03 俺は一人、アパートの廊下に立ちつくしていた。 どういうことや。意味が分からん。 以前謙也は、確かにここに住んでると言っていた。 この202号室に。俺の隣の部屋に。 現に今日まで何度も、この廊下ではち合わせになっている。 にも関わらず、管理人のおじさんは「ここには誰も住んでない」と言う。 まさかおじさんが俺に嘘をついて、からかったわけでもないだろう。 おじさんの言ったことはきっと本当なのだ。 だとしたら嘘をついたのは謙也の方ということになる。 でもどうして?何のために? 頭の中を、様々な憶測が飛び交う。 その時、タン、とコンクリートを踏む音がして、はっと意識が元の場所に戻った。 コンビニのビニール袋を右手に提げた謙也が、階段を上がってきたところだった。 202号室の前にいる俺に気づくと、慌てたように近づいてきた。 「あ!白石!あんな、さっきまで部屋いてんけど……今!コンビニ行っててな、それでお前の部屋に行こうと……っ」 なぜ。全てが白々しく聞こえた。 話を遮るようにして、俺は謙也の左腕を掴んだ。 「……っなに」 「嘘やろ」 「え?」 「全部、嘘やったんやろ」 そう言った自分の声は、まるで遠いどこかで響いているようだった。 自分じゃない誰かが、謙也を責めようと口を開いている感覚だった。 俺が何を言っているのか分からないのか、謙也は困惑している様子だ。 更に言葉を続ける。 「さっき管理人さんに聞いたんや。この部屋には誰も住んでへんて。ここに住んでるっていうの、嘘やったんやろ」 途端に謙也の顔が、さあっと青くなった。 目を見開いて、固まったように動かなくなった。 「何で嘘ついたん?」 問いかけると、謙也はびくりと肩を震わせた。 あ、と小さく声を漏らしただけで口を閉ざすと、弱々しく首を振る。 そして次の瞬間、腕を掴んでいた俺の手を振り払うと、背を向けて走り出した。 「……っ謙也!」 急いで俺もその後を追う。 階段を転がるように下りて、道路を全速力で走った。 なんでサンダルにしたんやろ。阿呆や。 めっちゃ走りづらい。 前を走る謙也が持ったままのコンビニの袋が、がさがさと派手な音を立てている。 「あっ!」 その音が俺の記憶を再び呼び覚ました。 いつかもどこかで、こんなことをしてはいなかったか。 そうや。 中学三年になったばかりの春。 俺が謙也に告白した日だった。 あの日も今みたいに、走る謙也を追いかけていた。 確か、女の子とコンビニから出てきた謙也に嫉妬した俺が、思わずきつく問い詰めてしまったからだ。 答えに窮しその場から逃げ出した謙也を、俺が追いかけたのだ。 さんざん走り回って、ようやく捕まえて、「好きや」って何度も言って。 普段なら足の速いお前に、俺が追いつけることなんて無かったのに。 きっと謙也はあの時、わざと力を抜いて走っていたんだ。 俺が追いつけるように。 目の前の謙也の腕に手を伸ばした。 中学三年生の日に焼けた腕より、やや色素の薄い腕。 俺が今も追いつきそうなのは、あの時から四年も経っているからなのか、それとも。 謙也の腕に人差し指が触れる。 ゆっくりと、爪の先から。 世界が止まったような気がした。 俺と謙也以外の全てが止まってしまったような。 「スローモーションだ」誰かの声が聞こえた。 ぎゅっと腕を掴んで、自分の方へ思い切り引っ張った。 謙也が背中から倒れ込んでくる。 なぜだかこの瞬間を、一生忘れないような気がした。 [←] | [→] |