わんばかりにくつくつと笑った。

「僕は絶好の斬り合い日和だと思うけど」

「お前はいつもそうじゃねえか」

そうだった、と尚笑う小次郎は実に機嫌が良さそうだ。
顔を合わせる度に無意味な斬り合いを繰り広げてばかりで小次郎に対する印象はけして良くは無かったが、朗らかな様子を見ていると考えも変わろうと言うものだ。

正直、嫌ならば避ければ良いではないかとは思う。
だがなんと言うべきか、人を活かす剣を見せると宣言した手前なのか、俺はこの男を見捨てる事が出来ずにいる。
剣を交えた時に感じる途方もない哀しさ。放って置いてはならないと、頭のどこかで感じているのだ。それくらいこの男は危うい。


「たまにはこう言うのも悪くないね」

小高い山々が開けて目前には海が広がる。潮の香りを肺一杯に吸い込んだ時ぽつりと小次郎は呟いた。

「こうして何気なく君とお話……って、した事なかったもんね」

「そりゃそうだ。いつもいつもお前ときたら会えば斬りかかってばかりだからな」

楽しげに笑い合っていると言い知れぬ幸福感に包まれる。
出会い頭に、斬り合いの最中に俺が投げ掛ける言葉はいつも小次郎には届かなかった。今までで一度も奴の心を動かした事はない。
だからこそ、何気ない会話の中で、意志疎通が出来ている事が嬉しかったのかもしれない。


「そう言えば、お前」

「なに?武蔵」

「さっきは何もないと言っていたが、本当は何か用事があったんじゃねえか?」

海鳥が遠くで鳴いている。目線の先には小さな小島が見えた。
小次郎は曖昧な微笑を浮かべていた。ただ海鳥の降りた方向をぼんやりと見つめたまま、何も答えようとはしなかった。
俺ははじめに出来た胸のしこりが大きくなったのを感じながら、それ以上の追及はせずに終わった。






海鳥がしきりに鳴いている。
ばしゃりと大きな水音が響いて、それきり静かになった。

大きく揺れた水面が足にまとわりついていて重い。
緊張をほどくようにゆっくりと剣の構えを解く。らしくもなく手が震えた。

こんなはずじゃなかったんだ。
勝負には勝った。だがこんな意味もない仕合、勝ったところでちっとも嬉しくはなかった。
人を活かす剣。結局何も伝える事が出来なかったではないか。

気だるげに振り向くと真っ先に目に入ったのは鮮やかな赤だった。羽織の赤、傷口から溢れる赤。
真っ黒な髪が水に揺られている。あの時のような穏やかさなどは欠片もなくて、今はただ不気味だ。


俺は武器を砂浜へ投げ、倒れた小次郎を水面から担ぎ上げた。水を吸ってか他にも理由があるのか、ひたすらに重く感じた。
なんとか陸に上げ、真っ白な砂浜に横たえる。
理由は分からない。ただこの男の亡骸を放置するのは忍びなかった。

白い頬は血の気を失い青くもみえた。水に濡れた髪がべたりと顔に張り付いていて無惨だ。
ほんの気まぐれで顔にかかった髪を手でどかしてやる。


「……っ、?」

手が唇に触れたとき、違和感を覚えた。
わずかに持ち上がった期待と不安に心臓が跳ねるのを感じながら、そっと胸元に耳を寄せる。


心臓が動いている。

生きている。



生きている!


考えるよりも早く己がつけた傷口を両手で押さえた。指の隙間から鮮血が垂れるのも気にせず必死になって血を止める。
傷は自分の想像よりも浅く刻まれていた。己の剣に迷いが生じていたのか。そうだとすれば俺は。

身体は海水に浸され氷のように冷たい。早く止血しなくては。早く身体を暖めなくては。
死なれたくない。死なせたくないのだ。

「おい、目を覚ませよ!」

「俺はまだ、てめぇに伝えなきゃならねえ事がたくさんあるんだよ……ッ!」

「小次郎ッ!!」







ゆらゆらと海面を揺らして、舟は海上を進む。
櫂の軋む音が舟を伝って身体に響く。
舟は本土へ向かっていた。来た時よりも重く動きも悪いのは人数が増えたからだ。

無心で櫂を漕ぐ己の膝元に、ぐったりとした黒髪が横たわっている。天下無双の刺繍が入った空色の羽織を毛布のようにくるませてはいるものの、血の気の引いた頬はただただ寒々しい。
傷口は赤黒く固まってきていた。止血はなったが未だ目覚めてはくれなかった。
島で出来る事には限界がある。自宅に連れ帰った方がきっと良いはずだ。そう考えた故の行動だった。

「………」

俺はこの男を生かして何をしたいのだろう。
こいつは徳川に仕えている。幸村に加勢する自分とは敵対している事になる。豊臣側で小次郎に恨みを持っている人物は相当な人数いたはずだ。
豊臣に引き渡すか?だがそんな事はする気にはならない。

人を活かす剣を教える、確かにそう約束をした。だが本当にそれだけなのか。
放っておけない存在、確かにそう評価していた。だがそれ以上に何かあるのではないか。

悲しい生き方しか出来ないこの男を変えたい。
可哀想な小次郎を救いたい。
あの時聞けなかった答えだって、まだ聞けていない。
もしかしたら俺は、



「……ぅ…」

波の音に掻き消えてしまう位に小さな声。
くぐもった呻きにハッと我に帰る。

「小次郎!?起きたのか!」

櫂を握る手を離し身じろぐ小次郎を支えた。やがて緩慢に目蓋が上がり、そして見開かれた。
酷い顔をしている。信じられないものを見たかのような目だった。傷が痛むのか冷えているからなのか、ぐったりした身体が少し震えていた。

