「何か飲み物を入れてくるから不動は先に行って部屋で待っていてくれ」
玄関で迎えられ軽く挨拶を交わし、靴を脱いで家の中に上がった不動に鬼道はそう告げる。その言葉に頷いて不動は行き慣れたいつもの鬼道の部屋へ向かった。
相変わらずデカい家だ。
毎回ここへ来るたびにそんなことを思う自分にも飽き飽きしながら不動は見慣れた廊下を進む。
計算されて作られたであろう壁や床の装飾は金持ち特有の嫌味が無く悪くはないが、塵一つない念入りに磨かれた廊下はいつになっても落ち着かない。しかしそれ自体も不動には慣れたことで、構わず光る床を踏みしめ闊歩する。
ふいにこの雰囲気をぶち壊すようなレモンイエローが不動の視界を掠めた。足を止めてその正体を窺う。
それは拳1つ分くらいの大きさの薄汚れたゴムボールだった。
どうしてこんなところに?不動は首を傾げながらそれに近づく。
手を伸ばして拾おうとする。が、一端その手を止め眉間に皺を寄せボールを見つめる。
待て待て自分。不動は自分によく考えてみろと脳内で語りかけた。金持ちの思考は分からない、もしかするとこんな一見汚いゴムボールにしか見えないものが高価な調度品かもしれない。有名な芸術家が作った作品かもしれない。手を滑らせて傷でもつければ最後、高い修復費用を払わされるだろう。
色々と頭を巡らせた結果触らぬ神に祟りなし、と不動は元の廊下を歩き始めた。
そんなこんなあって不動は鬼道の部屋の前に着いた。いつもと同じ色合い大きさの扉だ。ドアノブを握り扉を開く。扉はいつもと同じだった。そしていつもと変わらぬ筈の部屋のある一点を見て不動は固まった。
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お茶の入ったグラスを盆に乗せて自分の部屋まで行くと、なぜかドアノブに手をかけ突っ立っている不動がいた。
「どうしたんだ?」
傍まで寄って尋ねてみると、視線を扉の向こうに固定したまま不動が答える。
「鬼道ちゃん、鬼道ちゃんの部屋になんかでかい毛玉がいる」
すっと差し出された不動の人差し指の先を辿ると2人掛けのソファーがあり、そして確かにその上には不動が言う"デカい毛玉"がいた。
その毛玉はツヤツヤと輝くクリーム色をしていて頭にはペタンと垂れた耳、そしてフサフサとした尻尾が付いていた。世間一般では"犬"と呼ばれている生き物だ。
「あぁ、見かけないと思ったらこんな所にいたのか」
固まっている不動をよそに鬼道は何でもないように言った。そして別に飼い始めたわけじゃないぞ、父親の知り合いから留守の間だけ預かって欲しいと頼まれたんだ、と簡潔に説明した。
「へぇ」
「まぁ、取り合えず中に入ろう」
こんな所に突っ立っているのもどうかと思い、鬼道は不動に中に入るよう背中を押した。
部屋に入れば今までソファーの上を陣取って寝ていた犬が扉の閉まる音に気がつきひょっこりと顔を上げた。
鬼道の手にあるお盆に気付き、何か旨いものでも持ってきたと思ったのかソファーから飛び降り近づいてくる。鼻をフンフンと鳴らして甘えたように足に擦りよる犬の頭を撫でてやれば尻尾を振って喜びを表現する。実に素直で可愛い生き物である。
鬼道はズボンのポケットから黄色のゴムボールを取り出す。犬を預かる時、これで一緒に遊んであげて下さいと飼い主から渡されたものだ。ここに来た最初の内はそれで遊ばせていたのだが、犬がくわえてどこかへ持っていったきり見なくなっていたのをさっき自室に向かう途中ひっそりと廊下の隅に落ちているのを見つけた。
それを犬に向かって投げてやる。
一瞬不動が変な顔をしたからどうしたんだ?と聞くと別に…と素っ気なく視線を反らされた。何かあったんだろうか。
転がるボールを口でキャッチし、鬼道の下に駆け寄ってもう1回投げてくれと尻尾をちぎれるんじゃないかというぐらい振って催促する犬にまたボールを投げてやると小さくない体を存分に跳ね回しながら追いかける。それを捕まえるとまたキュンキュンと鳴きながら鬼道のもとへと持ってくる。
「まだ子供だから甘えたがりなんだ」
この体でまだ大きくなるのか。鬼道の言葉にそう言いたげな顔を不動が見せると今までボールに夢中になっていた犬が不動の存在に気づき、まさに興味津々といったように不動に近づいていく。
「おわっ」
迫る犬に不動が後ずさった。
「もしかして怖いのか?」
鬼道がそう尋ねると不動は一歩分開いた距離を縮めて答えた。
「怖くねぇよ。こんなに近くで見るのが初めてなだけ」
「そうか、強く噛みついたりしないから安心しろ」