司馬懿と張コウ





「必ず生きて戻って参ります」

そう言っていつもと同じように柔らかい微笑を浮かべ、次に深々と拱手をして私に背を向けた。なんて事のない、いつもの光景だ。この者はどれだけ己が功績を上げても位が上がっても、自らの腰を低くする姿勢を変えようとはしない。この時も常日頃と変わらぬ微笑みと行動で私の元を離れていったのだ。

己の発言にしっかりと責任を持つ男だった。一度宣言した言葉は全て忠実に守りきる男だ。だから私は何の心配もしていなかった。
生きて戻ると言ったのだ。必ず帰ってくるに決まっている。


日が傾き世界が真っ赤に染まっていた時分、己の発言通り奴は戻ってきた。だが怪我をしていた。無傷で勝利する事の多いこの男が、それを美学とするこの男が、傷だらけで帰ってきた。追撃部隊は壊滅したのだと言う。申し訳ありません、と掠れた声で呟く言葉を遮った。弱々しい声など聞きたくなかった。
私は女官に傷の手当てを優先させるよう命令し、何の言葉もかけず軍師としての仕事を優先させた。矢傷を受けた身体を、みていたくなかった。


奴は眠っていた。膝に受けた矢が特に深く、高熱を出して倒れたのだそうだ。成すべき事を一区切りさせた私は寝台の前で眠る様子をただ眺めて、頭の中に浮かぶ様々な感情や小言を全て退け、ほうと吐息を漏らした。そうして噛み締めるように「よく戻ってきた」と意識のない奴に打ち明けたのだ。早く起きろと心の中で祈った。声が聞きたかった。そうしていつものように微笑んでほしかった。本心で、そう思ったのだ。だが、

奴が目覚める事は、もうなかった。




もっと好きと言ってやればよかった。嫌になるほど抱き締めて、何度も何度も大事に想っていると打ち明けてやればよかった。何気ない毎日をもっと大切にすればよかった。お前と暮らした時間を尊ぶべきだった。
思えば思うほど止めどなく後悔ばかりが襲ってきて、そうして感じたのは奴の存在の大きさだった。心に風穴が空いたような喪失感が延々と続き、ひとりきりの自室のあちこちに奴の痕跡を嫌でもみつけ、そうして何度も、もうお前はいないのだと理性が私にぽつりと囁くのだ。
時間は残酷にも流れて行く。心だけが取り残されたような気がして、あの時と同じ燃えるような空を見上げ瞳を閉じた。










「…………殿」

「……懿殿、」


「お目覚めになってください、司馬懿殿」


穏やかな声が聞こえ、重い瞳をこじ開ける。寝台に横になっている私の目の前で、張コウが花が綻ぶような微笑みを浮かべていた。ふと窓に目をやると鮮烈なまでに赤い空が視界に映り、混濁した意識が更に混乱したような気分になってしまう。

ぼんやりと見つめていると、「仮眠をとられると聞いていたのですが、なかなかお目覚めにならないとの事でしたので……思わず訪ねてしまいました」などと微笑を浮かべたまま張コウは呟く。段々と意識が明瞭になり、自分が執務の区切りがついた段階で仮眠をとっていた事を思い出した。張コウにそれを伝えた記憶は無いが、こいつは何をしていても勝手に部屋に入り込んでくるような男であった。そう、勝手なのだ、この張儁乂と言う男は。


「司馬懿殿……?お身体の具合が優れないのですか?」

私が一言も言葉を発しない事に疑問を覚えたのだろう。不安げに私の顔を覗き込み、心配そうな声色で私の事を案じていた。私は何も答えてやらぬまま、この勝手な男の襟を乱暴に引いて胸に抱きすくめた。耳元で戸惑いがちに名を呼ばれている。長く美しい髪がさらさらと流れている。重なりあった肌から、血の流れている確かな温度と鼓動を感じる。今お前は生きている。確かにここにいる。


「夢をみたのだ」

「夢、ですか?」

「……張コウよ」

「はい、」


夢をみた。お前がいなくなる夢を。
恐ろしくて苦しくて、胸に風穴があくような夢だ。きっと私はあの"残照"を目にする度に思い出すのだろう。故にここに誓わねばならぬ。私は確かにお前をあいしているのだと。故に理解してもらわねばならぬ。私の心に勝手に居座り、私を酷く脆弱にさせたのはお前なのだと。
だから責任をとってもらわねばならぬ。


花よ、私の袂で咲け。






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空想アリア様の、漢字2文字で100題より「残照」

死ネタは悲しくなるので苦手なんですが司馬蝶って史実鑑みると切っても切り離せないからテンション↓↓↓ 今後のテンションに関わるので早々に昇華しておく事にした。

司馬懿は表には出さないけどメンタルすごい弱そうだなと
イメージソングはやなわらばーの「夢を見た」で



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