「……殺さなかったんだね」

地の底から絞り出したかのような低い声を出して、小次郎は俺を睨む。突き刺すような鋭い視線だ。既に終わったはずの仕合の感覚が蘇るように緊張感が背中を駆けた。
小次郎は理由を求めている。だが今はまだ、俺の中の答えが固まりきれていない。小次郎を納得させるだけの言葉など全く浮かんでいないのだ。


「…僕を生かしてどうするつもりなの?こんな人斬りを助けて、君は何か得をするかい?常に君の命を狙っているのに?」

「傷が癒えたらまた君に斬りかかるよ僕は。それとも何か理由でもあるのかな?例えば豊臣に引き渡すとか…」

「やめろ!」

塞き止めた水が溢れるみたいに言葉を紡ぐ小次郎を耐えきれずに止める。全てが耳に痛かった。小次郎の言い分は最もだ。


「そんなんじゃねえ、俺は…」

「……」

「答えが、知りたいんだ…」

あの時の答えが、己の心が、小次郎の心が。
霞がかったみたいに朧気な状態が、堪えられない。


苦々しくそう告げると刺さるような視線が徐々に無くなってゆく。小次郎は唖然として目を見開いていた。そして苦しげに一瞬だけ眉を寄せる。こんなに感情を露にした姿をみたのは初めてだった。

一呼吸の間を置いて、小次郎はやがて観念したかのように重く口を開いた。


「……前に君は質問をしたね。僕が斬りかからなかった日だよ、用事があったんじゃないかって、君は言った」

「用なんて本当に無くて、只君とお話したかっただけなんだ。君の声が聞きたくて、何気ない事を話しながら隣にいてみたかっただけ、」

「そしたら想像以上に心地好くて、楽しくて、今までに無いくらい心穏やかになった。それで気が付いた」

「僕は君の事がすきなんだ」

「でもそれじゃ駄目だ。僕は人斬りだ、斬る事しかできない。立場も思想も何もかも君とは正反対の存在なんだ」

「潮時だったんだよ。これ以上は僕が持たない、今まで積み上げた大事な何かが壊れる気がして。どうせ死ぬなら君に斬られるのが良いなって思った。
本気の斬り合いもできるし、丁度良いなって」


傷の痛みも忘れて小次郎は語り続ける。
淡々とした口調に反して瞳は段々と涙で滲んでいった。


「そしたら君、助けちゃうんだもん。おかしいよね、あれだけ散々追い回して斬りかかったのに君ってばさ……ほんと、おかしいよ」

「小次郎、」

「ねえ、今からでも間に合うよ。殺してよ。僕みたいなのに好かれても嬉しくないでしょ。
斬れなんて我が儘言わないよ、ここから落とすだけで良いから」

「勝手に完結させてんじゃねえ!」


ぱちくりと目をしばたいて小次郎は俺を見つめる。理解出来ないと言った風に眉を潜めた。
俺は気付いてしまった。あの時感じた違和感、そして迷い、助けた理由。

俺だって同じだったのだ。


「勝負に勝ったのは俺だ。てめぇの生き死には俺が決める」

「……生かしても君にはなんの利もないのに?おかしな武蔵」

「お前、俺の事がすきと言ったな」

「………」

「だったら文句言わずに生きてもらうぜ。俺の側でな」

「…………は?」


ぽかんと口を開けて間抜けな声を上げる小次郎を真剣な瞳で見つめる。放っておけない相手から救いたい相手に、見過ごせない相手に意識は移っていった。
己でも気が付かない感情に対して剣は実に正直だった。


「いつの間にか、出来ちまってたんだよ
斬り捨てれない位大事になっちまった情が」

「俺だって同じだったんだ」

「だから生きろ。俺だけを見ろ。それで尚斬りたいんだったらいつでもかかってこい、受けて立つぜ」


小次郎からの返事はなかった。堪えるように唇を噛んで俯いたまま、何も答えようとはしなかった。
ただ長い睫毛に塞き止められた涙が、すべてを物語っていた。





舟は未だ海上を進む。
本土はもうすぐそこだった。
空色の羽織に顔を隠した小次郎はあれから何も言わなかった。眠っている可能性もある。時々脇腹を擦るように身じろぎをしているから、痛みが戻ってきたのかもしれない。
自宅に戻ったら手当てをしよう。消毒をして包帯を巻き、布団に寝かせてやろう。きちんとした話は、傷が治った後でいい。


「……おかしな武蔵、君に言わなきゃいけない事があったね」

唐突な発言に少々心臓が跳ねた。
いつから起きていたのか、それともはじめから眠ってなどいなかったのか、顔をみせないまま小次郎は呟いた。

「おかしな、って付けるの止めろよ」

「だって本当におかしいもの、武蔵は変な人だよ」

「あのな……」

「武蔵」


あの時のような柔らかい声。
ちらりと見えた目尻は赤かった。


「ありがとう、武蔵」



「君が僕と生きたいと言ってくれたから、僕ははじめて呼吸ができたんだ」










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相方からのお題に挑戦しました

相思相愛にしたくて頑張ったら予想以上に甘くなった


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