屋比久が去った事務所には、俺と契約社員の彼しかいないので、とても静かだった。 他の社員がどうしているのかは知らない。 どこかで誰かの腕を折っているのかも知れないし、その逆かも知れない。 昔、俺がそうしていたように、怪しげな薬を売っているのかも知れない。 この会社では、あまり他の社員と顔を合わせることは無い。 ここのような事務所がいくつもあり、優秀な社員、と屋比久は言った、には一つずつそれが割り当てられるそうだ。 社員同士で協力して仕事をすることもない。 そうしているやつもいるのかも知れないが、俺はない。 社員の全てを把握しているのは、屋比久だけだった。 屋比久がそう言っていたのだから、間違いない。 「あの」 と契約社員の彼が話しかけてきた。 「どうした」 「さっき屋比久さんが言ってたあそこって…」 「知りたいのか?」 「あ、はい。僕、まだこの業界のこと、よく知らなくて」 この業界、という言葉は屋比久も良く使うが、あまり良いとは思えない。 それでは、ここがまともな場所のようではないか。 「水蜘蛛、という会社なんだ」 と俺は説明する。 実際にそういう名前かどうかは知らないが、俺たちは皆そう呼んでいた。 「毒を作って、売る会社だ」 「毒」 と契約社員の彼は繰り返す。 「腕は良い」 と俺はなぜかいらない情報を口にする。 「うちもよく利用させてもらっている」 「毒をですか」 「毒、というよりは、睡眠薬だな」 前に見た、真ん中に赤い点のついた白い錠剤と、粉を思い出す。 「少量でも強力で、無味無臭。かつ、即効性のある睡眠薬だ」 「そんなものあるんですね」 「ある」 と断言する。 実際にそれを使われて眠る人間を見たのだから。 「毒はあまり買わないな」 「そうなんですか」 「毒で殺すことは、楽しみが減ることだと思っているらしい。うちの社長は」 「なるほど」 と彼は納得したような声を出す。 「こわいんですよね、社長さんって」 「だろうな」 と答える。 「僕、まだ一度も会ったことがないんですよ」 「俺もない」 「え!」 と契約社員の彼は大きな声を上げた。 「そ、そうなんですか?」 「ああ」 そうだ。 俺は一度も、社長にも弟にも会ったことはなかった。 ただ、ほとんどの社員がそうらしい。 俺が会った数少ない社員たちの中で、直接社長と弟に会ったことがあるのは、屋比久だけだ。 俺が弟をまだ殺せていないのは、そのせいだ。 社長も弟も、どこにいるのか分からない。 分かっているのは、貞治を再起不能にしたのが弟だということだけだ。 殺す準備は出来ている。 機会が無いだけだ。 「意外です。柳さんって、上の方の人間だって聞いたから」 「信頼されていないんだ」 「まさか」 契約社員の彼が笑う。 いや、本当に。 「まあ、その水蜘蛛と弟が、揉め事を起こしたわけだ」 「揉め事、ですか」 「商品を納めた納めてないで」 実際にどちらが正しいのかはしらないが。 「要はクレームだな」 「モンスタークレーマー?」 と彼は呟いた。 俺はそれには首を傾げる。 モンスタークレーマーというのは、まともな会社でのみ適用されるのではないか、と思った。 「それで、柳さんの登場ってわけですか」 「そうだな」 彼の言い方が可笑しくて、思わず笑ってしまう。 ヒーローが登場、みたいだ。 暴力的であるにも関わらず、この業界は契約を特に大切にしていた。 縛られている、と言っても良い。 契約違反はこの業界では大罪なのだ。 しつこいようだが、この業界では。 仕事を切り上げて事務所を出たところで、携帯電話の着信音が鳴った。 いつもは常にマナーモードにしているので、一瞬、自分のものだとは気付かなかった。 昨日酔っ払っていたときに解除したのだろうか。 画面を見た瞬間、眩暈がした。 けいご、とひらがなで表示されている。 酔っ払っていたときに登録したに違いない。 無視をするわけにもいかず、通話ボタンを押す。 「もしもし」 「よう」 跡部のよく通る声が聞こえた。 「お前、腕時計忘れただろ」 [←前へ] | [次へ→] |