06 住宅街の中でもひときわ縦長の家の一階に、『彩菜堂』と書かれた看板が掛けられていた。 「それ、母親の名前なの。あやな、で、さいさいどう」 安易よね、とゆりこさんは言った。 彩菜堂に入って一番に驚いたのは、壁一面に揃えられた本の多さにではなく、謙也がいたことにだった。 謙也の方も、まさか俺がゆりこさんと一緒に入って来るとは思っていなかったらしく、ドアのベルがチリンチリンとなった瞬間、俺達は揃って素っ頓狂な声を上げた。 「ね、来て良かったでしょう」 ゆりこさんの口調は素っ気なかった。 店内には他に三人お客さんがいた。 どの人も常連らしく、ゆりこさんと親しげに会話を交わしていた。 すすめられた席に座りながら、俺は謙也をまじまじと眺めた。 淡いブルーのシャツに黒のパンツ、腰には紺色のエプロンを巻いている。 「…たまにバイトしてんねん。ここで」 謙也は照れ臭そうにそう言った。 「似合っとる」 と俺は正直な感想を口にする。 「俺より侑士の方が似合っとるんやけどな」 「侑士くん?」 「あいつもここで働いとんねん。今日はおらへんけど」 「へえ」 テニスの大会で何度か顔を合わせたことのある、謙也のいとこを思い浮かべる。 丸い眼鏡をかけて、少し青みがかった黒髪で。 確かに侑士くんは、ここの制服が似合いそうだ。 「何にします?」 と言って、謙也がメニューを渡してきた。 似合わない、少し丁寧な口調に笑いそうになってしまう。 「…笑うなや」 あれ、実際に笑ってたみたいや。 「えーっと、おすすめは?」 誤魔化すように、そう訊ねる。 「ゆりこさんの淹れるコーヒーは美味いで」 恥ずかしくなったのか、謙也は店員としての仕事を一つ放棄したようだ。 「じゃあ、それで」 「季節のロールケーキも美味いで」 「じゃあ、それも」 よく見ると、メニューのほとんどが頭に「季節の」と付いていた。 季節のフルーツタルト、季節のハーブティー、季節のスープ、季節のサンドイッチ。 要するに、決まってませんその日の気分です、ということなんだろう。 ゆりこさんの淹れてくれたコーヒーは、本当に美味しかった。 ロールケーキは苺が主で、生クリームの中でその存在を存分に主張していた。 俺は壁一面の本から適当に一冊を抜き出し、コーヒーとケーキを交互に口に運びながら読み進めた。 その一冊を読んでいる間に、新しいお客さんが五人来て、四人帰って行った。 謙也は店を行ったり来たりしながら、ちゃんと働いていた。 少し先を越された気分になった。 俺にはまだアルバイトの経験が無い。 謙也は時々、俺のところに来ては、「コーヒーおかわりサービスや」とか、「その本面白いんか?」とか言ってきた。 俺もたまに本から顔を上げては、謙也にちょっかいをかけた。 ゆりこさんも時折奥から出てきてお客さんと話しているようで、俺と謙也が喋っていても、注意も何も言ってこなかった。 だから、ゆりこさんが店内で話しかけてきたのは、俺が本を読み終わって閉じた時が初めてだった。 「あ、読み終わったんだ」 ちょうど隣のお客さんが帰った後で、彼女はテーブルを拭いていた。 「随分と長かったね」 ゆりこさんの口調は嫌味っぽくはなく、どちらかというと関心しているようだった。 壁にかかった時計を見ると、三時間近く経っていた。 どう考えても居すぎだった。 「あー…謙也と一緒に帰ろうかなあ思って、待ってようかと思ったんですけど…」 と俺は一応遠慮がちに言ってみる。 謙也は奥の方に行っている。 「ああ、なるほど」 ゆりこさんは合点がいったというように、頭を縦に二度揺らした。 そして奥に向かって、「おーい」とのんびりと叫ぶ。 「おーい、謙也くん」 「なんですか?」 少し慌てた様子で、謙也がやってきた。 洗い物でもしていたのか、エプロンで指を拭いながら。 「もう今日は片付けだけだし、上がって良いよ」 「えっ!ええんですか?」 「白石くんが、君と帰ろうって待ってたみたいだし」 しれっと、ゆりこさんは怖ろしいことを口にした。 それを本人に向かって言うか、普通。 と思ったが、彼女は俺と謙也の関係について知らないのだからしょうがない、とすぐに思い直す。 友達が友達を待っていた、とかそんな風に思ったんだろう。 …いや、それ以外に何がある? 昔は付き合っていたけど、俺と謙也は今は正真正銘、ただの友達に違いなかった。 それなのに、なぜ俺は謙也を待っていようと思ったんだろう。 分からなかった。 謙也の方を窺うと、少し驚いた顔をしていたけど、すぐに「おおきになあ」と溢れるような笑顔を見せた。 心臓がぎゅっとしぼられたように痛くなったのを、俺は必死に知らんフリをした。 [←] | [→] |