ひねもす | ナノ

04



幻聴じゃなかった。
謙也は本当にすぐに来てくれた。
ピンポンピンポン、とけたたましくチャイムが鳴ったのを聞いて、俺は壁をつたい、ほとんど這うみたいにして玄関まで行った。
「うわ…っ」
ドアを開けてすぐ倒れ込んだ俺を、びっくりしたような声を出しながらも、謙也が咄嗟に受け止めてくれた。
でも堪え切れなかったのか、そのままずるずると玄関に座り込む。
「あつ!って白石!大丈夫か!?ちょっと待ってな!今病院連れてったるからな!」
謙也が片手で俺を支えながら、どこかに電話をかけはじめた。

走ってきてくれたのか、謙也の身体も少し熱かった。
俺の身体はもっと熱いんやろか。
ぼうっとした頭の上では、謙也の声が断片的に聞こえていた。

「すぐにタクシー来てくれるからな?もうちょっとの我慢やで」
謙也の柔らかい息が頬にかかる。
いつの間にか電話は終わったようだ。
「あっ、タクシー来るまで、ベッドで寝てるか?」
大丈夫や、と言おうと思ったのに、やはり声は出なかった。
代わりに、弱々しく首を振った。
このままがええ、と思った。
ずっとこのままやったらええのに。
とん、とん、と一定のリズムで聞こえてくる謙也の心臓の音が、なぜか耳に心地良かった。


結局、俺は新型のインフルエンザだった。
診察室で細長い棒のようなものを口に突っ込まれて、涙が出るほど痛かったけど、すぐに流行りの新型インフルエンザだと診断され、薬をもらうことが出来た。

待合室のソファに座り、再び呼んだタクシーを待っている頃には、薬の効果はまだだろうが、薬を飲んだという安心感からか、俺はずいぶんと楽になったような気がしていた。
黒い革張りのソファも固いが、ひんやりと冷たくて、触っていると気持ち良かった。
なにより一人じゃないので、心強かった。

「ごめんな」
隣に座った謙也に向けてぽつりと溢すと、謙也は少し驚いたような顔をした。
「ええよ。こんくらい」
「でも、迷惑かけてもうた」
「あのなあ……」
謙也は呆れるような苦笑いを浮かべたが、そのうち、「そうや」と思いついたような口ぶりで言った。
「前にゆりこさんが話してくれたんやけど」
「……ん?」
俺はまだ少しぼうっとする頭で、謙也の話を聞いた。

「今の地球温暖化で、誰が一番貧乏くじを引いたか知ってるか、って」
「……誰やろ」
「しろくま」
その言葉に俺は、遠い北極にいる、まっ白いくまのことを思い浮かべた。
「フロンガスがオゾン層を破壊して、地球の温度を上げてるんやろ?でも、そのせいで北極の氷が溶けてるなんて、しろくまには想像もできん話やんな。人間やって、すぐには信じられへんかったのに」
「まあ、せやな」
「しろくまに分かるのは、ただ足場が少なくなっとるちゅうことだけやんな。毎年毎年、またちょっと減ったな。なんでやろう、なんでやろうって、首を傾げとんねん」
北極の地で、なんでやろうと首を傾げるしろくまの頭には、フロンガスなんて思いつきもしないだろう。
「もっと時間をかけて、例えば千年かけて北極の氷が溶けていったなら、しろくまにだって、なんとか出来たはずやねん。どうにかしようって頑張ってな、氷が無くても生きていけるように、進化したかも知れんねん」
「うーん……とりあえず、その話のゴールが俺には見えへんのやけど……」
一応は遠慮がちに口を挟む。
俺のインフルエンザとしろくまの不運に、一体どんな関係があるのか。

しかし謙也はあまり気にする様子もなく、続けた。
「しろくまには、地球温暖化はどうにも出来んことやねん。ゆりこさんが言うには、世の中には、どうにも出来ないことと、頑張ればどうにか出来ることの二つがあるんやって」
「はあ……」
頷いてみるが、例えとしてはかなり分かりづらかった。
謙也はどんな場面で、ゆりこさんにこの話をされたんだろう。
気になるところだ。

「今日の白石のは、どうにも出来ないことやろ?」
「え?」
「やから、どうにも出来ないって思ったら、もっと周りを頼ってもええんちゃうかな」
俯いて話す、謙也の表情は分からない。
「白石はしろくまやないから、助けてってちゃんと言えるやろ?」
と冗談めかすように加える。
そして静かにこう言った。
「少なくとも、俺には頼って欲しかった」
心臓が大きく跳ねた。
俺は咄嗟に言葉が出てこなくて、謙也と同じように俯いた。
じっと自分の膝を見つめ、心を落ち着かせた。

しばらくしてから、膝を見つめたままで、うん、と口にした。
思ったよりずっとしっかりとした声が出て、少しだけ安心する。
「今度は一番に謙也を頼るわ」
「そうしてや」
と言って謙也が顔を上げ、微笑む気配がしたけれど、それを見ることは出来なかった。
どうしても、俯いた顔を上げられなかった。
だって俺はきっと、とても情けない顔をしている。


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